第3話 侵食する澱み

 住宅入居から三年後――


 まだ空には星がまたたいている早朝、居間に置かれたソファで誰かが毛布をかぶって寝ている。狭い寝床でモソモソと寝返りを打っているのは真一だ。

 テーブルの上に置いてあったスマートフォンの画面がぽっと光る。その瞬間、真一はアラームを止めた。目覚めの音楽である「カノン」は一音も流れなかった。スマートフォンに表示されている時刻は午前四時三十分。すぐに身体を起こした真一は身支度を整え、いつものエプロンを身に着けた。

 まずは、ふたりを起こさないよう、音を立てずに乾燥モップで家中を拭き掃除。それが終われば、トイレ掃除と風呂掃除。時折美咲が掃除をしておいてくれるのでかなり助かっている。

 掃除が終われば、朝食とお弁当作り。午前六時、ご飯が炊けたと炊飯器がピーピー鳴り出した。それを合図に、先にお弁当作りをしなければと、真一は急いでおかずを作っていく。今日は卵焼きとウインナー炒め、ブロッコリーにプチトマトだ。

 そろそろ美咲が起きてくる時間。その前に朝食を作る必要がある。昨晩から解凍しておいた塩鮭を冷蔵庫から取り出し、焼き始め――


「お父さん、おはよう」


 ――今朝は間に合わなかったようだ。時間は午前六時三十分過ぎ、美咲が起きてきた。身支度もすでに整えており、中学校の制服であるセーラー服姿だ。

 美咲は中学一年生になっていた。黒髪のポニーテールはそのままに、優しく可愛い女の子に育ってくれた。美少女と言っても過言ではない、と思っている真一。親バカである。


「美咲、おはよう。今、鮭焼くから少しだけ待っててくれるか。ごめんな」

「大丈夫だよ。いつもありがとう」


 申し訳無さ気な美咲に、笑顔を返す真一。塩鮭を焼いている間に、下ごしらえしておいたほうれん草のお浸し、わかめの味噌汁をささっと作り、テーブルに並べていく。


「わぁ、美味しそう!」

「美味しく出来たかは分からないけどな」


 焼き上げた塩鮭を皿に乗せて、ほかほかのご飯をよそった可愛い花柄のお茶碗と共に美咲の前へ。


「ほら、冷めないうちに食べて。今、お茶入れるから」

「うん、いただきます!」


 お茶をふたつ入れて、美咲の向かいに座る真一。

 美味しそうに食べる美咲を幸せそうに見ている。


「お父さん、美味しいよ!」

「そっか、良かったよ」

「お父さん……」

「ん?」

「ありがとう……」

「たまには和食もいいもんだな」


 真一は、笑顔を浮かべて美咲の頭を撫でた。


「ねぇ、朝はパンって言ったじゃない!」


 ダイニングキッチンの入口で早朝から大声を上げたのは、亜希子だ。

 その表情は怒りを隠していない。


「あぁ、ゴメン、ゴメン。たまには和食もいいかと――」

「早くパン焼いて。あと、コーヒーも。大体、誰の許可得て和食とかにしてんのよ。勝手なことしないで」


 真一の言葉にかぶせて文句を言い放つ亜希子。


「私がお願いしたんだけど。和食が食べたいって」


 美咲は、母親の亜希子に楯突くように声を上げた。

 亜希子を睨みつける美咲。


「……チッ。準備できたら呼んで」


 亜希子はまた二階の寝室に戻っていった。


「クソババァ……全部お父さんにやらせて……」


 美咲の顔が怒りに歪む。


「こら、美咲。お母さんのことをそんな風に言ったらダメだ」

「お父さん……だって……」

「ほら、早く食べちゃいな」


 真一は食パンをトースターに入れ、電気ポットでお湯を沸かし始めた。


「あ、美咲。週末に愛香ちゃんと遊びに行くんだよな。愛香ちゃんのお父さんが車出してくれるんだろ。お礼は改めてするから、よろしく言っておいてくれな」

「うん、わかった!」

「食べ終わったらそのままでいいぞ」


 真一の言葉を無視して、使った食器を流しへ運ぶ美咲。


「お父さん、食器は流しに置いておいて、帰ったら洗っておくから」

「美咲、無理しなくて――」

「私が洗うから! 無理しないでは私のセリフよ」

「……ありがとな。ほら、お弁当忘れるなよ」


 真一からお弁当を受け取る美咲。


「今から卵焼きが楽しみ〜♪」

「砂糖入れ過ぎたかも……悪いな」

「あははは! じゃあ、いってきます!」

「車に気を付けてな」


 学校へ向かう美咲を笑顔で送り出す真一。

 そして、その顔は二階に続く階段の先に向けられた。顔から笑顔は消え、少し辛そうな何とも形容し難い表情を浮かべている。


 二年――


 亜希子がパートを始めてから二年。たった二年で亜希子は変わってしまった。最初は週に一度か二度程度の出勤だった。夕方には帰宅して、普通に家事をこなしていた。

 しかし、セールの準備、棚卸など、帰宅の時間はどんどん遅くなっていく。真一は、無理をするなと亜希子に話をしたが、仕事が楽しいからと笑顔でかわされた。

 気がつけば、出勤頻度がどんどん高くなっていき、帰宅が遅い時も多い。その頃から徐々に家事をしなくなっていき、家のことも真一が対応するようになっていった。

 週末は疲れたと寝室から出てこず、眠れないからと真一は寝室への入室を拒否された。居間で寝ていたのはそういう理由だ。

 ここ一年は、真一や美咲を邪魔者扱いするようになっていた。それでも美咲は、母親である亜希子に寄り添おうとしていたが、昨年決定的な亀裂が母娘の間に入った。女性にとって極めてデリケート、かつ大切な相談を美咲から持ちかけられた亜希子は、それを父親である真一に相談しろと丸投げしたのだ。自分の身体が大人の女性へと変わっていく恐怖と戸惑いに、美咲は泣きながら真一に相談した。もちろん真一は真摯に受け答えたが、絶対に父親には相談したくない事柄だろうし、知られたくもないはずだと温厚な真一も怒りを爆発させた。しかし、亜希子は謝るどころか離婚を突き付けてきた。母親であることを放棄したとも言えるが、美咲のことを考えれば離婚は避けたい真一。もうそれ以上何も言えなかった。


 優しく明るかった亜希子。この短期間に妻がこれほどまで変わってしまった理由の分からない真一は、自分が犠牲になってでも、何とか家族がバラバラにならないように繋ぎ止めようと必死になっていた。

 しかし、亜希子が家の中に垂れ流す腐敗したよどみは、家族の絆に深く侵食しており、もう取り返しのつかないところまで来ている。


 この二年間で、一体亜希子に何があったのか。

 今は何も分からない真一も、いずれそのすべてを知ることになる。


 崩壊していく「家族」という名の『幸せの形』。

 本当の悪夢が始まろうとしていた――






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<次回予告>


 新章『第一章 発覚』


 第4話 母の姿



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シアワセノカタチ ~母親の不倫によって崩壊していく家族、傷ついた中学生の娘と苦悩する父親が新しい幸せの形を見出すまで~ 下東 良雄 @Helianthus

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