第9話 誰ガ為ノ試行

 トロワに警戒が向けられると、イージスは隙を見て男の太腿に、近くにあったカップの破片を突き刺した。

 突然の鋭い痛みに、男は思わず体を跳ねる。その一瞬の脱力を見逃さない。僅かにできた、男との隙間を使ってイージスは拘束を振り解くと、ヴィオラのそばに駆け寄り、銃を構えた。


「トロワ、撤退だ。駆除はいい、援護を頼む」

「かしこまりました」


トロワはヴィオラを軽々と抱き上げると、そのまま窓から飛び降りる。一方で


「僕はお前たちに捕まる気なんてない。帰って上司にそう伝えろ。だが、もし諦めず、次にまた会うことがあったのなら……その時はその命を奪うことになる。覚悟しておけ」


イージスはそれだけ言い残すと、二発、彼らに向けて発砲した。銃弾はちょうど男の右頬を、女の方は左頬を掠める。

 彼らは互いに顔を見合わせ、顔を顰めた。


「……どうするのよ」

「まずいな。変なもの連れている上に、意外と動けるぞ、アイツ」


イージス=アルタナヴィア。厄介な相手である。彼らは任務の遂行に霧がかっていたことに気がつくと、頭を抱えるのであった。



 イージスはまず、父の家を目指した。


 帰って来た息子を見てジグルドは驚愕した。右腕が完全にダメになっている。


「誰にやられた?!」


怒りで我を忘れる父に、イージスは苦笑して、事の発端を話す。そして


「まずはヴィオラのケアを頼みたい。僕の方はなんとかする」

「なんとかって……どうするつもりだ。これは流石に医者にも治せんぞ」

「だろうね。僕も医学の研究をしていたけど、これに関する治療薬は開発されていない。成分レベルの話になるから、手術もできない」

「じゃあ……!」

「最悪、切り落として義手を……」


イージスが言いかけた時だった。


「ちょっと待てやァ!!」


ジョーカーは二人の間に割って入ると、


「判断が早い! おまっ……もしかしたら俺の能力で治癒できるかもしれないだろうが!? 一旦、俺に試させろって!」


ぜぇぜぇと息を切らしながら、イージスの右腕を手に取った。


「できるのか?」

「……やってみなきゃ、わからねぇだろうが」


イージスの右手が義手になったところで、彼に不利益はない。しかし、それでもジョーカーはイージスの腕を治してみたいと言っている。


(気に入ったとは言っていたけど、流石に僕を気にかけすぎでは? 一応、殺人鬼だぞ。何故ここまで……。何か、裏があるのか……?)


困惑しながら彼に目を向ければ、まっすぐな、曇りのない瞳で見つめ返された。


「……わかった。その言葉に甘えよう」


イージスは大人しく彼に腕を差し出した。


「では、私も力を貸そう。視覚強化だけだが、付与しておく。一時間が限界だが、ないよりはマシだろう」


ジグルドはジョーカーの視覚を強化させると、すぐに次の仕事に呼ばれ、慌ただしく、去って行った。


「おぉ。なんか気持ち悪いな」


見たい物を、肉眼で、成分レベルまで覗ける。集中すると、ぐわりと、一気に、分子レベルの景色が広がる。ジョーカーは、それに子どものように興奮しながら、イージスの右腕を改めて見つめた。


 このまま壊されない保証なんてない。万が一彼の気まぐれによって、このまま切断されたらどうする。切断の具合によっては義手の装着も難しくなる。そもそも、医学の知識がない奴に命を預けられるわけがない。間違えました、は許されない世界だ。


 __怖い。


 イージスは恐怖にぎゅっと目を瞑り、冷や汗を流しながら、彼の試みが終わるまでの時間を耐えた。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。彼は、少しだけ目を開いて時計のある壁に目を向けてみる。思いの外、時間は進んでいない。一時間くらいは経っているかと思えば、長針がたった七つほど進んだだけ。

 気が抜けると、ふと、イージスはジョーカーの調子が気になってきた。今のところ、痛みはない。恐る恐るジョーカーの方に目を向ければ


(……えっ、誰?)


普段のジョーカーからは想像できない表情が、そこにあった。儚い、白百合のような美しさを持つ男。そう、この男、実は黙ってさえいればイケメンである。黙ってさえいれば。


「……どうした? もしかして、痛むか?」

「あ、いや……大丈夫だが……」

「よかった」


作業を再開するジョーカー。下を向く長いまつ毛が、額に滲む汗が、閉じられた口元が、顔の横でさらりと落ちる髪の毛が、それを気にせずただイージスの腕を治すために動かされるその手が……美しい。


「……なぁ、お前さ。この毒って、どんなやつなのか。なんでもいい、わかることあるか?」


見惚れていると、そのジョーカーから、問いが投げかけられる。


「ちゃんと調べていないから推測でしかないが良いか?」

「いい。が、俺にもわかるように説明しろ」

「……難しいこと言うなぁ」


イージスは苦笑すると、少し考えてから


「発案者はニコラ=ニーチェ。製品の名前は、アレルゲンエックス。名前から推測できるように、強制的に、無条件で、アレルギー反応を起こす物質だ。水に溶ける性質を持つが、成分の問題で完全に溶けきることはなく、水溶液を振ると一瞬だけ、微かに白濁が見られる。全ての動物に効果があって、触れただけで皮膚が爛れる。加えて感覚麻痺を起こし、また、二十四時間が経過すると、完全に、脳から信号も伝わらなくなる。つまり、切り捨てる他に対処法はない。これに対する抗体は未だ不明。摂取量によっては命の危険もあるため、取り扱い要注意だな。僕が知る限りでは、害獣駆除や大罪人の捕獲・拷問の際くらいでしか使われていない」


知っている情報を、なるべく省略して、彼にもわかるように説明した。


「……うん、さっぱりわからねぇわ。つまり、どうすれば治るんだ?」

「それを伝えるには、それこそ、成分レベルのより詳細な話になるが……」

「マジか。やめとくわ」


しかし、そんなジョーカーを褒めなくてはならないことがある。こんなことを言いながらも、彼は着実に回復に向けて処置を進めていた。


(わからねぇと言いながら、ジョーカー、治療できているんだよな。実際、感覚が戻り始めている。偶然なのか、必然なのか。父さんの能力強化があるとは言え……今、科学者が辿り着けなかった答えにジョーカーは辿り着いている。どちらにしろ、恐ろしい男だよ、お前……)


自分にできないことをやってみせる彼に、感心するイージス。もし本当に何もわからないまま勘でできているのなら、彼はある意味天才なのかもしれない。勘や運も、一種の才能である。


「お。なんか治ってきてないか?」


少しずつ、イージスの腕は元の姿を取り戻していく。遂には、赤み一つない肌になった。彼の腕は、ジョーカーの手によって治されたのだ。


「ありがとう、助かった」


イージスは、戻ってきた本来の自分の腕を軽く動かしながら、彼に感謝を伝えた。


「なんとかなってよかったぜ〜」


ケラケラと笑いながら言うジョーカー。しかし額には汗が滲み、疲弊しているように見える。


「……意外だな。報酬をせびるかと思った」


心の中で思っていたことが、思わずイージスの口から漏れると


「いや、そんなクソ野郎じゃねぇよ。流石に」


ジョーカーは真面目な顔で返した。

 こうして彼と関わっていると、本当に彼は『ジョーカー』という殺人鬼だったのか。やや疑いたくなる。噂に聞いていた彼の姿と、今の彼の姿は全く違う。

 イージスは「ごめん」と小さく呟くと、完治した右腕にそっと触れた。


 ジョーカーはそれを見ると、話題を変える。


「ところで、あの女は大丈夫なのか?」

「それは僕も心配しているところだ」

「何があったんだ?」

「……両親だと思っていた奴が、いつからか、両親じゃなくなっていた。そんなところだ」


この世界において、スパイという存在が身近に潜んでいることは珍しくない。それも、能力によって、より巧妙に隠される。何年も気がつかないということもよくある話だ。だが、それにしても


「実の両親がまだ生きていれば救いはあったのだろうが……」


この世に同じ人間は二人もいらない。つまり、彼らは長期的な潜伏を計画していたということである。或いは、既に実行を。親の仇を長い間慕っていたヴィオラのショックは、到底、計り知れない。


「あいつら、上司が僕を探しているって言っていた」


だが、わかったことがある。ヴィオラの家族を利用するのが好都合であり、尚且つイージスを探していたということ。これは、イージスが、かのウェスティーニ最強と謳われるジグルドの息子であることを知っていなくては、成り立たない話である。彼らの上司とやらはイージスの家族を把握している可能性があり、家族は現在進行形で危険に晒されている可能性が高い。


「闇族の中ではトップクラスの実力者である、父さんの監視を兼ねて、僕を探していたのだとしたら」


ここに来ることを想定していた人物。それが、イージスにとっての敵。イージスを把握して、先を読む、なかなか手強い相手である。


「犯人は、兄貴か?」


ジョーカーの推理にイージスは首を横に振る。


「兄さんはこんな回りくどいことしない。もし僕を連れ戻したいなら、セントラシルドにいる時点で、足を切り落としてでも誘拐している」


イージスの言葉にジョーカーは身を震わせる。「イカれた兄貴だな」と。イージスは咳払いを一つすると、もう一度、念を押すように言う。


「とにかく、兄さんではない」

「じゃあ、一体誰が」

「……父さんが僕を殺すかも。それに関係するということか?」

「あの親父が、お前を?」

「これは僕の願望が入っているから、正しいかわからないけど。今では誤解だったと思う」

「殺すつもりはないってか。まぁ、娘を殺した息子すら見逃している奴だからな。器のデカい男だろうよ」


 だからこそ、わからない。誰が、何のために自分を探しているのか。「ジグルドがイージスを殺すかもしれない」という言葉は、どこから来たのか。そもそも、それはこの事件に関係があるのか。関係ないのだとしたら、どうして、ジグルドとサラを見張っていたのか。


 アルタナヴィア家の内部事情を知る人物。

 場合によっては、それは大きな障害となる。


 イージスは小さくため息をつくと、軽く頭を抱えた。

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