第3話 式神の使い方

 釈然としない終わりかたをした帝の料理番の件をかきけすように、まどかは黄色く熟れた梅の実を前にしている。

 そこには晴明や黒雲の姿もあった。

「いい香りですね」

「うん。よく熟れた梅の実を使わないと、皮が固くなったりうまく梅干しがしあがらないんですよね」

「まどかさんの知識は底無しですね」

「照れます」

 梅の実を洗ったらよく水気を拭き取って、ヘタの部分を楊枝でくりぬく。

 梅の実を傷つけないことがこつであるが、この時点で傷がついた梅をどうするか。

「砂糖があったら、傷梅の実と同量の砂糖で煮て、濾したものを梅ジュースにできるんですけど」

「じゅーすとはなんだ?」

「あ。えーと、甘い飲み物です」

 康仁が興味津々に訊き返した。

 梅ジュースは青梅を氷砂糖に漬けてエキスを抽出する方法もあるが、まどかは熟した梅を砂糖で煮て、ザルで濾した梅ジュースが好きだ。このとき大切なのは、梅の実を潰さないように煮ることと、濾すときも梅の実を潰して絞らないようにすることだ。

「ジュースとは……どれ程うまいものなんだ?」

「それは……至福の味ですね」

 平安時代に来てから、砂糖の甘味は食べていない。そろそろまどかも砂糖が恋しくなってきた。

「はあ」

「まどかさん。手が止まってます」

「あ、すみません」

 黒雲はまどかの隣で、まどかを心配そうに見ている。天皇陛下の件を康仁から聞いていたので、もう少し思い悩むかと思っていたが、そうでもないようだ。

 山盛りの梅の実から次々にへたをくりぬいている。

「ところで」

 康仁は先程から手が動いていない。果てしなく山積みにされた梅に、すでに辟易しているようだ。

「オマエ、この平安のことをよく知らぬままだろう?」

「……えーと、まあ。知らないですね」

「それならば、梅の下処理が終わったら、晴明と黒雲とともに案内してやる」

「……いや、でもわざわざそんなこと……」

 まどかが困った様に笑うも、黒雲は乗り気である。

「行きましょうよ、まどかさん」

「え、えー。なんで急に?」

 まどかは無意識だろうが、やはり先日の件が尾を引いている。それを、康仁だけが見抜いた。

 幼い頃から他人の顔色をうかがって生きてきた康仁だからこそ、まどかの些細な変化に気づけたのだ。

「オマエは俺の気遣いを無駄にするのか?」

「あ、いや。じゃあ、そうしましょう」

「ふん。はじめからそう言えばいいものを」

 康仁が鼻をならす。

 

 大量の梅の処理は、最終的に昼まで時間がかった。

 ヘタを取り終えた梅と、二十パーセントの塩を用意する。

 本当は梅の実と桶に焼酎かホワイトリカーを噴霧して、カビ防止に使うのだが、今回はそれはできない。

「梅と塩を交互に入れていきます。最後に重石をして、梅酢があがるのを待ちます」

「大分たくさん作りましたね」

「うん。梅は応用がきくし、保存もきくから、できるだけたくさん作りたかったんです」

 黒雲とまどかが仲良く話す。その傍らで、晴明が微笑んでいる。

 しかし、康仁だけは渋い顔だ。

 鈍感だ。まどかは自分の心に鈍感だ。

 梅干し作りで心をごまかしているだけで、昨日のことなんてまるで解決していない。しこりとなって残っているはずなのに、自分で自分の心に蓋をする。

「オマエ、鈍いって言われないか?」

「にぶい……?」

 出し抜けに康仁がまどかに言うも、まどかは頭にはてなを浮かべている。

 にぶい。

 そう言われてみれば、職場でそんなことを言われた気がする。まどかはへこたれないよね。

 あれはもしかしたら、遠回しに『にぶい』と言いたかったのだろうか。

「私って、にぶいですか?」

 戸惑うように聞き返すまどかに、

「にぶいな。鈍感も鈍感。ここまで来ると、国宝級だ」

 康仁の言葉に、まどかは苦笑を浮かべる他なかった。

 

 梅干しの仕込みは完璧だ。あとは一ヶ月ほど漬け込んだら、土用の晴れた三日間を使って干していく。基本的に夜は室内に取り込むが、三日目だけは夜も干す。夜露にあてることでしっとり柔らかな梅干しに仕上がる。

「それで、どこに行くんですか?」

 牛車では時間がかかる、と、康仁は晴明に式神を所望した。

 晴明と康仁、まどかと黒雲にわかれて、式神の背中にまたがっている。あの、馬のような式神だ。

 颯爽と空を駆けながら、景色をみやるのも悪くない。

「平等院を見せてやる」

「平等院……って、あの平等院!?」

「なんだ、知ってるのか」

 康仁が少しだけ面白くなさそうに言う。

「知ってるもなにも。未来にも平等院は存在します」

「なら、やめるか?」

「いえ! むしろ未来の平等院と比べたいです!」

 まどかの表情が明るくなる。

 京都の歴史ある建物は、未来でもいまだ残っていることが多い。

 そのうちのひとつ、平等院となれば、がぜん興味がわいてくる。十円玉に刻まれるほどの有名な建物だ。

「まどかさん。未来では建築物はどのようになっているのですか?」

 まどかの後ろに座る黒雲が興味深げに聞いてくる。

「建物……鉄筋コンクリートに、二十階建てとか……」

「鉄筋?」

「えーと。金属の骨組みに、とにかく高い建物ばかりで」

 黒雲がうなる。

 側を駆ける康仁もまた、興味深そうにまどかの言葉に耳を傾けている。

「みな、鉄筋コンクリートに住んでいるのか?」

「あっ、いや……家はひとそれぞれですが。一軒家は木の骨組みなので、今とあまり変わらない……のかな?」

 専門外のことはまどかにはわかりかねる。もとより、まどかは料理以外の勉強が苦手だ。

 未来の建築物の作りかたなど、まるでわかるはずもない。

「見えてきたな」

 康仁の言葉に、まどかは目を凝らす。だが、目をこらすまでもなく、それは見えた。

 威風堂々、そびえ立つそれは、修学旅行ぶりではあるが、そのときとなんらかわりない。

「やっぱり、すごいなぁ」

 この時代にあのような建物を作れる技術は、心底すごいとまどかは思った。

 そしてこの平等院は、未来まで受け継がれる歴史的な建物となる。

「なかに入るか」

「えっ、なかに!?」

「なにを驚く。俺は皇子だ。入れぬ場所などない」

 そわっと、まどかの期待が一気に最高潮に達したことは、その場にいるだれもがわかった。

 式神を走らせ、降り立った平等院は、それはきれいで、まどかは我を忘れてみいっていた。

 

 平等院の帰りである。ひゅっと冷たい風がまどかを包み込んだ。

「まどかさん!」

 そのまま、冷たい『なにか』に巻き上げられ、まどかは天高くにさらわれた。九十九神だ。

「油断しましたね」

「晴明さま、私が式神をだします」

 びゅうっと音がなる。初夏には似つかわしくない冷たい風だ。風の九十九神、といったところだろうか。

 まどかは抵抗しようにもできなかった。

 この九十九神が手を離せば、まどかは落下し、しぬ。

「……スマホ……」

 ぎゅうっと捕まれているため、身動きがとれない。だが、どうにかして対抗しなければ。

 身じろぐと、九十九神の手が少しだけ緩まった。その隙をついて、まどかはスマホを懐から取り出す。

 果たして、まどかの使役できる二体の式神のうち、空を飛べるものはいるだろうか。

 迷いを見せたまどかに、九十九神はここぞとまどかに襲いかかる。

「あっ!?」

 がっと口を開いた九十九神を避けるように体勢を崩したまどかは、その手からスマホを滑り落とした。

 まどかは、対抗手段を失った。

 

 まどかがさらわれてから、晴明と黒雲はすぐに式神を顕現した。

 九十九神の狙いはまどかである。まどかに封印されまいと、まどかをなきものにと目論んでいる。

 そして地上では、まどかをさらったものとは別の九十九神が、晴明たちを取り囲んでいた。

「らちが明きませんね」

「しかし、皇子さまを置いていくわけにはいきません」

 九十九神のもうひとつの狙いが、康仁の命である。

 康仁には短命の呪いがかけられているが、それは必ずしも『呪い』である必要はない。

 康仁の命を狙うことは、まどかの巫女としての役目の終わりに直結する。ゆえに、九十九神たちは一斉にまどかたちを襲撃するに至った。

「皇子さま! ご無事ですかっ!?」

「大事ない。黒雲、そなたはアイツのもとへ行け」

「ですが」

 晴明が三体の九十九神をさばいている。黒雲は残りの一体を。

 康仁に九十九神に対抗できうる力はない。

 ないのだが、康仁は黒雲をまどかのもとへ行かせたかった。

「黒雲、わたしに任せて。まどかどののもとへ」

「ですが、晴明さま」

 黒雲がまどかがいるであろう空高くを見上げる。

 キラ。

 光ったそれに、黒雲は気づいた。なにかか落ちてくる。

「あれは、アイツのスマホだ!」

 いち早く気づいたのは康仁である。

 黒雲の結界から迷うことなく飛び出して、落ち行くそれの真下に陣取る。

 康仁がスマホに注視する。その康仁を黒雲と晴明が守り固める。

「っと、よし!」

 パシっとしっかりスマホをキャッチし、康仁は黒雲を振り返る。しかし、黒雲は九十九神に手一杯で、まどかのもとには行けそうにない。

「皇子さま、これをっ!」

 辛うじて晴明が出した式神に、康仁はすべてを理解する。

 今、自由に動けるのは康仁だけだ。ならば、このスマホをまどかに届ける適任もまた、康仁以外にいない。

 康仁は晴明の顕現した式神にまたがると、そのまま一気に上空へと飛翔する。

「無事かっ!?」

 空高く、まどかが九十九神の手のなかでぐったりとしている。よもや、握り潰されたのだろうか。

 九十九神が康仁に気づき、雄叫びをあげる。

『ぐぉお!』

 振りかざされた九十九神の手を、式神がギリギリでかわす。

 まどかは死んでいるのだろうか。

「おいっ! 起きろ!」

「ん……おうじ……さま……?」

 たらりとまどかの頭から血が流れている。九十九神になんらかの攻撃を受けたのは確かなようだ。だが、致命傷には至っていない。

「おい! スマホを受けとれ!」

 しかし、康仁が九十九神を討伐できるわけもない。それが出来るのは、まどかだけである。

 九十九神の攻撃を掻い潜りながら、康仁は力なく伸ばされたまどかの手に、スマホをしっかりと投げ、握らせた。

「やれ!」

 スマホを渡して、康仁は九十九神からやや距離をとる。助太刀したくとも、康仁にはなにもできない。

 ただ、康仁もやられっぱなしではなかった。九十九神の気を引くために、わざと声をあげ、目の前をちらつくように式神で駆けた。

「……皇子さま、ありがとうございます」

 ぐらぐらする頭を振り切って、まどかは自身を握り潰さんとする九十九神を、その写真へと封じ込める。

『ぎぃやぁ!』

 けたたましい声だ。

 康仁は耳を塞ぎながらも、俊敏に動く。

 落下するまどかを空中で受け止めると、そのまま式神にまたがらせて、意識を失うまどかを抱き抱えるように、大切に大切に地上まで運んだ。

 軽い、と思った。まどかを抱き抱えながら、康仁は、その軽さに驚いた。もとより、女性を抱えたのははじめてで、だからこそその『創り』の違いに驚いた。

 こんなに華奢な体で、どうやって九十九神に対峙するというのだろうか。

「皇子さま、まどかどの!」

「晴明。九十九神は?」

「退散しました。おそらく、まどかどのが風の九十九神を封印してすぐに」

 式神からおりて、康仁はまどかも一緒に地面に下ろす。頬にべったりとくっつく血を見て、蒼白したのは黒雲である。

「まどかさん!」

 走りより、黒雲はまどかを膝に抱いた。息はある。

 黒雲は自身の衣の袖でまどかの血を拭う。傷は浅いようで、ほっと息がもれた。

「晴明さま。ともかく、まどかさんを手当てしましょう」

「はい。皇子さま。わたしの屋敷で手当てしますので、まずは皇子さまを御所にお送りしてから――」

「俺もいく」

 晴明たちは、康仁を安全な場所に送り届けたかったのだが、康仁が断固拒否した。それどころか、まどかの手を握って離さない。

「俺の責任でもある。だから、コイツが目を覚ますまで、俺もそばにいる」

 康仁自身もわからない。なぜこんなに胸が苦しいのか。なぜこんなにも気になるのか。

 もしかすると、まどかもただの人間だと思い知らされたせいかもしれないし、あるいは別のなにかが芽生えたのかもしれない。

 

 晴明の屋敷の布団にまどかを寝かせる。頭の傷は思ったより軽傷で、一センチほど傷がついたくらいだった。

 しかしまどかは、その翌日の朝に目を覚ました。

「ん……え。え!?」

 まどかを取り囲む、晴明と黒雲、そして康仁。まどかは体を起き上がらせるも、ずきっと頭が痛む。

「痛っ」

「まどかさん、まだ痛みますか?」

「少しだけ……風の壁みたいなので殴られたから……」

 先日の九十九神は風を操る。ゆえに空高くまで舞い上がることは造作もなかったし、攻撃もまた、風に関するものだった。

 まどかが力なく笑う。康仁の表情が歪む。

「オマエは本当に巫女か? まるで役に立たん」

「はは……言い返す言葉もないです」

「なにをへらへらと笑う!」

 一歩間違えば死んでいた。それはこの場の誰もがわかっている。だからあえてその言葉は飲み込んだが、場の空気が一気に暗いものとなる。

「まどかどの。起きて早々に悪いのですが」

 切り出したのは晴明である。

「霊力と式神の使いかたについて、お教えします」

「……はい。私もそう思ってました」

「では、明日から――」

「いえ。今からお願いできますか?」

 ずきっと頭がまた痛む。しかし、明日などと悠長なことは言っていられない。まどかは布団を出て、パッと笑った。

「ほら、私、元気だけが取り柄なので」

 強がりなのは誰が見ても明らかである。しかし、まどかの意思を無下にするわけにもいかない。なにより、九十九神が力を強めつつある今日(こんにち)、早急な対応策は必須だ。

「では……まどかどのには、毎日朝晩の瞑想と」

 晴明が懐から呪符を取り出す。その呪符にふっと息を吹き掛けると、式神が顕現する。

「式神を自由に使えるようになってもらいます」

 晴明が式神に命令すると、庭の木の葉を一枚、音もなく切りおおせた。

 その無駄のない流れに、まどかは不安になる。果たして、自分にあのようなことができるようになるのだろうか。

「さあ、まどかどのも、式神を出して」

「あ、はい……」

 スマホを取り出し、まどかはその画面に写る一体を顕現する。先日封印した、風の式神だ。

「まどかどの。集中して」

「集中……」

「そう。式神の霊力を感じて――」

 ジリジリジリジリ。

 まどかの体にわずかばかりの電気が流れる。霊力だ、しかもこれは、この式神の。

 集中、集中。

 しゅうちゅう。

 バンッとまどかの目の前を、火花が散った。

 思わず目を閉じる。しかし、霊力は感じたままだ。

 集中を切らさず、目を開ける。

『え?』

 自分の姿が見える。晴明の姿も、黒雲も康仁も。

 まどかの体から力が抜けて、人形のように倒れる様子を、まどかは端から見ている。いや、『端から』ではない。ここは『式神のなか』だ。

『あの、晴明さん、黒雲さん』

 しかし、まどかの言葉は晴明たちには理解できていないようだ。倒れたまどかを揺さぶりながら、まどかの名前を必死に呼んでいる。

 違うんだ。私はこっちにいる。

 しかし、誰もまどかには気づかない。

 やがてまた、まどかの目の前を火花がとんだ。

 かと思えば、

「ん……う……晴明さん、私……」

 目を覚まして、いの一番にまどかは言った。

「私、さっきまで式神のなかにいました」

 果たして、まどかの能力の片鱗は、晴明すらも驚くようなものだった。

「なかにいた?」

 傍らでまどかを心配していた康仁が、怪訝そうに訊き返した。

「はい。式神のなかに」

「はぁ?」

「それは……同調したと?」

 康仁のほうはいまだ信じられないようだが、晴明は違う。すべてを飲み込んだようだ。

「えーと、たぶん」

 精神が肉体を離れて、式神のなかに入った。それ以外に説明のしようがない。

 まどかは自身の手をぐっぱと握り、感覚を確かめる。

「だとしたら、まどかどの。あまりその力は使わないほうがいいですね」

 しかし晴明は前向きではない。まどかを心配するように言った。

「なんでですか?」

 まどかが首をかしげる。おのずから式神を動かせるのならば、それほど心強いことはない。まどかはそう考えたのだが、

「痛覚です」

「痛覚……?」

「恐らくですが。同調に当たって、痛覚も共有されるかと思います」

 なるほど、それなら話はわかる。だが、まどかはすでに、そんなことは覚悟している。九十九神と戦って、自分だけ無傷でいるわけにもいかない。

「でも。もしも私が、式神をうまく操れるようになったら、みんなも心強いでしょう?」

「それは……」

 晴明が言葉に詰まる。まどかは「ね?」とごり押しして、式神との同調を訓練する約束を取り付けた。

 

 康仁の御殿に帰り、まどかはまず、塩麹を作り始めた。

 なんとなく思い浮かんだのだ。こうじと塩とぬるま湯を混ぜて、一、二週間常温で発酵させれば、塩麹の完成だ。

「あと、紫蘇が生えてきたら梅の半分に加えます」

「ほう。紫蘇梅だな。あと、ゆかりとやらを作るとも言っていたな」

「はい。漬けた紫蘇を乾かすだけで、おいしいふりかけになります」

「ふりかけ……未来では不思議な名付けかたをするな」

 康仁はぶっきらぼうに言うも、その表情は明るい。ゆかりに思いを馳せる様子に、人間の探求心を垣間見た気がした。

「今夜は、肉チヂミにしましょうか」

「肉チヂミ……聞いたことがないな」

「あ、はい。韓国の伝統料理で。すごく美味しいんですよ?」

 自信満々のまどかに、康仁はばれないように生唾を飲み込んだ。

 

 本来は小麦粉と片栗粉を半量ずつ混ぜ合わせて生地にするが、今回は片栗粉の代わりに葛粉で代用する。

 具にはニンジンや玉ねぎ、ニラを入れるが、手に入ったのはニラのみである。肉はニラにあわせて細く切る。

「ひしおで味付けて、卵も混ぜて」

 作りかたはいたってシンプル。粉類に卵と水を混ぜ合わせて味付けしたら、具になる野菜を混ぜる。

 それを多めの油で焼けば、チヂミの完成だ。

 本当ならばつけだれに豆板醤を混ぜた甘い酢醤油がほしいところだが、今夜は酢とひしおを混ぜただけのシンプルなたれだ。

 夕飯は軽めが体にいい。

 今日の夕飯のメニューは肉チヂミにゆで卵のひしお漬け、薄味の鳥のあつものにゆで野菜のナムルだ。

「変わった料理だな」

「はい。今日は韓国のお料理でまとめてみました」

「この野菜は……味はついているのか?」

 チヂミより先に、康仁はナムルに興味を持った。表面が油で光っているが、まるで味がついていないような色味だ。

「ナムルはゆでた野菜に塩と鶏ガラスープのもと、胡麻油であえる料理なんですけど」

「鶏ガラ?」

「あ、はい。鶏からとっただしのもとですね。この時代にはないので、鶏のスープとひしお、それから塩であえました」

 鶏ガラを作っている時間はなかったので、あつものにいれる鶏を茹でた汁を代用品にした。

「みるからに手抜きだな」

「まあそうおっしゃらずに」

 まどかの自信に、康仁はナムルを口に入れる。

 胡麻油の香りが香ばしく、シンプルながら深みのある味付けだ。薄味なのでいくらでも食べられる。

「チヂミも冷めないうちにどうぞ?」

 四角く切られたチヂミを箸でつまみ、そのままはくっと康仁がかぶりつく。

 なんともいえない味である。

 チヂミの生地のとろっとした味わいに、卵の風味も感じる。生地に味がついているため、単品でもうまいが、たれをつけるとよりうまい。

 はく、はくっと康仁の食べる手が止まらない。

 どうやら気に入ってくれたようだと、まどか緩む頬を隠せなかった。

「たのもう!」

 その声が聞こえたのは、康仁が夕餉を食べ終わるかといった頃合いである。

「あっ、勝手にあがられては」

「そなた、何奴!」

 家臣たちの制止などまるで無意味に、ずかずかと康仁の部屋まで歩いてきたのは、とある男である。

 職人気質という言葉がぴったりな、きびきびした男だった。

 康仁が警戒するも、康仁を目の前にして、男は恭しくこうべを垂れた。

「皇子さま。俺は正盛というもの」

「正盛……?」

「はい。帝の料理番をしておりました」

 まどかは康仁をそっと見やる。案の定、顔を歪ませ男――正盛を忌々しそうに見ている。

 しかし、正盛は康仁そっちのけで、康仁の許可なくたちあがると、おもむろにまどかの前まで歩く。そしてまどかの手を握ると、

「まどか、弟子にしてくれ!」

「……は? 私?」

「おい待て。コイツは俺の料理番だ。勝手は許さん」

 まどかの手を握る正盛の手を振りほどいて、康仁は不機嫌を露に言う。

 しかし正盛はなんら臆することなく、にぱっと笑った。

「皇子さまに話しているのではありません。俺はまどかに願い出たのです」

「だから、コイツは俺の料理番……」

「帝のご下命です。まどかの料理の腕を盗め」

 正盛は食えない男だとまどかは思った。帝の命令ならば、勅命の文書なり、あるいはそれなりの手はずを踏んでここに来ればいいものを。

「はっ。そんなはったり、俺にきくとでも?」

「信じないなら構いませんが。まどか、それで返事は?」

「え、私?」

 ちらりと康仁を見やるも、ふるふると顔を横に振られてしまう。

 正盛の正体は確かに不明瞭だ。帝の命だと嘘をつき、康仁の厨に入り込んで暗殺を目論んでいるやもしれない。

「信じられないか?」

「あ、えーと。そうですね。一応私は皇子さまのお命をお守りしなければなりませんし」

「ふぅん」

 正盛がまどかを見てうなる。どこか納得したようにうなずくと、懐から紙を一枚、取り出した。

「皇子さま宛です」

 渡された紙をくるくると開き、康仁は中身を読む。

 まどかも康仁とともにそれを読むが、達筆すぎてよく読めない。読めないのだが、その文字だけはわかった。

「帝からの勅命書だな。なぜ先に出さなかった」 

「いやあ。まどかの覚悟を見たかった」

「は?」

 怒りを露にしたのは康仁のほうである。

「コイツが俺を裏切るか確かめたかったのか?」

「裏切るだなんて。料理番として皇子さまを守れないようだったら、そもそも弟子入りなんかする気もないし」

 正盛がまどかを見る。先程までのへらりとした雰囲気はなく、どこか恐怖すら感じ取れる。

「皇子さまを守れないようなら、俺が自ずから手を下してますよ」

 ガッと康仁が正盛の胸ぐらを掴んだ。怒気を含んだ康仁に、気圧されたのはまどかである。

 なにがなんだかわからない。正盛もそうだが、なぜ康仁が怒りに飲まれているのか、まどかにはわからない。

「お、皇子さま、天皇陛下の使いのかたに手をあげるのは……」

「オマエはあんな言いかたをされて頭にこないのか!?」

「それは……」

 本当なら、まどかだって頭に来ていないわけではない。ではなぜ、まどかが冷静のかといえば、

「皇子さまが代わりに怒ってしまわれたので、私は冷静にならざるを得ないといいますか」

 正直なところを話せば、ぱちりと康仁は目を丸くした。

 そして我に返ったのか、正盛の胸ぐらから手を離して、こほん、咳払いをした。

「弟子はならん」

「ですが、帝のご下命で」

「そなたが罰を受けるだけだ。俺には関係ない」

「ひどいですね。そうか、そうかぁ。俺は罰を受けるのか」

 ちら、ちら、と正盛はまどかのほうに視線を寄越す。

 それがあまりにもあからさまで、康仁はますます機嫌が悪くなる。

「お、皇子さま、私は弟子が出来ても構いませんし」

「は? オマエ、なに言って……」

「だ、だって。天皇陛下の命に背いたら、皇子さまにも罰が及ぶかもしれないでしょう?」

「……オマエは本当に……」

 康仁ははぁっと頭を抱えてため息をつく。

 おろおろするまどかに、へらりとした正盛。

 しかして、折れたのは康仁である。

「俺の料理を作るのはあくまでオマエだ。その条件で、正盛とやら。そなたを弟子として迎えよう」

「そうこなくちゃ。皇子さま、まどか。これからよろしく頼むな?」

 かくして、新たな料理人がひとり、加わった。

 つかみどころのない、帝直々の使いである正盛が、まどかの弟子として康仁の御殿に居座ることとなる。

 

 翌朝から、正盛の弟子入りが本格的に開始された。

「正盛さんは、どの程度料理ができるんですか?」

 まず最初に、まどかは正盛の技量を確かめた。包丁の使いかたと調理の知識はそこそこあるが、それはあくまで『平安の』調理方法的である。

 ゆえにまどかは、初歩中の初歩から教えることにした。

「まな板の前に立つときは、利き手側の足を半歩後ろに構えます」

「半歩後ろに?」

 まどかに倣って正盛は右足を半歩後ろに引いた。

 結果、右手に握る包丁が、まな板の右から左まで、有効に活用できることに気づいた。

「なるほど。まな板に平行に立つとまな板に対して右手が斜めになるな」

「そうです。半歩後ろに引くことで、まな板のすべてを有効に活用できます」

 飲み込みが早い正盛に、まどかはだんだんと楽しくなってくる。

「今朝は伊達巻と焼いた魚、あつものの味噌汁風におひたしを作ります」

「伊達巻?」

「はい。ゆでた白身魚を包丁で細かく叩いて、卵と砂糖――甘酒で甘味をつけて焼き上げます」

 本格的に作れば手間はかかるが、伊達巻は案外簡単に作ることもできる。

 未来でははんぺんで代用していた。

 小さめのはんぺんに卵三個、みりんと砂糖を混ぜたら卵焼き器に流し込む。アルミホイルで蓋をして蒸し焼きにして、焦げ目がついたら裏返す。

 焼き上がったらおにすかアルミホイルで巻き込んで包み、そのまま冷ませば伊達巻のできあがりだ。

 ポイントは、冷ますときはおにすに巻いたままにすることだ。巻かずに冷ますと生地がしぼんで薄くなる。

「へえ。なかなか手際がいいな」

「はい。大量調理に比べたら楽なものです」

「大量調理? まどかは一度にどれだけ作っていたんだ?」

「まあ、ざっと百ほど」

 しゃべりながらも手は止めない。

 伊達巻を一番最初に仕込んだら、次はおひたしを作る。あつものは豆腐とワカメと、油揚げと大根を入れた。

「あつものに昆布と煎汁を入れるのはなんでだ?」

「あ。はい。これは『だし』です」

「だし……?」

 本当なら、鰹節があればいいのだが、この時代にはまだそこまでの技術はない。代わりに、煎汁という、堅煮魚を煮た汁を使っている。

 昆布は献上品として康仁の屋敷にもたくさんあるため、まどかはそのふたつを使って混合だしにしている。

「だしは、二種以上をかけあわせると、単体より何倍にもおいしくなるんです」

「へえ。それは知らなかった」

 切り込みをいれた昆布を三十分水につけたら、火にかける。沸騰直前に昆布を取り出せば、昆布だしのできあがりだ。

 だが、まどかが使う昆布だしは、少し違う。

 前日のうちに水に昆布をつけておいて、一晩抽出した昆布だしを使っている。

 水出しの利点は、手間がかからないことである。

「だが、まどかの昆布だしの取り方は初めて聞く方法だな」

「いや、まあ。ちょっと楽したいっていうか」

「なるほど。手を抜くところは抜く、と」

「正盛さんは変なところも気がつくんですね」

 そうこうしているうちに、朝御飯の支度がすむ。

 まどかと正盛は、膳を持って康仁の部屋へと歩いていく。

 

 不機嫌露に、康仁がまどかたちを出迎えた。朝は七時、健康的な生活である。

「皇子さま、朝御飯ができました」

「鬼食いをせよ」 

「え……?」

 いつもなら毒味などさせない康仁だが、今日は違った。正盛を警戒しているようだ。

 まどかは言われるままに毒味をして、

「はい。終わりましたよ」

「わかった。ならば、正盛はさがれ」

「え。俺だけ追い出すんですかい?」

 ぎろり。

 康仁がにらみをきかせれば、正盛は渋々康仁の部屋を出ていった。

 残されたまどかは居心地の悪さを感じ、押し黙る。

「今日の料理はまずいな」

「え。お口にあいませんでした?」

「ああ、ああ。アイツと一緒に作られた飯など、まずくて食えたもんじゃない」

 悪態をつきながらも、康仁ははくはくと料理を口に運ぶ。やけ食いに近い。

 まどかはかける言葉が見つからず、苦笑を浮かべるしかできなかった。

 康仁が正盛を嫌うのは、正盛が帝の使いだからだ。

 だか、正盛への態度を鑑みたとき、康仁が思いの外まどかに心を許していたことに気がついて、満更でもないと思ってしまった。

 まどかがしみじみしていると、康仁が眉間にシワを寄せながら、

「オマエは危機感が足りん」

「危機感……?」

「オマエはあくまで巫女だ。それを正盛に悟られては、俺が困るとわからないか?」

 言われてみれば、失念していた。まどかは巫女だ。しかも、康仁の呪いを解くために未来から呼ばれた。

 巫女がそばにいるだけで大問題であるし、そもそも康仁の呪いの件はごく内密にされている出来事だ。

「そういえば、最近はお体の調子が――」

 よさそうですね。

 その言葉を発する前に、康仁がはらりとその場に崩れ落ちた。音もなく倒れた康仁に、まどかは慌てて康仁に近寄る。

 息はある。しかし、

「アザが……」

 失礼かとも思ったが、まず最初にまどかは康仁の左袖を捲りあげた。案の定、例のアザは広がって、胸までおかされた状況である。

 正盛を追い返したのは、体調が悪かったことも理由のひとつのようだ。それにまったく気づかなかった自分に、まどかは情けなくなる。

「ど、どうしよう。お医者さま!」

 ひとを呼ぼうと立ち上がるも、まどかの服の袖を康仁が摘まんだ。

「いい……じきに収まる」

「で、でも」

「呪いに医術は無意味、だ……」

 ひゅうひゅうと息苦しそうだ。

 まどかは迷わず康仁の衣の会わせ目を緩める。

「オマエ、ほんと役にもたたないな」 

「……すみません」 

 憎まれ口を叩く余裕など、本来ならばないに違いない。たが、康仁はどうしてもまどかに心配をかけたくなかった。それは意地なのだろうと康仁は思ったし、まどかもそう思った。

「また、あの九十九神が現れたんですか?」

「……ああ」

「なにか、してほしいことはありますか?」

「左手が……あつい……」

 ぼうっと康仁の焦点が定まらない。このまま康仁をおいていくわけにもいかず、まどかはそのまま、康仁の手をギュッと握りしめ、早くよくなりますように、と願うことしかできなかった。

 

 一時間ほどして、康仁が眠りにつく。家臣の男に康仁の看病を頼んだまどかは、厨へ走る。

 氷はすぐには手に入らないが、濡れた布巾で左手を冷やそうと考えたのだ。

 忙しなく動くまどかは、厨にいる正盛のことなど目に入っていない。

 たらいに水を張り、さらしを何枚か用意して、まどかは再び康仁のもとへと走った。

 その間、時間にして数分である。たった数分、康仁のもとを離れただけだとうのに、

「オマエは……俺をおいてどこにいってた」

 寝所の康仁は、けだるそうにしながらもその上座にしっかりと座る形で、まどかをなじった。

「や、皇子さまの左手を冷やそうかと」

「誰の許可を得て勝手に動いた」

「え、っと。私は……」

 ふうっと康仁がため息をつく。

 そして左袖を捲りあげると、

「冷やせ」

「あ。はい。失礼します」

 濡らしたさらしを絞って、康仁の左手にあてる。

「っ!」

「あ、痛いですか?」

「いや。冷たくて気持ちいいな」

 不機嫌なのか機嫌がいいのか。まどかにはもはやわからない。

 先ほどまでふくれ面をしていた康仁が、今はほのかに微笑んでいる。

 なにが康仁をそうさせるのか、まどかにはわからなかった。

 

 昨夜のことである。

 康仁が息苦しさに目を覚ますと、そこには例の火の九十九神がいた。

 康仁の枕元に立ち、なにかをしきりにつぶやいている。

『は……え。……え』

 小さな小さな声である。康仁はその声に耳を傾ける。自身の息苦しさを忘れるほどに、その声にはなにか『きっかけ』が隠れているような、そんな予感がした。

 ぽろぽろと火の九十九神が火の涙を流している。

 ホロホロと零れ落ちた涙が、康仁の左手に滴り落ちる。

「痛……」

 思わず声を漏らしてしまい、康仁ははっと口をつぐんだ。しかしすでに遅く、火の九十九神は康仁に気づくと、今日はどういうわけか、康仁に牙をむく。

 カパッと大きな口が開き、火の九十九神は康仁の左手にかみついた。

 ジリッと音がする。焼けこげるにおいも。

「やめ、ろ」

『はは……なぜ……』

 一向に火の九十九神の言葉は聞き取れないし理解できない。だが、康仁に向けられた言葉であることは確かなようだ。

 火の九十九神は、今まで康仁に危害を加えることはなかった。それが今日、あっさり覆った。

 普段から夜は家臣の見張りもつけていない。それが今日は裏目に出た。

 まどかを呼ぼうにも部屋が離れているし、今日の火の九十九神はどこか『おかしい』。

「はな、せ」

『……うえ、なぜ』

 康仁の左腕にかみついた口をいったん離して、火の九十九神はもう一度大きく口を開いて、再び康仁の手にかみつこうとする。

 だが、康仁のほうが速い。

 火の九十九神が康仁から離れるや、身をひるがえして火の九十九神を交わし、康仁は構えた。

「オマエはなにがしたい?」

 答えなんか来ないと思っていた。もとより、九十九神に言葉が通じるとも思っていない。

 しかし、意外にも九十九神は答えた。

『なぜ、です。ははうえは、なぜオマエを助けるのですか』

「……!?」

 なぜ。

 火の九十九神ははっきりとそう言った。しかも、心配しているのだ、まどかを。

 しかし、まどかが康仁を助けたところで、火の九十九神には『封印される』こと以外の不都合はないはずである。

 火の九十九神に顔はないが、しかし康仁にはわかる。火の九十九神はまどかを『案じている』。

「オマエこそ、なぜアイツにこだわる」

 もう一度問いかける。

 火の九十九神はくるんと首を大きくかしげて、大きな口から火を吐き出しながら答えた。

『イザナミを裏切ったイザナギが、なぜ母上の傍にいる?』

「……っ!」

 ひゅっと息をのむ。

 天皇家には何代かに一度、康仁のような『呪い持ち』が生まれてくる。その理由を誰かに聞いたことはなかったし、あの晴明ですらなにも教えてくれなかった。

 イザナギの生まれ変わり、つまりそれが、康仁だ。そしておそらく、それが呪いの根源である。

「……オマエこそ、母を殺した火の神が、アイツに近づけばどうなるかわかってんのか」

 ぼっぼっぼっぼ。

 怒っているのだろうか、辺りに火の粉をまき散らして、火の神はほえた。

『いずれオマエを葬り去る!』

 そうしてすうっとなりをひそめた。

 なにからなにまでわからない。

 火の九十九神は康仁をひと思いに殺すことをしない。そして、まどかに執着している。

 ははうえ、といっていた。つまり、まどかをイザナミだと思っている。

 だがそれよりも今は、康仁自身のことのほうが先である。

「俺が……イザナギの生まれ変わりだと……?」

 左手のあざは胸まで広がっていた。しかし、痛みより衝撃より先に、疑問が康仁を支配する。

 康仁がイザナギの生まれ変わりだとしたら、前世ではまどかと夫婦だったことになる。

「俺がアイツの……」

 しかし、晴明も言っていた通り、生まれ変わりといったって、別の人生を歩めば全くの別の人間である。

 前世でどのようなえにしがあろうとも、康仁は決してまどかに特別な感情など抱いていない。断じて。断じて……。

 

 昨夜のこともあり、康仁は一睡もできなかった。それに加えて火の神からの呪いの浸食が広がったとなれば、倒れてもおかしくはない。

 しかし康仁は、火の九十九神の言葉をまどかに伝えることができなかった。

 変に火の九十九神に肩入れして、封印できなくなるのではと危惧したのだ。

「オマエ、もしもだが」

「なんでしょう。皇子さま」

「もしも、九十九神にも感情や……やむに已まれぬ事情があったら、それでも討伐できるか?」

 遠回しな言いかたに、まどかは首を傾げた。しかし、一切迷いはないようで、

「私は皇子さまの呪いを解きます。だから、なにがあっても九十九神は封印します」

 まどかの優しさが、表情が、存在が。

 妙に安堵を覚えるのは、昨日の九十九神の言葉に惑わされているからだ。

 康仁はそう思いたかったのだが、果たして康仁のまどかに対する表情が、日に日に穏やかなものに変わろうとは、誰も思いもしなかっただろう。

 

 早急に晴明を呼び出して、対応策が練られることとなった。

「火の九十九神も、焦っているのかと」

 晴明の所見に、だが康仁は本当のことが言えない。

 九十九神は康仁を『イザナギ』だと言った。それがもしかすると、今後の役に立つかも知れないとわかっていながら、言い出せなかった。

「皇子さま、どうかなさいましたか?」

 いち早く異変に気づいたのはまどかである。康仁が今朝から妙な雰囲気であることを、なんとなくは感じていた。その違和感が、この話し合いで確信に変わった。康仁はなにかを隠している。

「別になにも……」

「なにもないにしては、挙動がおかしいですよね?」

「オマエ、誰に向かって……」

「火の九十九神となにかありましたか」

 図星を突かれ、康仁が一瞬だけたじろぐ。それみたことかとまどかがため息をつくと、康仁はまどかを睨み見た。

「俺がないと言ってるのだから、なにもない」

 明らかに声音が上ずっていた。加えて、視線もそらしているとなれば、康仁がおかしいことは晴明にも、黒雲にも明らかである。

 一拍おいて、晴明が口を開いた。

「もしや、『なにか言われましたか』?」

「……なにか、とは……」

「例えば、イザナギに関する情報です」

 康仁はばっと晴明を見る。穏やかに微笑む様子は普段とかわりないはずなのに、どこか恐怖を覚える。

 一体この男はどこまで知っているのだろうか。

「まどかどのも。聞いてください」

 やがてゆっくりと、晴明はそれを口にした。

 康仁が何者で、なぜ火の九十九神に狙われるのか。

「皇子さまはイザナギの生まれ変わり。ゆえに火の九十九神に呪われています」

「え。っと、晴明さん?」

 まどかだけが飲み込めない。黒雲はまるで最初から知っていたかのように微動だにしない。

「神話の続きをご存知ですか」

「神話の……?」

 語る。

 イザナミの死後、イザナギは黄泉の国までイザナミを迎えにいった。しかし、イザナミの変わり果てた姿を見て、イザナギは逃げ帰る。

 そうして黄泉とうつしよの別ができて、イザナミの呪いにより一日に三千の人間が死する世界が成り立った。

 ただし、イザナギはそれに抗うために、一日に三千の人間が生まれる世界をつくったと言われている。

「喧嘩別れしたイザナミに、なぜ近寄るのか。火の九十九神のいわんとしているところは、そこです」

 晴明の声に一切動揺はない。あわれみも。

 まどかは頭が混乱した。まどかと康仁には目には見えない因縁があるようだ。

 ふたりともあの神話の神の生まれ変わり。しかも喧嘩別れした。

「まどかどの……黒雲、まどかどのを別室で休ませてください」

「はい。晴明さま」

 黒雲に連れられて、まどかは康仁と距離をとる。

 康仁は自分をどう思っているのだろうか。

 康仁の心が、わからない。

 別室に移動して、まどかはふっとため息をついた。

 傍らで、黒雲が申し訳なさそうにまどかを見ている。

「黒雲さんは、知っていたんですか」

「知っていた、とは?」

「皇子さまがイザナギの生まれ変わりだということです」

 わずかばかり、黒雲の表情が強ばる。普段ならば、あるいは付き合い始めた最初の頃ならば見落としていたであろうそれも、まどかにはすぐに気づかれてしまう。

 黒雲は慌てて表情を取り繕うも、言葉はそうしなかった。

「はい。知っていました」

「ならなんで、黙っていたんですか」

「まだ時期尚早だと……晴明さまが口止めされました」

 やはり、あの様子だと晴明も知っていたようだ。それが、騙し討ちのようでまどかは少しだけ腹が立った。立ったのだが。

「皇子さまは、大丈夫でしょうか」

「大丈夫です。あのかたはお強いかたなので」

 まるで分かっているような黒雲の言いかたに、まどかは胸のつかえを感じた。しかしそれは一瞬で、まどかは黒雲に向き直り、笑った。

「皇子さまが私を嫌うのは、前世からの因縁なのでしょうね」

「それは……」

 黒雲が表情を曇らせた。今はなにを言っても無駄だと思った。

 前世からの因縁は確かに存在する。しかし、まどかと康仁のそれは、嫌悪や侮蔑といった類のものではない。

 もっと深く、根本的な部分――魂で繋がった、えにしだ。

「そのうちまどかさんにもわかります」

「黒雲さん……?」

 黒雲の心のうちなど、まどかには分からない。分からないのだが、この話はここで終わりにした。でければ、胸がちぎれてしまいそうだった。

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