11 エスメラルダ・カンデラリア

「エスメラルダ・カンデラリア! 貴様との婚約破棄を宣言する!」


 厳粛な王宮の広間に、王太子の冷徹な声が響き渡る。広間には重厚な絨毯が敷かれ、高い天井からは豪華なシャンデリアが吊り下げられて、王家の威厳を示していた。


 しかし、その厳しい追及の場に立つエスメラルダは、広間の荘厳さに決して劣ることのない落ち着きを湛えていた。リリネルト王国カンデラリア公爵家の令嬢であり、王太子の婚約者だった彼女にとって、ここに足を踏み入れるのはこれが最後になるだろう。


「エスメラルダ、貴様には失望した。国外追放だ! 二度と我が国に戻ってくるな!」


 王太子の言葉がまるで鋼の刃のように冷たく、エスメラルダの心を傷つけるような響きを含んでいた。表情には冷酷さも滲んでいる。しかしながら、エスメラルダは心の中で安堵の溜め息をついていた。これでようやく彼女は生き地獄から解放されるのだ……。


 リリネルトを出ていくにあたり、必要最低限の荷物だけが持ち出しを許可された。彼女の目に映るのは、もはや無用の長物と化した夜会用の豪華なドレスが整然と並ぶ大きなクローゼット。彼女はあらかじめ用意していた、平民が着る質素なワンピースを身にまとう。新たな生活を始めるための準備が整い、エスメラルダは決意を胸に玄関へと出た。


「……エスメラルダ」


「お母様」


 エスメラルダの母──カンデラリア公爵夫人が、淡々と生家を出ようとする娘を見送りに来ていた。母の目には涙が光っていたが、その声は冷静だった。


「道中に気をつけて。私たち夫婦は国王陛下に徹底抗議するから」


「……ありがとうございます」


 エスメラルダは母の優しさに感謝しながら、少し目頭が熱くなるのを感じた。しかし、これまで彼女を愛してくれた母へと丁寧に一礼をしてから、背を向けて外の世界へと踏み出す。振り返ることはしなかった。

 

 ◇


 今までのエスメラルダを端的に表現するなら、「王太子のお飾り婚約者」がふさわしいだろう。いつもいつも、王太子の言う通りにドレスを着飾って、王太子の都合のいい結婚相手を演じるためだけの儚い花。


 自惚れではないが、エスメラルダの容姿は美しいという部類に入っていたようだ。黄金の艶めく髪に、エメラルドにも似て神秘的な母譲りの緑色の瞳。父の公爵もエスメラルダのことをとても可愛がってくれていた。


 だが、エスメラルダは知っていた。婚約者の王太子が他の令嬢へと夢中になっていることを。そして体面上はエスメラルダを正室とし、あわよくばその令嬢を側室として寵愛しようとしていることを。こんなもの、エスメラルダにとって、屈辱に塗れ、生きながらにして味わう地獄に間違いなかった。


 そしてついに、決定的な出来事が起こる。王太子はエスメラルダを「悪女」と呼び、王太子が懇意にしていたその令嬢をエスメラルダがいじめた、という無実の罪を着せて、婚約破棄と国外追放を宣言したのだ。


 王太子はこうもエスメラルダに告げた。「臣下との縁談に応じれば国外追放処分は見逃してやる」……と。しかし、王太子が「貴様には良縁だろう」と持ち込んできた縁談は、エスメラルダにとって、はなはだ不愉快で迷惑なものだったのである。


 それは裕福な大臣との婚約。大臣は貴族出身で、その家は、王家への財的貢献により爵位を得ており、大きな影響力を持つ家柄として名高かった。大臣に選ばれたのもその財力からだと噂されている人物だった。


 その大臣がぜひエスメラルダを「妻の一人」として迎えたいという。王太子は不要になったエスメラルダを手放すことができ、これ幸いと喜んだが、エスメラルダにとっては重大な問題がある。大臣は高齢だったのだ。父よりも歳上の好色な老人との結婚だなんて、人生の終わりと言って差し支えない。


 なんでもいいから、王太子に一矢報いたかったのかもしれない。


 エスメラルダは、婚約破棄を宣言されたその場で、王太子の提案する大臣との縁談を断ったのだ。


 こうして王太子は激昂。


 エスメラルダを即座にリリネルト王国から追放処分にしたのである──。

 

 ◇


 スイが渡したジンジャーエールはすっかり炭酸が抜けて、ぬるくなっていた。エスメラルダの話を聞き終えたスイは、ひとつ大きな溜め息をついた。


「きみは……とてもつらい思いをしたんだね」


 エスメラルダは喋りすぎて渇いた喉をぬるいジンジャーエールで潤してから答える。その青白かった頬は、ようやく薄桃色に血色が戻り始めてきた。


「ただでさえ、一宿一飯の恩情までかけていただいたのに、働かせていただけるなんて、スイ様の好意にはどれほどの感謝を申し上げたらいいか……!」


「いやいや、気にしないで。お金も払いたくて払ったから返さなくていいよ」


「いえ、そんなわけには……! 私は母の教育方針で、教養や手習いはもちろんのこと、ひと通り家事も叩き込まれました! ですから、きっとお役に立てるかと! どうか、どうか……スイ様のお店で働かせていただけませんか!?」


 スイはエスメラルダの鬼気迫る剣幕に少し焦った。


「ちょっと待って欲しい、エスメラルダさん。色々と言いたいことはあるけれど……まず、俺のことを、『スイ様』と呼ぶのはやめて欲しい。その、むず痒いというか……」


「では、『スイさん』ではいかがでしょうか?」


「うん、それでいいよ。もしよければ、エスメラルダさんのこと、『エっちゃん』って呼んでいい? その……エスメラルダさんって名前が噛みそうで……」


「もちろんです!」


「アルバイトということでお給金を出す。この国の最低賃金は銀貨一枚だそうだ。そこから、仕事の出来具合によって昇給もする。それに、週二日は休みだよ。……どう?」


「ぜひよろしくお願いいたします!」


 こうしてスイのもとで、生まれ変わったエスメラルダ……いや、「エっちゃん」の新たなる生活が始まったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る