第5話 いみな

 梅雨が明ける。

 まどかが平安に来てから一ヶ月少し、九十九神はいまだ討伐戦しきれていない。

「梅雨明けかぁ」

 ここ一週間は夏の気配が濃くなり、雨も降らなくなった。

 梅干しを干すにはもってこいの天気である。

「なにを見上げて呆けている」

「皇子さま。いえ、今日から梅干しを干そうかと」

 仕込んだ梅の半分はしそ漬けにした。

「あと、しその実の漬物ももうすぐできます」

 しその実をしごいて、きゅうり、なす、しょうがと一緒に漬けたものだ。これを納豆に混ぜるとご飯が止まらないのだとまどかは笑った。

「でも、皇子さまが納豆を召し上がれるかたでよかったです」

「……?」

「ほら。西のほうって納豆の文化がないと伺っていたので」

「……そうか。俺は京に留まらず、全国を回っていたこともあるからな」

 天皇家でありながら、康仁は皇子としては境遇はそれほどよくない。

 だからか、あちこちを点々とする生活を送っていたが、今はそれがありがたい。

 まどかの料理を受け入れられる度量を持ち合わせているのは、小さい頃から様々な地域の食文化に触れてきたからにほかならない。

「俺は、自分が自分で良かったと、最近になって思えるようになった」

「なんですか、急に」

「いや。オマエの料理を受け入れられるのは、俺くらいしかおるまいな」

 珍しく柔らかな笑みを浮かべた康仁に首を傾げつつ、まどかは梅漬けを竹ざるに並べ終えた。

 今日から三日、梅を干す。夜は基本的に取り込むが、三日目の夜は取り込まない。夜露に当てることで柔らかく仕上げるためだ。

「天気、大丈夫だといいですね」

 空を仰ぎみるまどかの横顔が、妙に頼もしい。

 康仁はそんなことを思いながら、ぼうっとまどかを見つめていた。

「まどか! いたいた!」

 ほうっとする康仁とまどかの平和な時間を割いたのは、正盛である。

 懐っこい笑みとともにふたりの間に割って入ると、

「梅干しを干すなら、俺も手伝ったのに」

「いえ……これは皇子さまの分なので、私がやらないと」

 結局、しそ漬けの梅もまどかが作ったものしか康仁は食べないだろう。出雲に行く前、正盛にしそ漬けを頼んだが、それとはべつに、帰ってきてからまどかは改めてしそ漬けを作った。

「当たり前だ。俺の命を狙うやつはごまんといるからな」

「でも、正盛さんはいいひとですよ?」

「……ふん」

 ふいっと正盛から顔を逸らす康仁に、まどかは苦笑した。なぜここまで正盛を嫌うのか、まどかにはわからない。

 一方で正盛は、自分が嫌われる理由を心得ているようで、意味深な笑みを浮かべている。 

「やだなあ、皇子さまは。俺は帝からの使いですよ?」

「それが胡散臭いのだ。さしずめ、わたしの見張りか牽制か」

 はんっと康仁は鼻で笑った。正盛はおかしくなって声を出して笑う。それがますます康仁を不機嫌にして、康仁はまどかをじろりと睨んだ。

「そもそもオマエが悪い」

「え、私ですか?」 

「そうだ。弟子をとることを承諾して。なにかあったらオマエの責任になるんだぞ?」

 それは暗にまどかを心配しているのか、あるいは正盛を牽制しているのか。まどかにはわからない。

「皇子さまも人聞きの悪い。俺はあくまで料理番。皇子さまでなく帝に使える、忠実なしもべですよ」

「だろうな」

「あともうひとつ」

 正盛はいつもの調子を崩さぬままに、

「料理番同士、まどかを嫁にとも思ってる」

「……え?」

「なん、貴様……」

 ばちばちと火花が散りそうな程に睨み合う康仁と正盛に、まどかはなすすべがなかった。

 

 梅干しがほのかに赤く染まっている。

 平安に来て、色々なものが変わった。それが価値観であったり考えかたであったり、まどかにプラスのものもあれば、マイナスのものも存在する。

「皆どうしてるのかな」

 一ヶ月も行方不明となれば、騒ぎになっているかもしれない。特に家族には心配をかけているに違いない。そう思うと、早く帰りたいと気持ちが逸る。

 しかし、まどかはまだ帰らない。帰れない。

 康仁の呪いを解くまでは、帰らないと誓ったのだ。

「私……頑張らなきゃ」

 込み上げる感情を飲み下して、再び料理に集中したときである。 

 バンッ!

 まどかの体に走った衝撃は、まぎれもなく九十九神の出現を意味していた。

 すぐさままどかは動く。肌身離さず持ち歩いているスマホを起動し、画像フォルダを選択する。

「……風の式神……」

 外に感じる九十九神の属性は分からない。そして、まどかの手持ちの式神は全部で五体。そのうち、能力を持つ式神は風の式神しかいない。

 修練でも、風の式神を中心に同調の練習をしてきた。

「……はー」

 深呼吸をして、まどかは式神を顕現する。

 ひゅおっと風が巻き起こり、そこに現れたのは風の式神だ。

「集中……!」 

 そして、まどかの本体に危害がないよう、厨の奥から式神に意識を集中する。バチバチ、チリチリ。

 ドンっ!とまどかの体に電気が走る。と同時、まどかの意識が式神のなかに流れ込んだ。

『岩……?』 

 式神を通して見えた九十九神は、岩のような頑強な肌を持ち合わせている。

 式神――まどかに気づいた九十九神が、まどかに食いかかる。

 ぶぉっと空気を切り裂いて、九十九神がまどかに急接近した。まどかは構えるも、なかなか上手くいかない。

 修練と実践では雲泥の差がある。

『いっ!?』

 出遅れたまどかの右腕を、岩の九十九神が握りつぶす。ブチブチブチ、と音を立てながら、まどかの右腕がへしゃげて行く。

『うぁああ!』

 けたたましい叫び声に引き寄せられるように、御殿のなかから康仁が顔を出す。

 すぐさままどかの危機を感じとった康仁は、

「逃げろ!」 

 まどかに叫んだ。しかし、岩の九十九神の力は尋常ではない。逃れようにも逃れられず、やがてまどかの右腕を引きちぎった。

『っあ……』

 想像を絶する痛みだ。まどかの意識が白む。

 それと同時に、まどかの式神との同調が切れた。

「いやぁああっ!」 

 叫び、右腕を左手で抑える。ある、右腕が。

 しかし、同調でまどかにダイレクトに伝わった痛みの感覚は消えない。暫くはこの場から動けそうにない。

「無事か!?」 

 式神と九十九神のあいだをぬって、康仁が駆けつける。

 しかし、その背後に九十九神が迫っていることに、康仁は気づかない。

 逃げて、と叫ぶべきところを、まどかは一瞬のうちに思考を巡らす。

 式神に命じたところで、九十九神のほうが速く康仁にたどり着く。ならば、康仁が九十九神の攻撃を避ける他に道はない。だが、康仁に危険を知らせたとして、そこから回避に回るにしても遅すぎる。

 なにかないか、なにか。

 まどかの体は一向に動かない。動くのは口だけだ。

 せめて、康仁の体を自由に動かせたら。

 自由に?

 思い出せ、なにか。なにか。

「康仁さま! 逃げて!」

 危険を知らせるための言葉ではない。もっと言えば、康仁を『皇子』ではなく名前で呼んだのは、まどかの賭けである。

「なん……!?」 

 ふわりと康仁の体が浮く。背後に迫る九十九神の攻撃を避けたのだ。

 諱(いみな)。

 まどかは以前、晴明によってその力を目の当たりにした。

 諱を呼ばれた人間は、その人間の言いなりになってしまう。もちろんそれは、霊力の高い人間が使う場合に限られるのだが。

「康仁さま、そのままお逃げください!」

 浮いた体が地面に着地するや、康仁の足は勝手に動いた。本当ならば、まどかの傍に走りたいのだが、身体が全く言うことをきかない。

 思いとは裏腹に走り出す自分を恨みながら、康仁は走った。走って走って、そうして康仁が安全な場所に行くのを見届けた時、バンっとひときわ大きな音が辺りに響いた。

「遅くなりました、まどかどの」

「晴明……さん……!」 

 呪符を展開する晴明、まどかに走りよる黒雲。

「まどかさん、動けますか?」

「……腕だけならなんとか」

 震える手でスマホを構える。その先には、九十九神をおさえつける晴明の姿がある。

 あとどれだけの修練を積めば、あれ程の力を手に入れることができるのだろうか。

 不安と葛藤をなぎ払い、まどかは岩の九十九神を写真に収め、封印した。

「ご無事ですか、まどかどの」

 晴明がまどかに駆け寄る。しかし、まどかの右腕はだらりと下がり、動く様子はない。

 先程は無我夢中でスマホを操作していたが、火事場のバカ力といったところであろう。まどかの右腕は、動かない。

「右手に傷を……?」

「いえ……式神のなかにいるときに、右腕を千切られて……」

 脂汗もひどい。顔は真っ青だ。

 晴明の危惧していた事が起こった。まどかの同調の能力の弱点は、同調しすぎるところである。

 最悪の場合、このまま右腕が動かなくなるかもしれない。

「ひとまず、部屋に上がりましょう」

 晴明に促され、まどかは立ち上がる。そのはずだったのだが、かくん、と膝が折れてしまう。

「あれ? おかしいな」

 何度も何度も立ち上がろうと体に力を入れるのだが、まどかの体は言うことをきかない。

 見かねた康仁が、まどかを抱き上げた。

「や! 皇子さま!?」

「もたもたするな。屋敷のものに、オマエが巫女だとばれるだろうが」

 康仁の威圧にまどかは負けた。大人しく担がれ、まどかに宛てがわれた部屋へと移動する。

 

 部屋につき、布団に寝かされる。晴明と黒雲は神妙な面持ちだ。

「まどかどの。その右腕ですが」

 晴明が切り出すも、まどかはわかっているように、

「もしかしたら、このままかもしれない。そうですよね?」 

 晴明は小さく頷いた。まどかも馬鹿ではない。自分のことくらい自分でわかる。

 しかし、康仁は声を荒らげる。 

「そんなことは聞いてないぞ!」

「皇子さま。まどかどののお体に触ります。お静かに」

 ぐっと言葉を飲み込んで、康仁はまどかを睨みおろした。

 まどかは力なく笑っている。なにをへらへらと。

「オマエ、わかってるのか」

「わかってます。でも、まだ動かないと決まったわけじゃない」

 希望は捨てていないようだ。康仁はほっとする反面、まどかを危険に晒した自分を恨んだ。

 いつだってそうだ。康仁は呪いのせいで多くを失ってきた。それが家臣や地位であったり、或いは友であったり。だが、それは仕方ないと諦めていた。諦める他なかった。

 しかし、ここに来て康仁は、心の底から呪いを解きたいと思った。

「オマエの腕が治るまで、晴明にはこの屋敷にいてもらう。いいな?」

「皇子さま……? でも……」

「わたしなら構いませんよ。もとより、そうするつもりでいましたので」

 かくして、康仁の御殿に同居人が増えた。晴明と黒雲がそばに居ると思うと、まどかも心強かった。

 

 反して、まどかの右腕は一向に動かなかった。一日、二日……一週間も動かないとなれば、流石にまどかにも焦りが浮かんだ。

「皇子さま、申し訳ありません……」

「べつに。俺は普段となんら変わらん」

 とは言いながらも、まどかはもう一週間も厨にたてずにいる。その間の食事は正盛が作っているが、これがなかなか美味いときたから、まどかは立場がなかった。

「まどか。気にするな。あの騒ぎで命があっただけましだ」

「正盛さん……」

 よもや、あの騒ぎで式神を使い、それが原因で腕が動かないとは言えなかった。正盛には、まどかの素性は明かしていない。もちろんまどかの右腕の真相も。

「馴れ馴れしくするな」

「皇子さまはヤキモチですか?」

「正盛、そなたはもうさがれ」

 万事こんな調子であるから、康仁も気が休まらない。正盛の真意が分からないのだ。

 正盛はまどかを嫁にしたいと言ってみたり、康仁の気持ちをおちょくってみたり。まるで掴みどころがない。

「それはそうと、今日は晴明がある場所に連れていくと言っていたな」

「あ。皇子さまも御一緒ですか?」

「晴明がいない間に九十九神が現れるかもしれんしな」

 そうは言うものの、本心は違う。ただただまどかが心配で、だから康仁はまどかたちについて行くことにしたのだ。

 

 連れられたのはとある滝だ。

「まどかどの。滝行をして、右腕の感覚を取り戻しましょう」

「滝行……?」 

「はい。滝に打たれることで、体と精神の結び付きを感じ取るのです」

 なるほど、まどかの右腕が動かないのは確かに精神的なものが強い。あの時、強く式神とシンクロした精神は、まどかの右腕までをも奪った。

 心と体が一致していない状態の今、晴明の手立ては的をいている。

「寒いかもしれませんが。まどかさん、頑張ってください」

 黒雲が後押しする。

 かくして、まどかは恐る恐る滝のしたへと歩いていく。

 冷たい水が足に触れると、自然と心は静まった。

 滝の真下に来ると、余計に心は凪いだ。

 ザーザーとまどかを打ち付ける水の音。まどかはそっと目を閉じる。

「……」

 瞑想に近い。周りの音も景色も遮断して、まどかは目を瞑る。

 最初に浮かんだのは家族の顔だ。次は思い出。苦しかったことと楽しかったことが交互に押し寄せ、やがて消えた。

 最後に浮かんだのは晴明や黒雲、そして康仁の姿である。

「……っ!?」 

 煩悩を払わなければ瞑想は意味をなさない。 

 ハッと目を開けたまどかの右腕は、康仁の手に掴まれている。

「もしオマエの手がこのまま動かなかったら」

 康仁の衣が濡れている。髪も体も。

「皇子さま……濡れてしまいます」

 あと一歩でなにかを掴めそうだった。いや、そうではない。煩悩はきっと、最後まで振り払えなかったに違いない。

 もしも全てを薙ぎ払えたのならば、康仁に掴まれても気づくことなく、瞑想に耽っていたに違いない。

「もしこのままだったら、俺がオマエの面倒を見てやる」

「皇子さま……?」

 なにを言いたいのかいまいち分からない。

「鈍いやつだ。オマエを娶ると言っている」

 それが本心か嘘かはさておいても、まどかは腹立たしくて仕方がなかった。

 平安において妾(しょう)や正妻が珍しくない制度だとはいえ、そんな風に扱われることが心底悔しく、

「馬鹿にしないでくださいっ!」 

 康仁にとっての自分という存在が、その程度だと思うと、腸が煮えくり返る思いだった。

 掴まれた右腕を思い切り振り払う。その勢いに、康仁はよろめく。しかし、顔は笑っていた。

「なんだ、動くじゃないか」

「……え?」

 振り払われた手を擦りながら、康仁はまどかを笑った。

 まどかは右腕を動かす。先程まで全く感じなかった感覚が、しっかりと戻ってきていた。

「皇子さま……今のはわざとですか……?」

「さあな。さて、時間を無駄にしたくない。帰るぞ、晴明」

 果たしてそれが、康仁の本音だったのか、あるいはまどかを奮起させるための戯言だったのか。まどかはその真意を聞くことが出来なかった。

 

 さて。

 リハビリも兼ねて、まどかは早速厨にたった。

「まどか。もう大丈夫なのか?」

「はい。正盛さんにもご迷惑をおかけしました」

「迷惑なんて。別に俺は構わないさ」

 けろりと返事をする正盛に、まどかは笑いかける。

「なにかいいことでもあったか?」 

「え?」

「顔が笑ってる」

 無意識であった。

 まどかは無意識に笑っていたようだ。だが、何故、なにが嬉しいのか、まどかには分からない。

「別に、なにもないですよ」

「ふうん。てっきり皇子さまとなにかあったのかと」

「は? 皇子さまと?」 

 だいぶ的はずれな正盛の言葉に、まどかは声を上げて笑った。

「変な正盛さん。私が皇子さまと?」 

「違うのか? まどかは皇子さまが好きだと思ってたんだが」

「……え?」 

 ぴしり、と空気が凍るのが分かる。さしものまどかも、そんな冗談は笑えない。正盛を睨み見ると、

「正盛さん。皇子さまと私で釣り合うと思います?」 

「だって、皇子さまはありゃ明らかにまどかが好きだろ」

「……は? はあ? 正盛さん!?」

 じとっとさらに睨めば、正盛は口を結んだ。

 なにがどうして、康仁が自分を好きになるものか。

「ま。まどかがそう言うんならいいけど」

「そうですよ。勘違いも甚だしい」

「そうか。じゃあ俺は気兼ねなくまどかを口説けるな」

 どこまでが本心なのか全く分からない。分からないのだが、憎めないのが正盛の不思議なところだ。

 包丁を握りながら、まどかは料理に集中していく。右腕はいつも通りとはいかないが、八割は回復したといったところだろうか。

 ザクザクと野菜を切りながら、思い浮かぶのは康仁の顔だった。

 それはさておいても。

「ふふ」

 自然と笑みが零れる。なんなら、笑い声も。

 一週間ぶりの料理は、やはり胸が踊る。

「白和えと卯の花……あとは夏野菜を天ぷらにしようかな」

 正盛には屋敷の人間の食事の支度を任せ、まどかは康仁の料理に集中する。

 水切りした豆腐に甘味を付けて、ひしおと塩を混ぜ合わせる。白和えは素朴な味だが、栄養は満点だ。

 卯の花を作ったのは、土用が近いからである。土用は本来、『う』のつく食べ物を食べるならわしがある。しかしそれは、夏場に売れ行きが悪かった鰻を売るための方策だったとも言われている。

「天ぷら……久しぶりだなぁ」

 天ぷらの衣には、本当ならば氷を入れたいところであるが、今回はそれは出来ない。なるべく衣を混ぜすぎないようにして、野菜を潜らせ揚げていく。

 パチパチと泡立つ油の音に、まどかは耳を傾けた。

 

 康仁の部屋に膳を運ぶ。

「どうぞ」

「ん……ああ、そう言えば」

 上座に座る康仁が、なんの気なしに、

「今日からオマエもここで食え」

「えーと。はい。では、皇子さまのお食事が終わったら」

「はー。オマエはそこまでうつけか。鬼食いも兼ねて、共に食えと言っている」

 康仁は膳を目の前に、ただ座り込んでいる。つまり、まどかが先に膳に箸をつけない限り、食べないということだろうか。

 ならば、とまどかは康仁の真ん前に座る。

「では、毒味をします」

「ならん。オマエの分の膳を持ってこい」

「ですが。皇子さま。私は単なる料理番。一緒に食事なんて……」

 なおも食い下がるまどかに、業を煮やした康仁が立ち上がる。

「頭の固い。いい、俺が膳を持ってくる」

「あ、あ! 皇子さまに膳を運ばせるなんて!」

 慌てて立ち上がったまどかは、あわあわしながらも康仁の前に立ちはだかる。

「わかりました、わかりましたって。私が持ってきます!」

「はっ。初めから素直に言うことを聞けばいいものを」

 どかっと腰を下ろす康仁をよそに、まどかは厨まで走った。

 せっかく熱々の料理を出したというのに。

 少しだけぷりぷりしながら、まどかは走って走って、厨と康仁の部屋を往復した。

 

 しかし、だ。

 一緒に食事をとるのはいいが、ふたりの間に会話はない。

 まどかのなかでは先日の件がまだ尾を引いている。康仁がまどかを娶ると言った件だ。

「あ、あー。美味しいですね……」

「ああ」

「……」

「……」

 やりづらい。

 まどかはバレないようにため息をついた。

 食事を共にせよと言うのならば、もう少し愛想良くすればいいのに。

 食卓は楽しく。未来ではそんな『食育』が取りざたされている。

「悪いな」

「……え?」

 ぽそ、と呟かれた言葉に、箸を落としそうになる。

「俺はひととの距離感が分からん」

「……えーと……」

「ずっと疎まれ蔑まれてきたからな」

 変わろうとしている、ということだろうか。

 今までずっと諦めて来たものを、もう一度手にせんと。

「そう……なんですね」

「……」

 それならば。

 まどかはぱっと笑顔を作る。

「なら、今後は一緒に食事をしましょう」

「……! ああ」

 それならば、まどかは康仁を助けるまでだ。

「晴明さんも、黒雲さんも、誘っておきますね!」

「……はぁ。オマエは本当に……」

 康仁の小さな呟きは、だがまどかには届かない。

 共に食事をしたいのも、一緒にいたいのも、まどかだから欲しいなどとは、口が裂けても言えそうにない。

 

 鼻歌交じりに厨に戻ると、正盛が昼食をとっているところであった。

「まどか。皇子さまとの食事はどうだった?」

「え? ま、まあ……楽しくはないですけど……」

 しかしまどかの顔は笑っている。正盛は「ふうん」と唸りながら、

「しかし。暑くて食欲も失せるな」

「またまた。そんなに食べておいてそんなことを言うんですか」

 クスクスと笑いを漏らすまどかは、やはり上機嫌だ。

「まどか。暑くても食べられる料理はないのか」

「そうですねぇ」

 厨を見渡す。確かに、毎日白米とおかずでは、飽きてきてもおかしくはない。

 ふと、目にとまったのは小麦粉である。

「うどんとパンにしましょうか」

「お。なになに。うどん? パン?」

 まどかはく厨に立つ。

 まず最初に、すももを皮付きのまま適当に切り分けて、ひたひたの水につける。本当ならば、煮沸消毒した瓶に入れたいところだが、瓶はないため熱湯に潜らせた茶碗で代用した。

「果物を水につけてなんになる?」

「はい。三日から一週間ほどで天然酵母ができます」

「天然酵母……?」

「はい。まあ、要はイースト菌の代用品……パンを膨らませるためのものです」

 まるで検討もつかず、正盛はただただ唸るばかりだ。

 次に、中力粉に塩をといた水を混ぜて捏ねる。

 それを晒しに巻いたら、十五分から一時間休ませる。その後晒しに包んだまま足で踏んでコシを出す。

「この生地を三ミリ程に伸ばして切れば、うどんの完成です」

「これが……」

 麺つゆを作りたかったが、みりんがないため別の方法で食べることにする。

 シンプルにひしおをかけて、付け合せに甘辛く煮たイノシシの肉と、大根おろしと刻んだ野菜を添える。

「パンはまだ出来ないのか?」

「はい。パンは酵母が無いとできないので」

「膨らむ……と言っていたな。どんな食感なのか楽しみだな」

 パンは工程が多い。材料を混ぜ合わせて発酵、ガス抜きして小さく丸めてまた発酵。そのあと成形したら最終発酵。

 牛乳はあるとして、バターも作ろう。

「忙しくなりそう」

 小麦粉があれば、餃子やワンタンも作れる。冷やしたワンタンスープは夏にもってこいであるし、餃子の香ばしい香りも食欲をそそる。

「これはなんだ……?」

「はい。うどん、にございます」

 夕餉になって、手打ちのうどんを茹でて、水でしめたものを康仁に出す。案の定、驚きに染まった康仁の顔を見て、まどかは満足気だ。

「夏なので、さっぱり食べられるものを作りました」

 具材は栄養面を考えてあえて肉にした。

 食欲がない時は梅肉で味付けてもいいし、釜玉うどんにするのもいい。

「ささ、食べてください。晴明さんも黒雲さんも!」

 未知の料理に、三人とも恐る恐る箸をつける。が、口に入れた瞬間のツルッとした喉越しに、三人が三人、ほうっと息を吐き出した。

「すごい……これならするする食べられますね」

「わたしもかような食べ物は初めてです」

 するすると箸が止まらない。それは晴明や黒雲だけでなく、康仁も同じだ。

「気に入っていただけて嬉しいです」

「まどかさん。今度私にも教えてください」

「もちろんです。あ、あと」

 まどかはもったいぶるように、

「数日後になりますが、パンも作りますので楽しみにしていてください」

 聞きなれない単語にも期待しか抱かないのは、それ程まどかを信頼している証である。

 心底楽しそうに料理の説明をするまどかを、康仁はばれないように横目で見ていた。

「時に晴明」

 康仁が晴明に話しかける。

「なんでしょう」

 食事も終わり、まどかが膳を厨に運び出したところを見計らい、康仁は口を開いた。

「九十九神は……火の九十九神は本当に俺に封印できるのか?」

 康仁にしか出来ないこと、それは唯一、火の九十九神を封印することである。

 まどかは火の九十九神の前では無力だ。体から力が抜け、なにも出来なくなる。

「はい。間違いありません」

「……そうか……しかし、どうやって封印するのだ?」

 覚悟は決めたはずだった。まどかを未来に帰すためにも、康仁は九十九神を封印しなければならない。そして、その身に受けた呪いが解けてこそ、まどかは自由を手に入れる。

「最近は体調もいい」

「……それは、まどかどのがこの世界に来たからでしょう」

「……と言うと?」

 晴明の顔は相変わらず微笑んでいる。晴明は普段、表情をあまり変えない。いつも微笑をたたえて、まるで考えが読めないのだ。

「まどかどのがこの世界に存在することで、九十九神――いえ。霊力そのものがまどかどのに縛られ、また、まどかどのを縛るのです」

 よく分からない。

 晴明の言いかただと、まどかに全ての霊力を操る権限がありながら、その実まどか自身が霊力に操られている、と取れる。

「アイツは一体なんなんだ?」

「……生贄」

「……は?」

「九十九神――いえ。神に選ばれた生贄。わたしはそう解釈しています」

 がたた、と康仁は立ち上がる。

「詳しく説明しろ! 生贄!? なんだそれは!」

 声をあららげる康仁に、しかし晴明は冷静なままだ。

「生まれ変わりという時点で、まどかどのの運命は決まっていました。九十九神のために生きる」

「だったら……今すぐアイツを未来に帰せ!」

「それはまどかどのが決めることです」

 ふうふうと康仁の息が荒くなる。

「そもそも、イザナミへの罰は、終わるものなのでしょうか」

「なにを……」

「犯した罪は、未来永劫許されない。そう言われてる気がしませんか」

「馬鹿を言うな!」

 そんなこと、あってたまるか。

 まどかは九十九神の封印を成し遂げられない。しかし、九十九神を封印出来るのはまどかだけ。故にまどかは、生涯をかけて罪を償う。九十九神を討伐するという罪だ。

 一日に三千の人間が死する世界を作ったイザナミの罪は、未来永劫許されない。イザナミの呪いにより人間が死んで、さらには九十九神という異形までもが世にはびこるようになってしまった。

「だからって……!」

 生まれ変わりに罪はない。だが、九十九神を封印出来るのもまた、生まれ変わり以外に存在しない。

 晴明はそれを、『生贄』と称した。

「俺が火の九十九神を封印する。アイツが残りを。それでアイツは未来に帰る。晴明、アイツには今の話はするな。いいな?」

 念を押す。

 念を押さなくとも晴明が康仁との会話をまどかに話したことはない。

 それでも、康仁は不安をかき消すために、晴明にキツく言いつけてしまったのだ。

 

 一方その頃、厨で洗い物をするまどかと黒雲は、正盛に絡まれていた。

「なあ。まどかと黒雲さまはどんな関係なんだ?」

「え……?」

 ギクリ、肩を震わせたのはまどかである。あわあわと言い訳を探すも、黒雲がぴしゃり。

「私とまどかさんは単なる顔見知りです」

「へえ。だって黒雲さま、アンタは晴明さまの弟子だろう? なぜまどかと知り合った?」

 いやな感じがする。黒雲は正盛をじとりと睨んだ。ここで正盛に対して『予言』を使ってもいいが、なるべく霊力は温存したい。

「それにまどか。まどかは一体何者なんだ? 髪の色だって桜色だし」

 なにか、正盛には見透かされている気がする。

 さしもの黒雲も正盛を警戒し、一歩後ずさった。まどかの手を引き寄せて、黒雲は正盛から離れていく。 

「やだな。俺は敵じゃない」

「貴方の言いたいことは、一体なんですか?」

 警戒をそのままに、黒雲が問う。

「別に。アンタらには興味無いよ。俺はただ」

 ヘラりとした表情が一変し、真剣な面持ちになる。

 まどかも黒雲も息を飲む。

「アンタらが皇子さまに相応しいか、俺はただそれが知りたい」

 正盛の顔がまた、ヘラりと笑った。

 正盛は帝が寄越した料理番だ。まどかの料理の技術を盗み学ぶためにここに来た。

 ならば、康仁のことを気にかけてもおかしくはない。

「私――私と黒雲さん、晴明さんも。みんな皇子さまのために必死です」

「ほう。それはどのように?」

「そ、それは……」

 核心は言えなかった。まどかが巫女で、康仁の呪いを解く存在だとは。

 しかし、正盛はふっと笑う。

「まどかは巫女なんだろ」

「なん、……いや、違……」

「はは。嘘が下手だな。なあに、俺は初めからアンタが何者か知っていてここに寄越された」

 いよいよ黒雲が構える。しかし正盛は、両手を上げて、

「待て待て。俺は敵じゃないって」

「ならば、なぜまどかさんに近づく?」

「黒雲さまはおっかないなぁ。そうだな、もう話してもいい頃合か」

 にっと正盛が笑っている。確かに、敵意はなさそうだ。

「さっき、帝の体調が回復したと連絡があった」

「帝が……?」

「俺の役目は、まどか。アンタの献立で本当に帝の体調が良くなるのか、見届けるためだ」

 それならば、納得が行く。正盛が秘密主義でよく分からなかったのも、帝からの密命だったのだろう。

 ほっとしたまどかに対し、黒雲は相も変わらず正盛を威嚇している。

「では、帝が良くならなかったら、どうするつもりだったのですか?」

 黒雲の言葉に、正盛が笑みを消した。真っ暗な瞳でふたりを見つめ、

「命を奪え。それが俺に下された命だった」

 まどかが唖然とするなか、正盛はけたけたと笑った。

「ま、命令はあくまで命令だからな。どこか、追っ手が来ない場所まで逃がすつもりではいたが」

 まどかと正盛の視線があう。

 その、なんとも言えない表情に、まどかは息を忘れた。

「本当の命がなんだったのか。俺自身もわからん」

「それはどういう意味ですか」

「さあ。帝がまどかを本当に疑っていたのか、あるいは内密に皇子さまの様子を報告させたかったのか」

 それはつまり、帝が康仁を心配している、ということなのだろうか。

「ま、どっちにしろ俺のお役はごめんだ。だから、まどか」

 てっきり、正盛はこの屋敷から出ていくのかと思ったのだが。

「本格的に、俺を弟子にしてくれないか?」

「……は?」

「だから。俺はオマエに惚れた。そばにいたい。料理ももっと知りたい」

「え、え、え?」

 あたふたするまどかに、黒雲が、

「まどかさん。この男は信用なりません!」

 そう助言したのだが。

「別に……正盛さんの好きなようにしてください」

「まどかさん!?」

「そう来なくっちゃ」

 驚き固まる黒雲に、まどかは小さく耳打ちした。

「大丈夫。悪いひとじゃないですよ」

 まどかのそういう人柄が好きだ。誰をも信じてしまうところ、誰をも受け入れてしまうところ。

 黒雲自身もまた、そんなまどかに救われたひとりなのだ。だから黒雲は、なにも言えなかった。

 

 正盛との件を交わして、部屋にまどかと黒雲が戻ってくる。そのタイミングで、晴明が告げた。 

「三種の神器を探しに行きます」

 だし抜けに言われ、まどかは目を丸くするばかりだ。しかし、黒雲は知っていたようで、眉ひとつ動かさない。

「三種の神器が、九十九神に関係あるんですか?」

「はい。九十九神を討伐するために、必要になるでしょう」

 現状、九十九神はまどかのスマホに封印している。そもそも、九十九神を封印出来るのはまどかのみだ。

 三種の神器は、康仁が火の九十九神を封印するために必要なのだが、晴明はそこには触れない。

「三種の神器っていうと、伊勢ですか?」

「まどかどのは、そちらまで明るいのですね」

「や……でも、どれが何処にあるかまでは知らなくて」

 未来では、それらを三箇所にまつっている。

 八咫鏡(やたのかがみ)はまどかの言った三重県の伊勢神宮に。天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、別名・草薙剣(くさなぎのつるぎ)は愛知の熱田神宮に、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は皇居にあるとされている。

「伊勢神宮、熱田神宮。このふたつを訪れ、三種の神器を揃えます」

「……それが必要なら、私も行きます」

 内心では納得していないのかもしれない。どこか、なにかがおかしい。

 晴明と康仁、さらには黒雲はまどかになにかを隠している。そんな思いが拭えないのだ。

 だが、それを口にしてしまえば、なにかが壊れそうな気がして、まどかはただ、晴明の言葉を肯定する他になかった。

「まどかさん。いずれ、三種の神器が役立つ日が来ます」

「うん……そうですね」

「はっ。オマエはつべこべ言わずについてくればいい」

 励ましなのか、素なのか。康仁の態度がいつも通りなことだけが、妙にまどかを安心させた。

 

 旅支度をする。

 要所要所で公家の家に泊まるとして、携帯できる大豆ミートや干した果物は貴重な食料だ。

「まだかかるのか」

「はい、すみません。皇子さまがお好きな食べ物を入れたくて……」

 とはいえ、康仁は好き嫌いも少ないため、どれもこれも持っていきたいというのがまどかの本音だ。

 しかし、大荷物になれば自分が苦しいだけだと、保存性を重視して、干した野菜と少しの干し肉にした。

「よし」

「なにを悩む必要がある。別に、俺の好物でなくとも、オマエの作るものなら――」

 もごもごと言葉を濁す。

 まどかは首を傾げながら、まとめた荷物を手に立ち上がった。

「晴明さんたちをお待たせしてますし、行きましょうか」

「ふんっ」

 康仁の態度がコロコロ変わる。怒ってみたり、なにかを言い淀んだり。

 それがなにを意味するのか、まどかには分からない。きっと、晴明たちとの秘密があるから、だから後ろめたいのではと、そんな的はずれなことを思ったほどである。

「晴明さん! 黒雲さん!」

 荷物を抱えるまどかに、晴明の式神が走りよる。人型をした、紙で出来た式神だ。それがまどかの足元にちょこちょこと走り回るものだから、まどかの頬が緩んでしまう。可愛い式神もいたものだ。

「式神に乗るんですか?」

「はい。二箇所回るにはそれ相応の時間がかかってしまいますゆえ」

 サッと晴明が身をかがめる。まどかを誘うように、式神へと促したのだ。

 だが、それより先に康仁を式神に乗せるべきだと、まどかもまた、その場に頭を下げた。

「……いい。頭を下げるな」

 少しばかり居心地の悪さを感じた。康仁は特別な存在ゆえ、まどかや晴明、黒雲たちとは相容れないのだと。そんな疎外感すら感じてしまう。

 寂しさと妙な腹立たしさを抑えて、康仁が式神に乗る。康仁の後ろに晴明が、もう一体の式神にはまどかと黒雲が乗る。

「では、行きましょう」

 晴明の掛け声を合図に、式神が空高く翔け上がった。

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