第2話 イスカの夜は遅い

 イスカ・デカルトの夜は遅い。


 彼は魔術師であるが、今現在の身分は学生だ。

 自分で選んだとはいえ面倒だが、日中は学校に拘束される義務がある。とはいえ、自身の本分を忘れてはいない。彼が日本にいる目的は龍脈であり、その奪取、あるいは借用のために動いている。


 元来、魔術とは闇に紛れて行うもの。

 疲労だけは如何ともし難いが、支障をきたすことはあまりない。学校から命じられた課題を、母国語とは異なる部分の多い英語には少々苦戦したものの、さっくりと済ませ、イスカは部屋を出て行った。




「よ、元気?」

「……帰れ」


 夜の闇に紛れ、イスカは再び例の山林へとやって来た。

 狙い通りに出会えた美琴からは、かなりの敵意を感じたが、残念なことにと言うべきか、本日のイスカは龍脈に手を付けていない。よって無罪であり、契約に縛られた美琴にできるのは、悪態をつくことくらいであった。


「そんなこと言うなよ。今日は喧嘩しに来たわけじゃないんだからさ」

「アンタの顔を学校以外で見たくないのよ。ていうか、ここうちの敷地なんですけど。不法侵入じゃん。攻撃できないの不具合じゃない?」

「別に日本の六法に従った契約書でもないからな。お前が本気で財産や権利の侵害だと思ってるなら攻撃できるよ」


 美琴は徐にイスカに手を向けた。思わず、イスカの身体にも力が入る。だが、結局は苦い顔のまま手を下ろすことしかできなかった。内心では胸を撫で下ろしつつ、イスカは普段通りの態度を崩さない。


「いやあ、契約した甲斐があったな」

「私はあの後、滅茶苦茶に後悔したけどね」

「今度からは、軽々しく契約書にサインするなよ? 悪い大人は、いつだって無知な子供を狙ってるんだからさ」

「自己紹介どうも……っていうか」


 びしっと、放課後のように美琴がイスカを指差した。


「あの契約書の写し、アンタの名前が読めなかったんだけど!」

「いやいや、ちゃんとサインしたじゃないか。確かに日本語じゃあなかったが、あれが本名なんだから仕方ないだろ。自分の不勉強の責任を押し付けないでくれ」

「確かに最初は筆記体だから読めないのかと思ったけど、写真に撮って翻訳かけても読み取れなかったわよ」

「なら、翻訳ソフトの質が悪かったんだろうな」


 のらりくらりと、イスカが追求を躱す。実際のところ、記載されているのはイスカの本名である。というか、本名でなければ契約はできない。


「……はあ、まあ良いわ。で、何の用?」

「あぁ、この間のアレで短剣を落としたんだけど、知らないか?」


 アレ、とは、言うまでもなく初遭遇、初戦闘の時のことである。仕掛けた術を真っ向から全て砕かれたのは記憶に新しく、苦々しい思い出だ。


「短剣って……アンタが投げてたやつ? 何か一杯宝石が付いてた」

「そうそう、それ。拾った? できれば返して欲しいんだが」

「うちの蔵に仕舞ってるけど……何で敵に武器を持たせなきゃならないのよ」


 実に至極真っ当な意見である。美琴からすれば、霊砲に対抗する力がある武器を、わざわざ敵対すると分かっている相手に渡す道理はないだろう。


「心配しなくても、もうあれに大した力は残ってないぞ」

「どうだかね」

「いや、本当に。装飾の宝石が割れてただろ? あの短剣の力の大部分は宝石だから、残ってるのは味噌っかすみたいなもんだ」

「……なら、なんで返して欲しいわけ?」


 美琴の疑問に、イスカはさらりと答えた。


「あれ、うちの家宝なんだよ」


 家宝、とは。

 その家に代々伝わる宝物のことである。


「……何て?」

「家宝。まあでも、返したくないなら別に良いよ。もう大して役にも立たないし」

「いやいやいや、え、何? アンタ、家宝をあんな適当に使ったの!?」


 美琴が声を荒げると、イスカは不本意そうに眉を顰めた。


「適当なわけないだろ。俺だって使い捨てにはしたくなかった。けど、命には変えられない」

「いや、だからってさあ……」

「必要だから使う。家宝でも消耗品でも同じことだろ」


 あくまでも淡々と、誰でも知っている常識を語るように、イスカはそう言った。

 先祖代々から龍脈やその他の祭具などを受け継いできた美琴には、どうにも理解し難い感覚だった。

 美琴も同じ状況になれば、家宝よりは命の方を選ぶだろうが、ここまで割り切れるかと問われれば疑問である。


「……取り敢えず、今日はまだ見回り終わってないから、また明日で良い?」

「それは構わないけど……学校でか?」

「あー、アンタまだ目立つし、変なことはしない方が良いか。なら、放課後神社の方に来てくれたら良いわ」

「了解。助かるよ」


 先程までいがみ合っていたとは思えない程スムーズに予定が決まった。これでイスカにとっての本日の主目的は達成である。

 となれば、最早わざわざ美琴と顔を合わせている意味もない。


 イスカももう帰るだろう。気楽にそう考えた美琴が見回りに戻ろうとして。


「……アンタ、帰らないの?」


 何故か、イスカは当然のように後ろから着いて行った。


「お礼に見回りを手伝ってやろうと思って」

「要らない。帰れ」

「そんなこと言うなよ。結構役に立つぞ、俺は」

「断る理由はそこじゃないわよ」


 美琴からすれば的外れな自己アピールだが、イスカは大真面目である。好悪と合理を切り分けて考える、魔術師という人種は、どうにもそれ以外の人間と噛み合いが悪い。

 付き合いの短さ故、美琴はそんな性質を知らない。しかし、一度言わねば分からないらしい、ということは理解した。


「あのね……っ!?」


 瞬間、美琴が弾けるように顔を背ける。そして、イスカもまた妙な気配を感じた。


「東、か?」


 イスカの言葉と同時、美琴は駆け出していた。方向はイスカが何かを感じた場所と同じ、東だ。


『速いな、アイツ』


 母国語でぽつりと呟き、イスカも美琴の後を追う。一応、魔術で強化しているというのに追いつけそうにない。あの時、ただ走って逃げていたら、間違いなく捕まっていただろう。今更ながら、煙幕を用意したのは正解だったと確信できた。

 そして美琴を追いかけ辿り着いたのは。


『結界……いや、異界化してるのか?』


 感じた何か、力の発生源。

 神秘を捉えるイスカの瞳には、不自然に歪んだ空間が映っていた。


 尋常の状態ではないことは考えるまでもなく分かる。

 普通、これ程に濃密な神秘が予兆もなく現れることはまずあり得ない。

 だが、神成美琴について調べる過程でこの周辺にも何度か訪れたが、その時には何事もなかった。美琴自身もほぼ毎日見回りを行なっていること、そして感知自体が唐突であったことから、恐らくは一瞬で発生し、この規模まで拡大したのだろう。


 異界とは、単純に言えば無秩序に歪められた空間のことだ。


 美琴との戦闘の際、イスカが短剣を用いて起動した術。あれも空間に干渉する類のものだが、異界化とは全く違う。


 まず規模。

 イスカの術は目の前の空間の一部をただ広げただけ。空間に触れるだけでも充分に高位な術だが、空間に触れる術式の中では低位の術でもある。

 対して異界化が及ぶ範囲は広く、街一つが丸ごと異界化したという記録もある。今回のケースでは、家一つは軽く収まるほどの空間が異界化しているようだ。この範囲の空間を歪めようとすれば、イスカが十人いても足りないだろう。


 次に歪め方。

 前述の通り、イスカの術は空間を広げただけ。言い換えれば、一つの座標へと引き延ばしただけだ。

 そして異界化では、縦横奥行、xyz軸全てが滅茶苦茶になる。重力などの基本的な物理法則すら当てにならないこともあるそうだ。

 恐らくこの異界も、中に入ってみれば見た目以上に広がっているだろう。いや、あるいは小石一つ収まらない極小の空間になっている可能性もある。言うまでもなく、イスカが五十人集まって干涸びるまで魔力を振り絞ってもこれ程の異界は作れない。


『流石は龍脈、ってところか』


 そう、異界とは人の身には成し得ぬ自然現象だ。特に神秘の濃いパワースポットなどに極稀に発生し、周囲の人間を攫いそのまま消滅する。

 調査に赴いた魔術師すらをも喰い殺す天然の罠。

 日本においては神隠しと呼ばれる現象の正体である。


『"アンカー"、"固定セット"』


 軽い詠唱。

 起動された魔術は、ある種のマーキング。指定した座標に魔力で創られたピンを指しておくという、単体では何の役にも立たない術だ。

 しかし、異界に侵入するなら、この魔術は必須だ。

 何せ、一度異界に入ってしまえば、帰り道など何の意味も為さなくなる。一度通った道を通るだけで帰れるのなら、魔術師が喰われる筈はないだろう。だが、このピンを異界の外に置いておけば、気休め程度ではあるものの、一つの道標となる。


『……行くか』


 ピンの感度をチェック。

 魔力の流れはいつも通り。

 体調は万全とは言い難いが、術式行使への影響はない。

 短剣と宝石の大半を失ってはいるが、武装は今回不要だ。

 問題がないことを確認し、イスカは異界へと侵入した。

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