第15話 急転直下

 イスカと別れ、美琴は一人で神社への道を歩いていた。


「……何か用?」


 黄昏時。住宅街から少し外れた一本道。

 美琴の進路を阻むように立ち塞がったのは、時季外れの黒く分厚いロングコートを羽織った黒髪の女だった。


「どうモ初めましテ、ミコトさん」

「……初めまして」


 名前を知られている。

 それ自体は然程珍しくもない。神社の一人娘である美琴は、この近くではそれなりに有名だ。見知らぬ相手から名前を呼ばれることに、今更抵抗はない。

 ただ……。


「質問には答えてもらえないのかしら」

「用、でしたカ」

「わざわざ待っていたみたいだし、あるんでしょう?」


 己の名を呼ぶ片言に、否応なく最近知り合った男の顔がチラついた。


「用、用ですネ……くひっ、ひひ……えェ、エェ、ありますヨ」


 気味悪く笑う片言の女。長い前髪に隠れ、表情は見えない。


「……なら、早く済ませてくれないかしら。今日は色々あって疲れているのだけど」


 警戒感を滲ませながら、美琴は言葉を紡いだ。妙な行動を取られた時のため、身体に力を込めることも忘れない。


「くひっ、えェ、そうですネ。ワタシも忙しイですカら」

「……」

「今日、ここに来たのハ、イスカ・デカルトの話でス」

「イスカの……」


 ある意味では、予想通りではあった。

 片言だからといって、必ずしもアレと結びつくわけではないが、女が放つ雰囲気はどことなく彼と似ている。


「あまリ、カレを信じない方がイイですヨ」

「……別に、そこまで信じたつもりはないけれど」

「くひひひひっ! えェ、エェ、それなら良いのでス!」


 心底可笑げに、女は笑った。知らず、美琴の身が強張る。


「でハ、賢明なミコトさんにアドバイスを」


 肌を隠す長い袖から、女は細く青白い指を立てた。


「あノ人は嘘吐きでス。名前モ言葉モ何もカモ。決して信じてハいけません」

「……そんなことを教えてくれる貴女はどこの誰なのかしら。イスカのお友達?」

「イイえ、イイえ。ワタシはそんなモノではありません」


 そう強く否定して、もう用は済んだと言わんばかりに女は立ち去ろうとする。


「待ちなさい。このまま帰れると思ってるの?」

「えェ、帰りまス」

「意味深な言葉を並べられて素直に返すのは、物語のキャラクターだけよ」


 ぐっと身体に力を込め、美琴は女との距離を詰めようとして。


「がっ、ぐ……!?」


 心臓に走った痛みが、美琴の動きを静止させた。


「今の、は……」

「くひひっ! 契約ハ、結ぶマエによく考えないト!」


 ロングコートを翻し、怪しい女は走り去って行った。

 常人の範疇を逸脱しない程度、どころか平均以下の速さ。あの程度なら、美琴は数歩もあれば追いつける。

 しかし、美琴がコートの襟でも掴もうと考えながら足を動かせば、再び心臓がずきりと痛んだ。

 この痛みは、間違いなく。


「契約……」


 美琴が結んだ契約は、ただ一つだけだ。

 美琴には、運動神経の悪そうな走りを見ていることしかできなかった。




『お掛けになった番号は、ただいま電話に出ることはできません』

「ちっ、何してんのよ、アイツ……」


 その後すぐイスカに電話をしてみたが、どういうわけか通話が繋がることはなかった。

 話の内容だけでも確定的ではあったが、契約が反応した以上、あの女は間違いなくイスカの関係者だ。故に一先ずイスカに確認を取ろうと思ったのだが。


「いや」


 関係者だからこそ、イスカには聞くべきではないのかもしれない。

 言うまでもなく、あの女は信用できない。イスカを信じるなとは言うが、その目的が不明だ。素直に考えれば、美琴とイスカの仲が深まると困ることがあるのだろうか。

 あるいは、それ自体がブラフかもしれない。


「…………」


 考えたところで分かろう筈はない。美琴は元々そういったことは不得手だし、得手であっても圧倒的に情報が足りていない。

 今は、現状を維持するしかない。


「……言われるまでもないわよ」


 イスカ・デカルトが信用できないことくらい、初めから理解している。

 言語化し難い感情と、今日の楽しかった思い出を心の奥に仕舞い込んで、美琴は帰宅した。


「ただいま」

「おかえり、遅かったね」

「んー、ちょっとねー」


 何と言うこともない、いつも通りの父とのやり取り。

 それから美琴は、寝る前の雑事を一通り済ませ、学習机の椅子に腰掛けた。

 ぼんやりと反芻するのは、昼までの楽しい思い出と、それを台無しにしてくれた女の姿。考えたところで意味はないと納得したが、どうにも引っ掛かる。


「私の目的は……」


 父と友人、それから龍脈を守ること。

 それ以外でも、誰も傷付かなければそれが最善だが、友人たちや龍脈に比べれば重要度は一歩落ちる。とはいえ、神秘側の人間が一般人に手を出すことはまず無いだろう。

 そう考えれば、殊更あの女を気に掛ける意味はない。契約はあれど、手を出してくるなら反撃が……。


「……あっ」


 そう考えた刹那、サッと肝が冷えた。

 大慌てで机の中を漁り、イスカから渡された契約書の写しを確認する。


「"甲は乙に、乙は甲に対し、互いに生命、身体への加害行為を行わない。"

 "甲及び乙の財産、または権利の著しい侵害が確認された場合、それを保護する目的の為に限り、上記の契約を無視することができる。"」


『要は、龍脈を守るためなら攻撃して良いってことだ』

『一つ約束をしよう。もしお前がこれにサインをしたら、俺はお前の家族や友人に危害を加えない』


 この契約は、イスカが約束を守るという前提と、最悪は美琴がイスカを道連れにするという決意の上に成り立っていた。


「で、電話!」


 出ない。

 疲れていたとしても、まだ寝るような時間ではない。

 嫌な、予感がした。


「っ!」


 羽織物を引っ掴み、美琴は玄関へと駆け出した。


「み、美琴!? どうしたんだい?」

「急用!」


 どういう訳か、美琴はイスカではないあの女を攻撃できない。しかしそれでも問題はないと思った。何故なら、例の契約は反撃を是としているからだ。


 だが、あの女は契約の内側にあり、約束の外側にいる。

 拘束力だけで言うなら、あの女とイスカは何も変わらない。約束は所詮、ペナルティの無い口約束でしかないからだ。

 しかし、イスカ・デカルトは理由なく約束を破らない。そう考える程度には、餓死髑髏の一件もあり彼を信頼している。だが。


 動機はこの際重要ではない。

 肝心なのは、リスクなくできるということ。

 最悪は、あの女を道連れにする覚悟はある。けれど、それでは龍脈を守れない。柳は決して弱くないが、契約に縛られず、準備期間を与えられたイスカに打ち勝てるとは、美琴には思えなかった。


 故に、急がなければならない。美琴にできるのは保護すること、そして逃げることだけだ。攻撃をせずに守る手段はそれしかない。


 一刻も早く、空野茜の元へ行かなければ。




 ◆




 見覚えのある、結界を見た。


『認識阻害の結界。効果は弱いが、盗み聞き防止には充分だ』


 どのみち美琴には効果がないが、あの時よりも幾分強力そうに見える結界。

 結界を形作る魔力の色は――




「あぁ、クソ……そういうことかよ」


 場所は、空野茜の自宅前。

 寝巻きに薄いカーディガンを羽織った美琴が見たのは、いつぞやの真っ黒いローブを着たイスカと。


 服とアスファルトをインクではない赤で染め上げた、茜の姿だった。


 本来、田舎特有の仄暗い街灯では、倒れているのが誰かなど、分からなかっただろう。

 しかし、美琴は夜目が利く。

 いつも街灯すらない深夜の山中を見回っているのだから、当然と言えば当然だ。だから、というわけではないが、茜の傷口に、結界とよく似た色の魔力が付着していることに気が付いた。


 しかし、今それは重要ではない。そんなことよりも。


「……イスカ」

「……何だ?」

「治して。早く。治療、できるんでしょう?」


 美琴がそう言うと、イスカはぐっと苦い顔をした。


「……できない」


 返答を聞いた瞬間。

 ぶちんと音を立てて、美琴の中の何かが切れた。


「霊砲」


 白亜の光線が、闇夜を切り裂いた。




 ◆




 医師によると、茜は未だ予断を許さない状態ではあるが、一先ずの山場は超えたらしい。

 美琴自身は聞いていないが、茜の両親がそう言っていた。


 救急車を呼び、ついでに駆けつけた警察に事情を軽く説明した。

 神秘に関わること故、犯人は見ていないという証言で押し切ったが、時間も時間なので細かな聴取はまた後日ということになった。

 救急車を呼んだ被害者の第一発見者という立場は中々に面倒だ。


 あの後、イスカとの戦闘――何故か普通に攻撃できた――に決着は着かなかった。厳密に言うなら、美琴はまた、まんまとあの男を逃がしたのだ。

 家同士の距離があるとはいえ、住宅街だったのもある。霊砲の射線を考えなければならず、近接に関しても、アスファルトを砕かないように気を遣わなければならなかった。


「いや」


 言い訳だ。

 単純な戦闘能力を考えれば、それでも勝ち切れただけの差がある。逃げられたのは、戦闘以外の能力で劣っていたからだ。

 いわゆる、戦略や作戦を考える力が、美琴には足りていない。

 とはいえ、仕方がない部分はある。美琴の相手は大抵が妖であり、それ以外でも霊砲を撃てばカタが着く。

 どんな相手でも一撃で片付けていては、磨こうという気になる筈もない。


「次は」


 次に会った時には必ず。




 ◆




『クソ……』


 命からがら美琴から逃げ出したイスカは、一人下水道の中で悪態を吐いていた。


『最悪だ……』


 臭いも、予定外の何もかも。いや、何よりも。


『まさか、契約が壊されるとは』


 おそらく、契約の前提条件である約束を破ったと、美琴が認識したことが原因だろう。

 イスカが用いた契約は、第三者による判定を必要としない。つまり、両者の認識で完結している。美琴が契約を履行する意味がないと判断したことが、壊された原因だ。

 まあ、それだけで壊れるなら苦労はないという話だが、あの怪物を枷に嵌めるだけで、契約のキャパシティは限界だったのだろう。


『しっぺ返しとしては、安い方か……?』


 逃走の間際、霊砲が掠めていった左腕。

 一切の肉体的損傷を伴わないにもかかわらず、指先一つすらも動かず、感覚もない。その上、腕に残った美琴の霊力は、肩を通じて全身を蝕もうとしてくる。

 既に美琴とは切り離されているため、イスカでも何とか抵抗はできるが、ジリジリと魔力が削られる。ついでに言うなら、逃走のために殆どの宝石を使い切った。命に比べれば安いものだが、暫くは節約が必要だ。


『どうしたもんかな』


 治療のためには工房に戻らなければならないが、無事に戻れるとは思えない。

 あの周到な敵手なら、最低でも待ち伏せからの強襲くらいはしてくるだろう。


『…………』


 必要なのは、一発逆転。

 そのために必要なものは、死ぬ気でやればギリギリ手の届く範囲にある。

 問題があるとすれば、手を伸ばす前に死ぬ可能性があることと、手を伸ばすとそれ以上の確率で死ぬ可能性があることか。


『よし、いくか』


 だが、イスカ・デカルトが躊躇うことはない。


 何故なら、それは合理的ではないからだ。

 今こうしている間にも魔力は減っていく。下水の端で震えていたところで事態は解決しない。動かなければどの道死ぬのだ。

 であれば、行動は早い方が良い。


 それは、正論ではある。

 しかし、人間は破滅というリスクを容易く飲み込めるようにはできていない。

 焦燥は思考の幅を狭め、恐怖は行動を鈍らせる。人間は、いや魔術師であろうとも、平常心で毒入りの混ざった錠剤を飲み下せるようにはできていないのだ。


 過去を悔いず、未来を顧みない。

 常に今を生きるイスカ・デカルトの思考に、そのような余分はない。


 どれだけそれが非人間的なことであっても、彼はそういう生物なのだ。

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