第8話

 東西戦での戦いで運命戦にもつれこんだとき、俺の陣には「あきのたの」、そして敵陣には「あらしふく」があった。


 嵐ふく 三室の山のもみぢ葉は 龍田の川の 錦なりけり


「あらしふく」はもみじを連想させる歌である。この札が詠まれると、いつも俺はもみじを思う。しかしこのとき詠まれたのは「あらしふく」ではなく「あきのたの」であった。この結果は何某かの運命を思わせる。亜紀乃が東京へ赴いたように、もみじも何度か福井に来ている。しかしこれはあくまでも自分の力を強めるための練習試合だ。自分が強くなるために、そして自分がクイーンになるために。もみじはそういう自己主張の強いところがあって、自ら起こす渦に皆を巻き込む自意識がものすごく強い。


 しかし亜紀乃は違った。俺のために、俺の戦いを応援するために東京へ来てくれたのだ。俺はその思いに応えることが出来たのだろうか。感謝を伝えることが出来たのだろうか。彼女の真意を深く理解することが出来たのだろうか。


 動画にあった、彼女の瞳にあったものは、亜紀乃の「強さ」そのものだった。人とぶつかることもいとわず、正しい道を歩み、ぶれない精神をもって戦おうとする亜紀乃の強さ。


 ――亜紀乃の「強さ」が美しい、とその時初めて思った。彼女の「強さ」が愛おしい、そう思った。


 俺にはない強さを亜紀乃は持っている。幼いころから亜紀乃に魅かれていたのは、自分にはないこの強さだったのだ。


 この「強さ」が欲しい。どうしても手に入れたい。誰にも奪われたくない。


 腹の底から湧き出す欲情に俺は震えた。「強さ」への飢えに抗うことができず、狂おしいまでの衝動が俺の心に吹き荒れた。まるでそれは、激しく波風を立てて荒ぶれている川の流れが、舞い落ちる紅葉を全て飲み込むような情動的な感覚、もしくは秋の稲穂が朝露に濡れながらしっとりとした光を放つような情緒的な感覚でもあった。


「亜紀乃、いつもありがとう」


 喉から口へ、するりと言葉が抜けていったのは、全くの自然な成り行きだったのだと思う。俺は画面に向かって深々と頭を下げ、亜紀乃に敬意をもって最善の礼を尽くした。まるで神前でひざまずくようにして、亜紀乃に感謝しひれ伏したのである。彼女にはとても敵わないと。この一礼は、かるたの神に捧げる祈りのようなものでもあった。そう、これもまた祈りだった。亜紀乃を護るかるたの神への祈りだ。彼女と出会わせてくれたこと、そして更なる強さの可能性を自分に授けてくれたこと、それらを神に奉謝したのだ。


 遠くて近きもの。極楽。舟の道中。人の仲。


 ふと、枕草子の一節を思い出した。遠くて近い、男女の仲。清少納言の感性は千年前からずば抜けている。まさに、今の俺の状況そのままじゃないか。隣に住む幼馴染は遠くて近きもの、近くても遠きものだ。


 そして現代だったら必ずここにSNSが入るだろう。特にメールよりもX、インスタだ。特にインスタは相手の存在がリアルで刺激が強すぎる。これさえなければ、亜紀乃の存在をこんなに近くに感じることはなかった。そして彼女に会おうとしない現状を痛感することもなかった。こんな思いをするくらいなら、彼女のアカウント自体を知らなければよかったとさえ思った。


 ――亜紀乃に会いたい。礼を言いたい。


 俺の心は再び千々に乱れ始め大きな荒波が悠然とした心に襲いかかった。亜紀乃に会いたいという突発的な衝動はたちどころに頭の隅々まで支配してしまい、スマホを手に頭を抱えてしまう。かるたにさえ集中できない。


 亜紀乃は福井大学を目指し、俺は春から京都だ。なぜ俺たちは、福井と京都で離れ離れになるのだろう。昔からの幼馴染なのに。こんな近くに住んでいるのに。会おうと思えば会えるのに。亜紀乃はどうなのだろう。俺と同じように寂しい思いはしていないのだろうか。


 ……それとも俺のことなんて、実は何とも思っていないのだろうか……


そんな無意味な問いを、スマホの暗い画面へ恨みがましくぶつけた。積極的に話しかけようとしない自分のことを棚に上げて。電話かメール一つすればいいだけなのに。本当に、勇気のない自分が情けなくなる。


 ベッドで仰向けになり、再びスマホを立ち上げる。狭い画面の中で、何も知らない亜紀乃が無邪気にこちらへ笑いかけてきた。俺には「ない」ものが、ガラス一枚を挟んですぐそばにある。指が彼女にそっと触れる。愛しいその顔を指で順に辿っていく。柔らかそうな髪に、形のいい耳に、薄っすら紅潮する頬に、そして艶やかな唇に……冷ややかな電気信号の向こう側へ、俺の指先は亜紀乃の温もりを探しに行く。

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