第9話
*
年が明けて一月一日。名人クイーン戦まで、あと四日となる。
母に新聞取りを頼まれて外に出ると、寒さが痛みとなって肌を刺してきた。薄い鼠色の空からは、今にも雪が降りだしそうな気配があった。遠くの山並みはすでに雪化粧をまとっている。正月から今期一番の寒気が北から降りてくると、気象予報士の男性がしつこいくらいに伝えていたのを思い出した。名人戦の本番の日は大雪のマークがついていた。当日の帰りの電車は大丈夫だろうかと、ふと不安がよぎる。
郵便受けの真下では、花壇の土が氷の柱で持ち上げられていた。水晶のようにぴかぴかに光った、見事な霜柱である。
かささぎの 渡せる橋におく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける
中納言家持の歌をふと思い出した。霜柱を天の川に見立てた牽牛織女の歌。大学で離れ離れになる俺と亜紀乃も、まるで七夕の二人のようだとしみじみ思う。まあ亜紀乃がどう思っているのかは知らないが。
新年セールの広告と特集記事とで雑誌のように重くなっている新聞を家に持って入る。居間に入って食卓に着き、家族三人でおせち料理と雑煮を食べる。雑煮は具のない味噌汁に丸餅が入っているだけのシンプルなものだ。餅に鰹節をかけていただく。昔は自分の家で餅をついていたらしいが、今はもう作らなくなってしまった。瀬宮甘味屋という近所の和菓子屋で、年末と正月だけ特別に丸餅を売っているので、それをいつも購入している。柔らかな餅と味噌の相性は抜群で、素朴な味がたまらなく旨かった。父と俺とで、餅を四個にしようか五個にしようか迷っては食いすぎてしまうのが、我が家の毎年恒例の正月行事となっている。
「はい、慎二、お年玉や」と父が食卓でポチ袋を差し出した。有難く受け取っておく。幼いころ「お年玉の代わりに毎月の小遣いであげるから」とかなんとか親から上手いこと騙されて、お年玉をもらえなかったことがあった。小遣いはひと月につき百円だ。それをまともに受諾してしまった俺も、なんだかなあと思う。
その後、親戚と祖父が当たり前のようにお年玉を手渡してきて、それを見た両親も焦ってお年玉を出してきたのにはさすがに苦笑いした。両親からのポチ袋には小学生の頃に好きだったポケモンの絵が描かれていた。しかも一昔前のシリーズのものだ。両親はポチ袋でさえ準備していなかったようである。滑稽な親二人の慌てぶりを、ポチ袋のピカチュウが囃し立てるように笑い飛ばしていたのが懐かしい。
お年玉の使い道は半分を貯金、半分をその年の小遣いの代わりにしている。月々の小遣いがお年玉になったと思えば安いもので、両親たちもホッと胸を撫でおろしているようだった。なんとも現金な話である。
今日はお昼から両全さんが来てくれて、かるたの練習に付き合ってくれる予定だった。本番までもう四日しかない。正月早々から練習に付き合ってくれる両全さんには感謝しかない。
正月の挨拶メールやLINEも確認する。足羽会の人に、かるた部のみんな、なんと篠原も。
亜紀乃からのメールがまだ来ていなかった。
昼過ぎになって予定の時間通り両全さんはやってきた。それと一緒に年賀状も確認する。高校生ともなると年賀状なんてほとんど来ないが、一枚だけ俺宛に来ていたと母が持ってきた。
「慎二、いつもの亜紀乃ちゃんからの年賀状やわ。お隣さんやのに、毎年ちゃんと書いてくれて偉いのお」
まさかと思い、嬉しそうに喋る母から奪い取るようにして年賀状に目をやった。
『名人戦、頑張ってください。お弁当をまた作るね。応援するから待っていてね。亜紀乃』
インクジェットでプリントされた干支の絵に重ねるようにして、小さく滑らかな字が四日後の抱負を簡潔に語っていた。
今年も年賀状をもらえるとは夢にも思っていなかった。今年は受験勉強があるから、きっと年賀状は来ないだろうと思い込んでいたのである。
亜紀乃のXに振り回されてからは、意識してスマホから離れるようにした。そうじゃないと、とてもかるたに集中できなかったからだ。けれど、このたった一枚の年賀状が瞬時に俺の心を奪ってしまった。湧き上がる嬉しさが、心臓を早鐘のように打ち鳴らし始めた。頑丈に塞がれていた栓がようやく外れたような、とてつもない喜びと解放感が血液とともにどっと溢れ流れてきた。地面から突き上げられるような衝動をどうしても抑えきれず、年賀状とスマホを持って部屋に入った。
声を聴きたい。今すぐに。
スマホを立ち上げる。名前を探す。電話を掛ける。そして話す。たったそれだけの些細な工程がどうして今までできなかったのだろう。何を言われるとか、何を言えばいいとか、そんなことはどうでもいい。とにかく話をしたい。亜紀乃と一緒に頑張ろうと。そして亜紀乃がいれば俺も頑張れると。余計なことは考えずにそれだけ言えればいい。
恋に怯えるな。恋を戦え。俺はもっと強くなれる。
玄関から俺を探す両全さんの呼び声が聞こえたが、それどころではなかった。スマホで名前を検索することさえもどかしい。俺の指先が彼女の名前を探し出す。体の内側から発せられる熱が、たくさんの熱い息となって吐き出されていった。コールが一回、二回……
電話が繋がる。その瞬間、俺は声を張り上げた。
「あけましておめでとう、亜紀乃!」
《完》
かささぎの朝 nishima-t @nishimori-y
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