第2話 幸せな日常、手招く悪意

 住宅入居から一年後――


 大きなベッドの置かれた暗い寝室。カーテンの隙間から漏れ出た朝の日差しが光の帯となって、ベッドでひとり寝ている真一の顔に模様を描いていた。木漏れ日を浴びる夢でも見ているのか、真一に目覚める様子はなかったが、そんな心地良い夢を見続けることを現実は許してくれなかった。

 枕元のスマートフォンの画面がぽっと光る。そのスピーカーからはパッヘルベルの「カノン」が流れ始めた。スマートフォンのアラームを止めて、むくりと起き上がった真一は、ベッドから降りて伸びをひとつ。寝ぼけまなこのまま寝室を出れば、階段を通じて一階から漂ってくる朝食の香り。トーストとコーヒーだろうか。その香ばしい香りに意識は一気に覚醒していく。妻の亜希子と娘の美咲、ふたりの楽しげな声も聞こえてきた。朝のこの瞬間、真一は多幸感に包まれる。この幸せを当たり前と思ってはいけないと心に刻み、今日も一日頑張ろうと英気を養うのだ。

 階段をトントントンと降りていけば、ダイニングキッチンから亜希子がひょっこりと笑顔を見せる。


「あなた、おはよう」

「おはよう、亜希子」

「ご飯できてるから、顔洗ってらっしゃいな」

「そうするよ」


 亜希子はキッチンに戻り、真一の朝食を温め直している。洗面所へ向かう途中でダイニングキッチンを覗くと、美咲が朝食を食べていた。


「美咲、おはよう」

「おはよ……」


 娘の気の無い返事に、亜希子へちらりと視線をやると苦笑いしていた。美咲も五年生、少しずつ難しい年頃になりつつある。真一もそれは理解しており、娘が成長している証でもあるので喜ばしいことなのかもしれないが、父親からすれば中々複雑なものだ。真一はそのまま洗面所に向かった。


「『お父さん、おはよう!』って言えばいいのに」

「…………」


 美咲の顔を覗き込む亜希子。美咲は少し頬を赤らめながらも、無言で食事を続けた。お父さんが大好きなのに、それを表せない複雑なお年頃。母親である亜希子もそれを理解しているのだろう。笑顔で美咲の頭を優しく撫でた。


「ご馳走様でした」

「あっ、そのままでいいわよ」

「うん、ありがと。いってきます」

「はい、いってらっしゃい」


 ダイニングキッチンまで持ってきていた淡いピンクのランドセルを背負い、玄関へ向かう美咲。


「車に気を付けてな」


 洗面所から出てきた真一に声をかけられて、振り向く美咲。


「うん、いってきます」


 少しはにかんだような笑顔を見せて、美咲は学校へ向かっていった。

 ダイニングキッチンには朝食の用意が出来ていた。いつもの席につく真一。


「返事してもらえて良かったわね」

「そうだな、そのうち無視されるようになるだろうからな」

「無視だけならいいけどね。ふふふっ」

「そんなに脅かすなよ……まぁ、仕方ないよね」


 苦笑いする真一に微笑む亜希子だったが、何かを思い出したようだ。


「あっ、そうそう、実はあなたにお願いがあったの」

「うん、どうしたの?」


 真一の食事の邪魔にならない場所で、テーブルの上にスーパーマーケットのチラシを広げる亜希子。二駅先のスーパーで、個人経営の割には規模が大きく、品揃えも良いため、真一や亜希子が時折車で買い物に行っている店だ。何か重いものでも買ってきてと頼まれるのかと真一は考えたが、亜希子が指を差したのは求人欄だった。


「あのね、パートに出たいなって」

「あれ、生活費とか足りないかい? 美咲に習い事させるとか?」


 不安そうな真一の様子を見て慌てる亜希子。


「あっ、違うの、違うの! 美咲も手がかからなくなってきたし、少し外の空気にも当たってきたいなって。もちろん家事の手を抜いたりしないから、平日の昼間に働いてみたいって、そう思ったの」

「なるほどね。毎日家事も頑張ってくれているし、オレは異存無いよ」


 ダイニングキッチンを見渡しても、ホコリひとつ落ちておらず、どこかが汚れていたり、洗い物が溜まっていたりなんてこともない。洗面所やトイレ、浴室、寝室と、家中どこも綺麗だ。自分や娘が気持ち良く家で過ごせるのも亜希子のおかげだと真一は理解している。


「お給料は自分のお小遣いにしなよ」

「ふふふっ、ありがと! でも、貯金しておくわね。それでちょっと豪華な家族旅行に行って、贅沢しちゃいましょうよ!」

「そうだな、じゃあオレもそのためのヘソクリでも作っておこうかな」


 出勤前の朝のひと時、仲の良い夫婦の幸せそうな笑い声が家の中に響いた。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 ――スーパーマーケットの事務室


 大きなスーパーマーケットのバックヤードに後付であつらえたのであろう事務室。四畳半程度の広さに、ノートパソコンが置かれた事務机と、応接用の折りたたみの長机が置かれている。

 亜希子はパイプ椅子に座り、長机を挟んで座っている茶髪で短髪の三十代後半の男性の面接を受けていた。亜希子の履歴書を手にしている彼はこのスーパーの店長である。


「高木亜希子さん……ですね」

「は、はい!」


 履歴書を長机の上に置き、顔を上げた店長はにっこりと笑った。


「ぜひ当店で働いていただければと思います」

「ほ、本当ですか! ありがとうございます!」

「貴女のような綺麗な方が働いてくれれば、きっとウチの店の売上も上がるでしょうし」

「まぁ、店長さんはお上手ですね!」

「いえいえ、私は嘘が言えない正直者で有名ですから」


 ふたりの笑い声が事務室に満ちた。

 こんな楽しい店長さんとなら、きっと楽しく働けると、亜希子はこれからこの店で働けることに希望を抱いた。店長もまた亜希子に大きな期待を寄せ、笑顔を浮かべる。


 ――亜希子は気付かなかった。

 店長の期待がどす黒い悪意に満ちていることを。

 店長の視線が発情した獣のように色欲に染まっていることを。






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<次回予告>


 第3話 侵食するよど



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