第2話 九十九神

 翌朝の朝餉の後、皇子がふいにまどかを呼び止めた。

「オマエ、飲水病は知ってるか」

「飲水病……?」

「喉が乾き、やがて手足が腐り、目が見えなくなる病だ」

「あー……」

 思い当たる病がある。現代で言う糖尿病だ。

「治せるとは言い切れませんが、緩和させることは可能かもしれません」

 無難な答えだ。

 糖尿病といっても、進行具合によれば、食事療法ではカバーしきれない。

 まどかの答えに、皇子は少しだけ逡巡したあと、

「では、俺の父――帝の具合を見てくれないか?」

「……天皇陛下の!?」

 断るべきであるのはまどかにもわかる。万が一、症状が末期だったとしたら、まどかの手にはおえない。

 だが、帝の診察まがいなことをしておきながら、『無理でした』ではすまないだろう。

「いや……でも私……」

「案ずるな。はなからオマエに期待はしてない。治せなくとも罪には問わん。どうだ?」

「えー、と」

「無理か?」

 珍しく皇子がしたてに出るため、まどかも断るに断れなくなってしまう。

 迷いに迷ったまどかは、仕方なくではあるが、「はい」と答えるしかできなかった。

 

 牛車に乗ったまどかは、やや興奮ぎみである。平安の移動手段、教科書でしか見たことのなかったそれに、興味を抱かないほうがおかしいというもの。

「でも、天皇陛下と皇子さまは、別の場所にお住みなんですね」

「……俺は『嫌われもの』だからな」

「きらわれ……?」

 目を伏せる皇子に、それ以上は聞き返せなかった。

 皇子には皇子の思いや立場あるのだろう。まどかはそんな風に思っていたのだが、現実はそうやさしくはない。

 

 帝の御殿につくと、そこは皇子のそれより何倍もきらびやかで、ひとが溢れていた。

 なかでもひときわ目を引く少年がいた。

 見た目は皇子にそっくりなのだが、性格は皇子に似ても似つかない。

「そなたが兄上の料理番か?」

「あ。はい」

「わたしは直仁。第二皇子の直仁だ」

 第二皇子。

 そっくりで当たり前だ、直仁は皇子の弟だった。

 あわててまどかは平伏し、直仁に恭しく挨拶をした。

「はじめまして。私は天宮まどかと申します」

「よい。面をあげよ」

「ありがとうございます」

 歳のわりにしっかりした直仁に、だが皇子の表情は苦いものだ。

「兄上がこちらにおいでになるなんて。父上もおよろこびになります」

 直仁が笑うと、家臣の表情が明るくなる。愛されていることは明らかだった。

 なにより、帝の住む御殿に同居しているという時点で、直仁と皇子の待遇の差は明らかだった。

「今日は、帝のお体を治すためにきた。通せ」

 家臣に話をつけて、皇子はずかずかと御殿にあがっていく。まどかも焦りながら、皇子について歩く。

 家臣たちの冷たい視線が皇子に、まどかに突き刺さる。

 嫌な場所だ。

 まどかは居心地の悪さを感じながら、御殿のなかを歩いていった。

 

 寝所に横たわるその人物が、今の帝らしい。

 弱々しく見えるが、どこか威厳や風格も見てとれた。

 皇子が近づくや、帝は起き上がり、皇子に挨拶を促した。

 皇子は恭しく頭をさげる。

「第一皇子、康仁、参りました」

 今初めて、まどかは皇子の本当の名前を知った。天皇家のこの名前が、諱(いみな)の由来であるのだが、まどかは知るよしもない。

「なにしに来た」

 しかし、帝の言葉は冷たく放たれる。

 皇子は目を伏せたまま、答えた。

「帝のご病気を、この巫女が治せるかも知れません」

 まどかは康仁にならって頭をさげている。そのまどかを、帝の視線が射抜く。

 神々しいと思う。病床に臥せてなお、帝には妙な雰囲気が醸し出されている。それが恐ろしくもあり、不思議でもある。

 怠そうな帝の様子に、まどかは内心で首をかしげる。

 糖尿病だけで、こんなになるはずがない。なにより、牛車のなかで康仁から聞いた症状によれば、おそらく帝はもうひとつ、病を患っている。

「そうか。そなた、わたしの病が治せるか?」

「……確証はありませんが。おそらく天皇陛下は、飲水病のほかに脚気も患っていらっしゃいます」

 聞きなれない名前に、康仁すらもが怪訝な顔をしていた。

 帝が聞き返す。

「かっけ……?」

「はい。ビタミンB一……えーと。つまり、大豆や肉をあまりとらず、米ばかり食べているとなりやすい病気です」

 脚気は江戸時代に流行った病だ。江戸患いと呼ばれたほど、江戸で頻繁に起こった。その理由のひとつが、白米である。精米技術の発展は、くしくもその病を流行らせた。

 江戸の武士の食事と言えば、質素なものが好まれており、白米に香の物だけなど、極端な食生活が脚気を引き起こしたのだ。

「それで、どうすれば治る?」

「はい。今日から米を少なめに、大豆製品や肉をきちんと召し上がる献立にすれば、一ヶ月ほどで効果が出るかと」

「一ヶ月……? そなたは巫女ではないのか」

「……え?」

「一ヶ月も待てとは、わたしを軽んじているのか?」

 布団から立ち上がり、帝はまどかを見下ろす。威厳や風格というよりは、権力をかさにきた、という表現が正しかったかもしれない。

 いや、しかしこれは、病気がなせるわざだとも思う。栄養の過不足は、精神にも大いに影響する。

「一ヶ月、それで効果がなければ、どうぞ私を投獄するなりなんなりしてください」

「……自信家だな」

「私は巫女です。しかし、巫女は巫女でも、病気を治す力はありません」

「こやつ……!」

 帝はますます怒りに表情を染める。端から見ている康仁のほうがはらはらするくらいには、今日の帝は機嫌が悪い。

 その理由を、康仁だけが知っている。

「帝、わたしを嫌うのはわかりますが、この巫女は本物です」

「黙れ! そなたの紹介だからこそ、あやしいのではないか!」

 帝の怒号が飛ぶ。

 さしものまどかも、帝と康仁の間にある軋轢を感じ取った。

 どうにかせねば。自分がなんとかしなければ。

「て、天皇陛下」

「なんだ」

「わ、私を料理番としてひとつき、お側においてください!」

 突拍子もない申し出に、面食らったのは帝よりも康仁である。

 一ヶ月、となると、まどかは次の新月で未来に帰れない。そうまでする理由はなんなのだろうか。

「面白い。ひと月だ。それ以上は待たぬ」

 帝が布団に座り直す。と同時、康仁が帝にがばっと頭をさげた。

「帝。この巫女ひとりでは心配です。わたしもひと月、帝のお側においてください」

「そなたを……?」

「はい。この巫女がしくじったときは、わたしも罰を受けます」

「ほう……」

 まどかはおろおろするばかりだ。康仁と帝の間で話が進み、帝はふっと息を吐き出した。

「もしわたしの体調が変わらなかったら、康仁。そなたの皇位継続権を剥奪する。よいか?」

 康仁の顔はわかっていたかのようなそれである。

「わかりました」と康仁が小さく答えるも、まどかは納得がいかなかった。

 帝を向き直り、頭をさげて、

「天皇陛下。それは少し、ひどすぎませんか?」

「ひどい? そなた、誰に向かってもの申す?」

 だが帝の言葉には怒りより呆れの色が濃いことに、まどかも気づいた。

 まどかが言い返しても、隣にいる康仁は表情ひとつ変えない。

「康仁は忌み子だ。生まれながらに呪われ、九十九神を引き寄せる。いわば生け贄だ」

「生け贄……?」

「第一皇子でなければ、皇位など継がせたくなかった。わたしは直仁に皇位を譲りたいと思っている」

 口惜しそうに、帝は康仁を見ている。

 呪いのことはまどかも知っている。その呪いを解くために、まどかはこの世界に呼ばれたのだから。

「もし私が、皇子さまの呪いを解けたら、天皇陛下は皇子さまを皇位継承者として認めてくれるんですか?」

 やけに食い下がる。帝の顔が歪む。

 そんな気はさらさらない。今さら愛着を持てと言われても、どうしても康仁を受け入れられそうにない。

 康仁は幼い頃から優秀で、まわりからも一目おかれていた。たがなにぶん、体が弱い。さらには『みえる』

 何代かに一度、康仁のような『呪い持ち』が生まれることは知っていたが、まさか自分の息子――しかも第一皇子がそうなるとは思いもしなかった。

 だから拒絶した。帝は康仁を認められなかった。

「万が一にもそのようになれば、考えてやらぬこともない」

 無難な言葉だ。約束はしないが否定はしない。

 だが康仁にもまどかにも、この約束があまりいいものではないことは、なんとなくわかっていた。

 わかっていたのだが、まどかはあえて言ったのだ。

「約束、しましたからね」

 まどかと康仁の、運命をかけた一ヶ月が、始まる。

 

 豆腐がこの時代に存在するのはありがたい限りである。

 この豆腐が精進料理として活用されるには、あと少しだけ時間がかかるが、それでも、まどかにしてみればこれは大いに役立つ情報である。

 加えて、平安の貴族は夏に冷やした甘酒を飲むというから、調味料としての砂糖やみりんの代用品としては、濁り酒よりも重宝するだろう。

 さらにいえば、甘酒が存在するということは、米麹も存在するということになる。

 だからまどかは、早速大量の大豆を水に浸水した。

「未熟な大豆を使って、なにを作る?」

 帝の厨で、大豆を浸水したあと、まどかは早速朝食――十一時の食事――の準備に取りかかっていた。

 康仁の厨にはすでにゆで上がった大豆を用意してあったが、帝のくりにはそれがない。

 大豆で呉汁を作るにも、大豆は調理前の浸水が必要になるため、今日は手がつけられない。

 代わりに、城下町で未熟な状態の青い大豆をもらってきた。

「枝豆の呉汁にします」

「えだまめ……?」

「はい。未熟な大豆をゆでたものです。大豆にはない風味があります」

 食べ過ぎれば糖質過多になるが、適量ならば枝豆は十分にビタミンB一源になりうる。

 枝豆を塩ゆでして、晒しにくるんでで潰して水を加える。ひしおで味付けをすれば、枝豆の呉汁の完成である。

「かぐわしいにおいだな」

 くりでせわしなく動くまどかに対し、康仁ははんなりとまどかを目でおい、それどころか出来上がった料理をつまみ食いする有り様である。

 しかしまどかは、料理に夢中で康仁などそっちのけだ。

「甘酒も仕込まなきゃ」

 餅米で粥を炊いて、六十度に冷ましたら、そこに米麹を混ぜ合わせる。あとはタオルにくるんでお湯を張った保温性のある発泡スチロールに入れておけば、半日で甘酒が完成する。

 平安時代にタオルはないので、いらない衣でくるんで、湯を張った桶に入れた。

「甘酒をなにに使うのだ?」

「これは貴重な甘味料です。調味料に使います」

「帝には飲ませないのか?」

「これは飲水病には禁忌ですね。あと唐菓子も……」

 炭水化物、糖質を制限した食事は必須だろう。

 カロリーは十五単位――千二百キロカロリーで計算するとして、炭水化物を五十パーセント、たんぱく質を二十五パーセント、脂質を二十パーセントといったところだろうか。

 頭のなかで計算する。PFC比率はあくまで理想であるため、そこまで厳しく守る必要はない。とはいえ、帝の体調を見るに、血糖値のコントロールとビタミンの欠乏は最優先に考えるべき項目だ。最悪命にかかわる。

 今性急に対処すべきは、糖質コントロールとビタミンの摂取だ。

「明日、晴明さんと黒雲さんも呼べないでしょうか」

「人手がいるのか?」

「はい。味噌を仕込もうと思います」

 手早く大豆を摂取でき、なおかつ発酵食品は体の調子を整える。

 もちろん、塩分過多には注意が必要だが、味噌が出来上がれば、食生活はがらりと変わるだろう。

「オマエは味噌も作れるのか」

 康仁がうなる。

「味噌は貴重な給料ゆえに、貴族でも限られた人間しか食せないからな」

「あ、一応味噌はあるんですね」

 まどかはほっとしたように言う。味噌が存在するなら、まどかが味噌を作っても、なんら白い目で見られることはないだろう。

 もっとも、平安時代の味噌は粒状で、未来のペースト状の味噌とは少し違うのだが。

「オマエはこのまま料理をしてろ。俺が晴明に話をつけにいく」

 言い残し、康仁は一旦帝の御殿をあとにする。

 そうして戻ってきたときには、すでにまどかは朝食の支度を終えていた。

 豆腐入りの呉汁に猪肉の甘酢あんかけにおひたし、固粥はいつもの半分もない。

 猪肉は葛粉を絡んで焼き上げ、酢と甘酒で味付けし、葛粉でとろみをつけた。

 新鮮な野菜はあるにはあったが、まどかの時代にはあまり見ないものが多かった。たとえるなら、春の七草のような野草が主である。

「これはなんだ?」

 帰ってきた康仁が興味を引かれたのはおひたしである。

 朝廷には献上物として昆布がふんだんにあった。

 野草のいいところは、香りの豊かさだ。ならば、香りをいかす味付けとして、濃いめのだしと少しのひしおで味付けた、おひたしを出すことにした。

 それを、康仁は手でつまみ、はくっと口に運んだ。

「……! なんだこの、味の深みは」

「皇子さまはさすが、味がわかるんですね」

 まどかは嬉々とした表情で、

「だしを昆布と干し椎茸のふたつから取りました。味の相乗効果といって、二種以上の旨味をかけあわせると、一+一が二倍以上にもおいしくなるんです」

 しかし康仁にはまどかの説明はてんでわからない。わからないのだが、まどかは料理を『経験』だけでなく、『知識』と掛け合わせていることだけはわかった。

 未来では、どんなに美味い料理を食べていたのだろうか。

「天皇陛下に、こちらを運んで大丈夫でしょうか」

「ああ、きっと気に入ると思う」

「だといいんですけど」

 苦笑気味のまどかだが、それも致し方ない。なにしろ、まどかが料理する傍らで、従者や家臣たちが信じられないものを見るような、冷たい視線を寄越していたからだ。

 

 康仁とふたりで、膳を帝の部屋に運ぶ。

 しかして、やはりといったところか、帝はまどかの料理を見て顔をしかめた。

「肉食は仏教の教えに反する」

「ですが天皇陛下。これは薬です」

「薬……?」

「はい。中国……唐では『医食同源』という言葉があります。食は医、医は食から。日々の食事が健康に繋がるという意味です」

 まどかの言葉には妙な説得力がある。

 帝は渋い顔をしながらも、

「では、鬼食いをせよ」

 家臣にそれを命じる。

 鬼食いは膳の前に座る。そして箸を手に持つと、震える手で恐る恐る料理を口に運んでいく。

 しかし、鬼食いの箸を運ぶ手は止まらなくなる。うまいのだ。どれも今まで食べたことがないほどに、箸が進む。

 ぱあっと明るくなった鬼食いの様子に、帝も釘付けである。

 ほうっと息を吐き出す鬼食いに、帝は前のめりに聞いた。

「毒は?」

「大丈夫です……しかしこれは……」

 鬼食いは今まで帝に出されるあらゆる料理を口にしてきた。ときに客をもてなす豪華なものも、帝を祝う特別なものも。

 しかし、今まで食べたどれよりも、まどかの料理は鬼食いを満たした。舌が幸福でバカになりそうだ。

「では、わたしも食べるとしよう」

 はやる気持ちを押さえきれず、帝もまどかの料理に箸をつけた。

 無言である。しかしその目はかっと見開かれ、内心では頬が落ちるのではというほどに至福を感じていた。

 はく、ばく。

 天帝は次々にまどかの料理を口にして、ものの数分ですべてを平らげてしまう。

 まどかの顔がにやけている。料理人としてこれほどの栄誉はない。

 自分の料理が誰かを幸せにし、やがて体調をも変えられるのならば、料理人冥利につきるというものである。

 

 帝の食事のあと、まどかと康仁も食事をとった。しかし、御殿の家臣らしき人物がまどかたちを囲み、

「今一度、帝のもとまで馳せ参じよ」

 なにやら呼び出しを食らったようだ。

 

 まどかと康仁は再び帝の御前へと足を運ぶ。

 ふたりでこうべを垂れれば、帝が口を開いた。

「楽にせよ」

 その言葉で、顔だけをあげる。視線は伏せたままだ。

 帝がすっと息を吸い込んだ。

「わたしは今後、肉食はせぬ」

「え……でも、それでは栄養が偏ります」

 思わず言い返したまどかを、帝はぎろりとにらんだ。

「そなたの料理を見た貴族たちが、わたしを責め立てた。これは仏教の教えに反すると」

「ですが……天皇陛下の栄養状態を鑑みると、肉が一番……」

「黙れ! そなたはわたしの料理番であろう? 今後は肉を使うな。それから、味気ない豆腐ばかりの料理も好かぬ」

「ええっ、と……つまり?」

「そなたが悪い。先のそなたの料理を食して、今さらもとの味気ない食事に戻れると思うか?」

 子供のわがままのようだとまどかは思った。しかし、確かに大豆製品で代用するしかないからといって、毎食豆腐を出すわけにもいかない。

 方法はある。あることにはあるが、しかしこの時代に『あれ』を作る技術があるだろうか。

「もうさがってよい」

「……最善を、尽くします」

 まどかが力なく答えた。

 

 さて、まどかはくりに戻ってうんうんうなる。そのとなりには康仁の姿もあった。

 豆腐を使った料理のレパートリーはそれなりにあるが、豆腐であることにはかわりない。

 だとしたら、

「冷凍庫があれば、なぁ」

 豆腐をにらみ見ながら、まどかが呟く。

「冷凍庫? なんだそれは」

「えーと、食材を凍らせる機械です」

「機械……凍らせるのなら、氷室はどうだ?」

「氷室……?」

 平安時代に冷蔵庫、ましてや冷凍が可能な設備など存在するのだろうか。まどかが訊き返すと、康仁はけろりと答えた。

「畿内には、主水司(しゅすいし)が管理する氷室が、山城・大和・河内・近江・丹波に合計二一室ある」

「今は初夏ですけど、大丈夫なんですか?」

「大丈夫だ。貴族は夏でも氷を食べる」

 にわかに信じがたいが、どうやらそれは本当に存在するようだ。

 土を掘ること丈余(ひとつえあまり=三m)、草を以て其の上に蓋(ふ)く。敦(あつ)く茅荻(すすき)を敷きて、氷を取りて、以て其の上に置く。

 これは日本書紀にあるものであるが、まどかがそこまでしるよしもない。

「それでは、皇子さま。その氷室に豆腐をそのまま何丁かと、ちぎった豆腐を五丁分くらい凍らせていただけますか?」

 まどかの顔が自信に満ちる。さらには、嬉しそうに口許が緩んでいた。

 さて、この料理番は次はどんな風に自分を驚かせてくれるのだろうか。

 康仁の口もまた、弧を描く。

「わかった。それで、なにを作るのだ?」

「はい。『凍(し)み豆腐』と『大豆ミート』を作ろうと思います」

「凍み豆腐に大豆ミート……前者はなんとなくわかるが、後者はまるでわからん」

 康仁がまどかに言う。まどかはうーん、と少しだけ考えてから、

「凍み豆腐は、豆腐を冷凍したあと干した保存食です」

「ほう……」

「大豆ミートは……一口大にちぎった豆腐を凍らせたたあと、蒸して解凍したあと水分を飛ばします。大豆でありながら肉のような味と食感、料理ができます」

 康仁は前のめりにまどかの説明を聞く。なかでも大豆ミートには興味津々だ。大豆がなぜどうやって、肉のようになるのだろうか。まったく想像がつかない。

「わかった。氷室で豆腐を凍らせるように言っておく」

「はい。凍み豆腐のほうは、冷凍したあと、紐で結んで干して乾燥させていただけますか?」

「ああ、そうしよう」

「ありがとうございます。大豆ミートは、二、三日冷凍したら、私のところに持ってきてもらえますか?」

「……わかった」

 大豆ミートは冷凍した豆腐を解凍して、水分を絞って鍋で煎って水分を飛ばす。水分を絞ったあとにミンチ状にすれば、挽き肉のようにも使えるし、一口大のままで使えば塊肉の要領で使える。

「だが、夕餉はどうする? 大豆ミートは間に合わんだろう?」

「夕飯はがんもどきにしようかと」

「がんもどき?」

「はい。飛竜頭とも言いますが。ガンの肉のような料理ですよ」

 まどかがいたずらっぽく笑う。康仁を見るまどかの表情には、自信しかない。

 がんもどき。

 どれ程美味い料理なのだろうか。康仁の期待が、知らず知らず膨らんでいく。

 

 夕餉に向けて、まどかは豆腐の水切りに取りかかった。木綿豆腐を何等分かに切り分けて、晒しで包んで重石をする。最低四時間は水切りに時間をかけたい。理想は六時間だ。

「がんもどきか」

「はい。水切りした豆腐を晒しにくるんで潰して、山芋と卵を混ぜ合わせます」

 具材にはニンジンやひじき、キクラゲや枝豆、ぎんなんなど、好みのものを入れるとさらに美味い。

 今回はゴボウとだしがらの昆布、枝豆を入れることにした。

 野菜は二センチ長さの細切りにし、あらかじめ下茹でしたら潰して滑らかにした豆腐に入れる。味付けは塩と砂糖を少量入れるだけのいたってシンプルなものである。

 手に油を塗って、種を丸く丸めたら、百六十度の油で六、七分揚げる。

「これがガンの肉のようになるのか?」

「はい。そのはずです」

 とは言っても、ガンのような味や食感とは程遠い。あくまでがんもどきはがんもどきの味と食感だ。

 帝は豆腐料理は嫌だと言った。ならば、味と食感を変える必要がある。

 がんもどき――特に揚げたて――は、豆腐とも肉ともつかないうまさがある。

 未来ではがんもどきは煮物に使われるのが主であるが、揚げたてであれば、生姜に生醤油で最高のおかずになる。

「あとどのくらい揚げるのだ?」

「あと一分ほどですね」

 まどかは揚げ油のなかのがんもどきをくるくる回しながら、そわそわする康仁をほほえましく見る。

 ひとの三大欲求のひとつである食欲は、どうやら第一皇子である康仁にも備わっているようだ。

 

 揚げたて、熱々のそれを、康仁は待ちきれずほふった。

 冷ます時間も惜しんで口にいれたそれはやはり熱く、康仁ははふはふと口内でがんもどきを冷ます。

 かりっとした食感のあと、滑らかでありながらもちっとした豆腐の食感が口内で爆ぜる。

「これは……!」

 ひとつでは飽きたらず、康仁は二個、三個とがんもどきを口に運んでいく。

 味付けはひしおだけであるというのに、がんもどきのなんと奥深い味か。

「お気に召しましたか?」

 試作で揚げたがんもどきは、すべて康仁の胃袋に収まってしまった。

「わ、悪くない。それだけだ」

 しかし、康仁の顔が明るいことに、まどかはちゃんと気づいている。

 さて、このがんもどき、帝の口にはあうだろうか。

 

 しかして、まどかの心配は杞憂に終わった。

 なるべく揚げたてを出したかったため、がんもどきは運ぶ直前に揚げた。

 そのかいあってか、さくっともちっとした食感に、帝はがんもどきが豆腐から作られたものとは思わなかったようだ。

「これは、なにで作った?」

 野菜よりもあつものよりも先に、帝はがんもどきを一気に食べると、爛々とした目でまどかを見る。

 まどかは帝にこうべを垂れながら、

「こちらは、豆腐から作った、がんもどきにございます」

「なに? 豆腐……? これが……?」

 揚げたてだからこその反応である。帝はばつが悪そうに、まどかを見る。

「これが豆腐とは……」

 帝が戸惑う。まどかに『豆腐は好かん』と言った手前、どう反応したらいいのかわからない。

「天皇陛下……? やはり豆腐はお嫌いでしたか?」

「いや。いや……そなたの作る豆腐料理は別物だ。わたしはこれが気に入った。明日もまた、出すように」

 存外、頭が柔らかいひとなのかもしれない。

 まどかはそんなことを思いながら、緩む頬を悟られないように、「わかりました」小さく返事をした。

 

 ぼっぼっぼっぼ。

 その夜、まどかは不可思議な音に目を覚ました。

 まどかは帝の御殿の一室を寝所として与えられている。曲がりなりにも巫女だからだ。

 音はすぐ近くから聞こえるようにも、遠くから聞こえるようにも感じる。

 起き上がり、薄暗い寝所を歩き出る。

 すぐ隣、いくつか先の寝所には、康仁が寝ている。

 どうやら音の主はそこだとまどかは気づき、足音を忍ばせてそちらに向かう。

「皇子さま……?」

 起こさないように、様子だけ見るつもりだった。

 だが、そうもいかない事態が起こる。

 康仁のすぐそばに見えたのは、九十九神だ。

 ぼっぼと炎を燃やす、おそらく火の九十九神に違いない。

 しくじった。

 まどかは今、スマホを持っていない。

「皇子さま、お逃げください!」

「……!?」

 叫んだまどかの声に、康仁がバっと起き上がる。起き上がり、自分の足元にいるそれを見て、皇子は息を忘れた。

 まただ。

 寝苦しい夜はいつだって、『この』九十九神がいる。

「皇子さま、早く逃げないと」

「いい。コイツはなにもしない」

「え……?」

 まどかがよくよく目を凝らすと、火の九十九神はぼっぼと燃えはするものの、康仁に襲い掛かろうとはしなかった。

 九十九神にもいいものと悪いものがいるのだろうか。

 そんなことを思いながら、まどかは康仁の寝所に恐る恐る足を踏み入れる。

 すると、ふっと息が苦しくなり、まどかはその場に膝をついた。

「どうした?」

「い、いえ……」

 不思議な感覚だ。体に力が入らない。

 まるでこの九十九神に力を吸い取られるかのように、まどかの体は硬直した。

「おい、顔色が悪いぞ?」

「いえ、お気遣いなく」

 やっとの思いでまどかの足に力が入る。と同時、あの九十九神が消えていることに気づく。

「皇子さま、あの九十九神はいったいなんなんですか?」

「俺にもわからん。ただ」

「ただ?」

「アイツは俺を殺そうとしない。かといって、害がないわけでもない」

 皇子は左手の袖をまくり上げる。明かりに照らし出されたその左腕には、あざがあった。

「これは……?」

「アイツが来るたびにこのあざが広がる。察するに、徐々になぶりころす呪いを持つ九十九神だろう」

「なぶりころす……」

 火の九十九神を想起して、まどかの頭がズキンと痛んだ。なんだろうか、懐かしさとうらみと、よくわからない感情がまどかを支配する。

 まどかの不穏な様子に、さしもの康仁も気づく。

「どうかしたか?」

「いえ……あの九十九神がなんなのか、明日晴明さんに聞いてみましょう」

 それだけ話して、まどかと康仁は各々の寝所に戻る。

 九十九神の気配はなかったし、そもそもこの御殿にも、晴明の結界が張ってある。ならば、今夜はもうゆっくり休んで大丈夫だろう。

 火の九十九神がなぜ結界をすり抜けられたのか、疑問に思わなかったわけではない。だが、あの九十九神は他とは違う。まどかも、康仁ですらそう思っているのだから、きっと大丈夫だと、まどかは久々にぐっすりと睡眠をとることができた。

 

 翌日の朝ご飯は、がんもどきに加えて厚揚げを出した。

 水切りしておいた豆腐を揚げただけの料理であるが、厚揚げは豆腐とがんもどきの両方のいいところを組み合わせた料理だ。

 栄養もあるし、あげることで食感が変わり、風味もつく。

 帝はまどかの料理を幸せそうに屠っている。

 まどかは上機嫌に帝の様子を見守り、康仁もまた、帝を複雑な気持ちで見つめていた。


 厨ではすでに大豆を茹でてある。朝食を作りながら鍋を火にかけること四時間ほど、小指と親指で大豆がつぶせる固さまでゆでるのがみそづくりのコツだ。

 帝の食事を見届け、厨にもどれば晴明と黒雲の姿が見えた。

「晴明さん! 黒雲さん! およびたてしてすみません」

「いえ。ところで、この大豆はなにに使うのですか?」

 一度の料理に使うしては明らかに大量に茹で上がった大豆を見て、晴明が問う。その傍らで、黒雲もまた、まどかの答えを待っている。

「はい、味噌を作ります」

「味噌……?」

 晴明も黒雲もきょとんとしている。

 味噌ならば、平安時代にも存在する。だというのに、まどかはなぜおのずから味噌を作ろうというのだろうか。

「平安の味噌はペースト状――大豆をすりつぶさずに味噌にしてあります。それだと、味噌汁にするにも溶けないので、大豆をすりつぶした味噌を作ります」

「すりつぶす……その発想はなかったですね。さすがまどかさん」

「あ……黒雲さん、初めて名前で呼んでくれた」

「べ、別に。アナタを認めたわけじゃないですから!」

 にっこりするまどかに、黒雲はやや早口でまくし立てた。

 最近の黒雲はどこか楽しそうだ。ずっと傍で見守ってきた晴明にはわかる。黒雲にとってまどかの存在はいい刺激になる。年も近い、同じ巫女という立場も相まって、黒雲はまどかに興味津々なのである。

 もとより、それはまどかのふわふわした性格のなせる業でもある。どこか放っておけない雰囲気が、まどかにはある。未来で言えば、『どこか抜けてる』性格ともいえる。

「それで、この茹でた大豆を俺たちにすりつぶさせるってわけか」

「はい……あ、でも、皇子さまはあちらでお休みになっていて構いませんが?」

「いい。どうせ暇だ。俺も手伝おう」

 妙に素直な康仁の視線の先に、黒雲がいることにまどかは気付いた。さては。

「皇子さまもいじらしいところもあるんですね」

「なんだその言いかたは。まるで俺に下心があるとでも言いたげだな?」

「ないんですか?」

 ないといったらうそになる。思いを寄せる黒雲の前では、少しでもかっこつけたいといったところなのだろう。まどかはすぐに康仁の内心を察した。

 康仁にとって黒雲は、特別な存在である。

 晴明との付き合いも長いが、黒雲との付き合いもそれなりに長い。

 その付き合いの中で、康仁は、つかみどころのない黒雲に振り回されてきた。

 黒雲は康仁の言うことはなんでも聞くし、なんなら星読みだってしてくれるが、本心を見せたことはない。

「大豆をつぶすのは私と晴明さんがやりますので、皇子さまと黒雲さんは、こうじと塩を手ですり合わせるように混ぜてください」

 まどかが見本を見せる。

 米こうじと塩を、両手の掌でこするようにして混ぜ合わせる。

 皇子はまどかに倣ってこうじを混ぜた。黒雲も同じように。

「ふたりともさすがお上手ですね。私の仕事もはかどります」

 こうじと塩はふたりに任せ、まどかは大豆のすりつぶしに取り掛かる。

 今回の味噌はやや甘めの味噌にした。こうじは大豆の一.五倍で、塩は大豆の五十パーセント。

 すりつぶした大豆をこうじと塩を混ぜたところに加えていって、よく混ぜ合わせる。

 手際よく康仁と黒雲が混ぜ合わせたそれに、晴明とまどかがすりつぶした大豆を入れていく。

 よく混ぜ合わせながら固さを見る。まとまらないようであれば、適宜大豆のゆで汁を加えるが、今回は必要なさそうだ。

「混ざったかな。そしたら、この種をこぶし大に丸めてください」

 混ぜ合わせるだけで汗だくである。それほど大量に大豆を茹でたし、晒しにくるんででつぶした。

 このあとは、種をこぶし大に丸めてから、味噌の桶に詰めていく。あらかじめ丸めてから桶に詰めるのは、空気が入らないようにするためだ。

 四人でせっせと種を詰めていく。

 大きな桶に三つ、詰め終ったところでようやく種がなくなった。

「表面にカビ防止の塩を少し振ったら、和紙でふたをして半年ほど。涼しい場所で発酵させます」

 本当は、味噌づくりは冬の仕事とされている。

 夏場は温度調整が難しいからだ。冬に仕込んで四季を感じさせて十ヶ月後から一年後に食べごろを迎える。それが味噌づくりの理想であるが、今回は致し方ない。夏仕込であれば半年で発酵も進むだろう。

 ペースト状の味噌ができれば、料理の幅はさらに広がる。

「あ。もうこんな時間。晴明さん、黒雲さん、夕ご飯、一緒に食べていきますよね?」

 まどかの誘いに、ふたりとも快くうなずいた。

 

 康仁の勧めもあって、夕飯にはがんもどきが出された。

 それから、黒雲と晴明には肉料理も出した。ひしおと甘酒で味付けた、西京味噌風である。

「これは……!」

 感嘆の声を上げたのは黒雲である。はくっと小さな口で西京漬けの肉を食べると、目を爛々と輝かせた。

「甘くて柔らかくておいしい……臭みもない」

「味噌にはマスキング効果……臭みを覆い隠す効果もあるんです」

「へえ。未来ではそのようなことも習うのですか?」

「えーと……私みたいな料理人は習いますけど。一般のひとは知らないかもしれないですね」

「へえ。まどかさん、あとこの料理はどのように作るのですか?」

 先ほどから黒雲はまどかを独占している。

 料理のあれこれを質問攻めにしたかと思えば、ほめちぎる。

 どうやら『なつかれた』のだと、まどかは思った。まどかだけじゃない、晴明も康仁もまた、黒雲が明らかに『いつもとは違う』ことに気づいている。

「晴明。やはり黒雲はアイツの影響を受けたんだろうか」

「そうですね。いい意味で影響されたのでしょう」

「……そうか」

 康仁の顔が嫉妬にゆがんだ。

 自分だって、黒雲のことを変えたかった。

 こんなにころころと表情を変える黒雲は初めて見る。それが悔しくもあり、ほほえましくもあるものだから、康仁は自分の心がわからなくなった。

「そういえば」

 と、まどかは不意に思い出したように晴明に視線を送る。

「昨日の夜、火の九十九神が、皇子さまのもとに現れたんです」

 その言葉に、場の空気がぴりつくのが分かる。

 楽しい夕餉は、一瞬にして緊張に包まれた。

「それで、なにかかわったことは?」

 晴明が問う。

「ええと。皇子さまの左手のあざ以外には、なにも」

「いや、あっただろ」

 まどかの言葉を補足するように、康仁が口をはさむ。

「コイツの体に力が入らなくなった」

「まどかどのの……?」

「あ、いえ。なんだったんでしょう、寝起きだったからでしょうか」

 しかし、晴明の顔は険しいものへと変わっていく。

 黒雲もまた、黙り込んでいる。

「話しておくべきかもしれませんね」

 ふうっと一息吐き出して、晴明はまどかと康仁に向き直る。

「火の九十九神……いえ。火の神はを生み出したのがなんなのか、わかりますか?」

「え……? 九十九神だから、物にひとの念が宿って生まれたものではないんですか?」

「普通の九十九神はそうですね。しかし、まどかどのにしか討伐できない九十九神は、そうとは限りません」

 晴明の言葉に康仁も、耳を傾けている。どうやら康仁も初耳のようだ。

 しかし、黒雲に至っては、知っていたかのように、表情をゆがませている。

「神生み……いざなみによって生み出された神々が、日本に成ったといわれています」

「神生み……?」

「はい。そして、火の神を産み落としたことにより、いざなみは死ぬこととなったのです」

 だんだんと話が見えてくる。

 つまり、いざなみの生まれ変わりであるまどかには、火の神に対抗する力がないのかもしれない。

 果たして、まどかの推測は確証に変わる。

「ゆえに、いざなみの生まれ変わりは、火の神を前にするとうまく立ち回れないと聞きます。やはり、まどかどのも同じでしたか」

「『聞きます』? 晴明さんは、私以外のいざなみの生まれ変わりに会ったことがあるのですか?」

 まどかが訊き返す。

 晴明は静かにうなずくばかりで、はっきりとは答えてくれない。

 しかし、言葉から察するに、会ったことがあるのは確実であるし、そもそも、そうだ。

 晴明は言っていた、まどか以外のいざなみの生まれ変わりは『死んだ』と。

 いざなみの生まれ変わりが千年に一度現れるとして、まどかは何代目なのだろうか。

「晴明、俺に黙っていたな?」

「申し訳ありません、皇子さま。皇子さまをいたずらに不安にさせるわけにはいかず……」

「ふん。それで、俺のこの左手のあざの感じ。あとどのくらいだ?」

 まるで死期を悟っているかのような物言いに、まどかは言葉を失った。

 じわじわと命を削り取られていくというのは、いったいどれほどの恐怖だろうか。

「わたしが見るに、五年はないかと」

「はっきり言うか。そうか、五年か」

 しみじみとした様子で康仁が反芻する。

 あきらめているようにも見えるし、満足しているようにも見える。

「ダメです!」

 まどかが立ち上がる。

 ふうふうと肩で息をしながら、しかし康仁も晴明も黒雲も、目を丸くしてまどかを見上げる。

「あきらめないでください。あと五年なんて短すぎる!」

「待て、なんでオマエが怒る」

「だって、だって……!」

 まどかの目に涙が見えた。ぎょっとして、康仁は言葉を失った。

 言ってしまえば、康仁はまどかをぞんざいに扱ってきた。だから、自分が死のうがどうなろうが、まどかが悲しむとか、もっと言えば、感情をとり乱すなんてするはずがないと思っていた。

 しかし、まどかは泣いた。「あんまりだ」と康仁の身を案じて。

「まどかさん、私の存在を忘れていませんか?」

 今まで黙っていた黒雲が、優しい声音でまどかに言った。立ち上がった黒雲は、そっとまどかを抱きしめて、ポンポンと背中をたたいて慰める。

「私は言いましたよね? 皇子さまは長く長い生を全うする。それは紛れもなく、まどかさんが九十九神を討伐することを指しているんですよ?」

「でも、でも。私じゃ火の神に対抗できないって」

「だから私たちがいるんじゃないですか。晴明さまと私で、火の神に対抗する策を考えます。だからまどかさんは、九十九神討伐に集中してください」

 黒雲の言葉に、まどかはようやく涙をぬぐった。

 目が真っ赤にはれ上がっている。

 そんなまどかを見て、康仁は少しだけ胸が熱くなった。

 人間も捨てたものじゃないとさえ思った。呪いを受けた康仁は、幼いころからぞんざいに扱われてきた。だから、今更誰かに心配されたり、まして自分が他人に対して温かい感情を抱くとは思いもしなかった。

 これが『巫女』としてのまどかの力なのだとすれば、なるほどどうして、まどかは『特別な巫女』に違いない。

「まどかどの。私も火の神については調べていますゆえ」

「はい」

「まどかどの。一応の確認ですが、次の新月で、未来に帰るというお話はどうしますか?」

 晴明にの言葉に、だがまどかに迷いはなかった。

「私、皇子さまの呪いを解きます。それで、天皇陛下に皇子さまの存在を認めてもらって、皇子さまには幸せに生きてほしいです」

 切なる願いだ。

 未来に帰るのはまだ先でいい。

 最悪、何年先になったっていい。

 まどかにしかできないことがあるのだというのならば、まどかはこの時代に残ってでも、それを成し遂げたいと思ったのだ。

 巫女だとか九十九神だとか。正直まだまだ分からないことばかりだ。

 それでも、まどかは思う。

「皇子さま。私は全力を尽くします。だから、安心してください」

 だから、まどかは九十九神に対峙する。そうすることですべてが解決するのならば、ほかの道を選ぶ気など毛頭なかった。


 ふわりとした浮遊感に、これが夢だとまどかはすぐに気づいた。気づいたのだが、さて、まどかはどうして眠っているのだろうか。

 晴明たちとの夕餉までは覚えている。だが、その先が思い出せない。

『――て!』 

 呼ばれている?

『――きて!』

 誰に?

「起きて!」

 バチバチバチっとまどかの体に電気が走った。それは今までのどれよりも強烈な『霊力』で、まどかは重たいまぶたを無理やりこじ開けた。

「まどかさん、まどかさん!」

 黒雲が、まどかを背中にかばいながら、呪符で結界を張っている。しかしそれは一時しのぎで、もう間なく壊されるだろう。

 黒雲の向こう側には晴明がいる。ひゅっと何枚もの呪符を飛ばし、ありったけの式神を顕現している。

 しかし、式神のほとんどが切り裂かれて、見るも無惨に地に伏せていた。

「黒雲さん、これは……」

「九十九神……睡眠を司ることから、時間やその類いの九十九神かと」

 睡眠を司る。

 そんな九十九神もいるのか。

 まどかは眠気をようようさまし、黒雲の隣にたつ。

「あまり言いたくありませんが」

 黒雲が状況を説明する。

「九十九神はまどかさん、貴女の力に引き寄せられ、暴走します」

「え……」

「ですが、それはわかっていたこと。そのうえで、貴女を巫女として呼んだのですから」

 黒雲が新たな呪符を懐から取り出した。

 ぼっと爆ぜたかと思えば、式神が一体現れる。

「まどかさんと皇子さまは、これに乗ってお逃げください」

「待って。それじゃなんの解決にもならない」

 まどかは考える。まどかが巫女であるというのなら、この場を収集する術があるはずだ。

 そもそも、九十九神がまどかに引き寄せられるのだとすれば、まどかが康仁と一緒に逃げるのは得策ではない。

「あっ」

「どうしました?」

 ふいに思い出したのは、スマホである。あの九十九神を封印したスマホ。

 封印した式神は使役できるのだと晴明がいっていた。ならば。

「起動して、はやく……!」

 懐にしまっていたスマホを取り出し起動する。その時間が果てしなく長い。

 ようやく起動したところで、スマホに浮かんだ文字に、まどかは目を見開いた。

『使役しますか?』

 はい。

 いいえ。

 疑問を抱いている場合ではない。すばやく『はい』をタップする。

 バリバリバリ!

 雷鳴に近い。

 けたたましい音とともに現れたのは、先日まどかが封印したあの九十九神だ。

 まどかの前に平伏して、命令を待っている。

「あ。せ、晴明さんを助けて!」

『御意』

 しゃべれたことに驚くも、瞬く間に式神は移動して、晴明と九十九神の間に割って入る。

 ここでようやく、晴明にもまどかたちを振り返る余裕ができる。

 まどかが叫ぶ。

「その九十九神の動きをとめて!」

『御意』

 九十九神が吠える。まるで、同じ九十九神なのに、なぜオマエは人間に支えているのかと嘆くように。

 ガッと九十九神の口がさける。しかし、まどかの式神のほうが速かった。

 瞬時に間合いを詰めたかと思うと、九十九神と同じく口を大きく開き、九十九神に噛みつく。三本の手で九十九神をがんじがらめにして、あっさりとその自由を奪ったのだ。

「か、カメラ……カメラを起動して……!」

 黒雲も晴明も固唾を飲んで見守る。

 果たして、カメラを起動したまどかは、先日のように、九十九神を写真におさめて、

「ぎぃあぁっ!」

 断末魔とともに、九十九神をスマホへと封印した。

 カメラフォルダのなかには写真がふたつになる。ひとつはさきほどまで使役していた式神、もうひつは、今さっき封印した九十九神だ。

 一息つきたいところだったが、なぜこの場所――帝の御殿――に九十九神が現れたのか、問い質されるのがさきだった。

 晴明が張った結界で帝を守り抜いたとはいえ、下手をしたら命はなかった。

「晴明。御殿の結界はなぜ破られた」

「それは……」

「よもや、晴明。そなたは裏切り者か?」

 帝の詰問に、晴明は言葉をにごすしかなかった。

 九十九神のここ最近の暴走は、なにを隠そうまどか由来である。だが、それを口にしてしまえば、まどかの命はない。

 それはまどかにもわかっていたのだが、あまりにも帝が晴明を責め立てるため、まどかの口は開いた。

「私のせいです」

「……そなたは黙っていろ。わたしは晴明と話している」

「ですが。九十九神が結界を破った理由を知りたいのでしょう?」

 許可なく面をあげた――なんなら、視線すら伏せなかった――まどかに、帝はまどかをにらむ。そばに控える家臣が、腰の刀に手をおくも、帝がそれを目で制止する。

 一触即発の状況である。

 じりじりとひりつく。空気が、まどかの霊力が。

 端から見ていてもよくわかる。まどかは『怒っている』。

 まどかのひりつく霊力は、やがて帝も気づくこととなる。ごうっと外に風がまきあがり、なにより、まどかのただならぬ威圧に気圧された。

 こいつとかかわったら、死ぬ。

「九十九神を討伐するのが私の役目です」

「……だった、ら。九十九神が侵入する前に片付けるのが筋だろう?」

「それは私の力不足です。でも、晴明さんは関係ないです」

 ビリ、ビリっ、と肌に突き刺さるなにか。霊的な力を使えない帝ですら、まどかの霊力を感じるにはじゅうぶんである。

 息があがる。

 帝は、ひゅうひゅうと肩で息をしながら、「さがれ」と、ようやくその言葉だけを絞り出した。

 

 翌朝、帝はまどかの料理を拒んだ。

 朝は五時に粥を食べたら仕事に行き、正式な朝食は十一時である。その食事内容は質素なもので、山盛りのこわいいにひしおと塩、酢がそえられて、あとはあつものがつくのみである。

 しかし、さしものまどかも意見することができない。してしまえば、まどかの命はないだろう。

 九十九神を引き寄せる体質のまどかを死罪にできなかったのはもしかすると、まどかが巫女ゆえ、死後なんらかの返りがあるかもしれないと考えているのかもしれない。

「わ。本当に寒い」

 だからまどかは、この休暇を逆手にとって、氷室に来ていた。むろん、康仁も一緒である。

 凍み豆腐はまだ完成しないだろうが、大豆ミートならすでに凍っている。

 一口大に切った豆腐が、カチカチに凍りついたそれをみて、まどかは笑う。

「色が黄色いな」

「あ。はい。凍らせると大豆本来の色が出てしまうので」

 黄ばんだ、と言いたいのだろうが、凍らせた豆腐は見た目より味だ。いや、食感に注目してほしいところだが、凍ったままでは味見もできない。

 凍った豆腐をさらしに包み、まどかは康仁を振り返る。

「近くの厨を借りられますか?」

「作る気か?」

「はい。皇子さまが心配そうなので、試しに作ってみようかと」

 自信に満ちたまどかの笑みに、康仁は思わず唾を飲み込む。

 さあ、どんな料理を作ってくれるか。大豆ミート、期待が膨らむ。

 

 皇子が顔をきかせて、近くの公家の家の厨を使えることとなった。

 まず最初に豆腐を解凍する。未来では電子レンジで簡単に解凍ができるのだが、この時代にそれはない。

 ゆえに、蒸し器に豆腐を入れて、時間をかけて解凍した。

「柔くなったな。もはや豆腐の影もない」

「はい。水分はすべて抜けてますから。味見します?」

 熱々のそれを差し出され、康仁はそれをはくっと口にいれた。

 きゅっきゅとした食感だ、豆腐の滑らかさはどこにもない。そして、

「不味いな。これは食べ物か?」

「ふふ。そうですね、そのままじゃ味気ないし、スポンジを食べてるみたいですよね」

「からかったのか?」

「まさか。ここからどう美味しくするのか、説明するためですよ」

 解凍した豆腐の水分を手で絞ったら、今度は鍋でからいりして、保存がきくまで水分を飛ばす。こちらも、未来であれば電子レンジで簡単はできるのだが、本当に時代の進歩は恐ろしい。まどかは少しだけ、未来を懐かしく思う。

「半分はミンチ状にしてから、もう半分はそのまま水分を飛ばします」

 挽き肉と塊肉の使い分けのため、二種類の大豆ミートを作ることにする。

 からからになるまで煎ったら、大豆ミートの完成だ。

「干からびた豆腐か」

「はい。ではこれを、お湯で二、三分茹でていきます」

「煎る意味はあったのか?」

「作り方を見せるためです」

 煎らなければ戻す手間も省けるのだが、まどかはあえてすべてを煎った。康仁に行程を見せるためだ。そして、それをしておけば、万が一まどかが天皇陛下の料理番からおろされても、レシピは受け継がれる。

「茹でたら水でよく洗います。これで臭みがとれます」

「ほう」

「洗ったらよく水気を切って、下味にひしおや塩を混ぜこんで」

 ミンチのほうには塩とひしおを入れた。そのあと、卵と山芋と、葛粉を入れて楕円形にまとめ、ハンバーグに。

 塊肉のほうも同じく下味をつけたら、葛粉を絡ませて揚げる、唐揚げにした。

「おお、なんだこの香りは」

「ハンバーグと唐揚げです。どちらもお肉と見分けがつかないくらいに美味しいですよ」

 だされた皿に、康仁はまどかの説明を聞くまでもなく料理を口に運んでいた。

 じゅわっとジューシーなハンバーグに、唐揚げも肉のようにぷりっとした食感だ。

 正確にいうと、高野豆腐と鳥モモ肉の間のような食感だが、平安時代の人間からすれば、鳥肉と遜色ない食感である。

 あっというまに平らげた康仁は、ふわんと夢心地な表情を浮かべた。

「肉のようでもあるが、肉より臭みがなくあっさりしているな」

「よくお分かりで。大豆ミートはそこが好まれます」

「これなら帝も召し上がってくれるだろう」

「……そうだといいんですけど」

 飲水病と脚気は初期段階が大事だ。

 今なら、食事療法だけでなんとかなる。まどかはそんな手応えを感じていただけに、なんとしても、天皇陛下の料理番に戻る必要があった。

 

 大豆ミートを使った料理を、早速夕餉に出した。

 帝は相も変わらずまどかに冷たい目を向けていたが、しかし、まどかの料理を目の前に、唾を飲み込む。

 見たこともない、嗅いだこともない料理に、正直に言えば興味がある。むしろ、飛び付き今すぐに食べたい。

「そなた、まだわたしの料理を作るのか」

 侮蔑の目を向けられる。だが、まどかは淡々と言った。

「天皇陛下がお嫌でしたら、私は今日限りでここを出ます」

「ほう? 料理番を辞退すると?」

「レシピ――作り方は料理番のかたに伝えていきます。なにより、私がここにいれば、また九十九神がくるやもしれないので、致し方のないことです」

 ふんっと帝は鼻をならす。

 まどか自ら身を引くのなら、命までは奪うまい。

 そもそもまどかが帝の病を治せなければ、罪人として投獄する予定だった。

 だが実際、帝はこの二日ほどの短期間ではあるが、まどかの料理の腕を目の当たりにしたし、まどかの料理を食べた日は、いつもより体調がよかったのも事実だ。

「命は助けてやる、だが」

 帝はまどかの隣に立つ康仁を見て、顔を歪めた。

「康仁の件は、白紙だ。わたしはこやつを認めない」

「そんな……」

「なんだ? 命が助かっただけありがたく思え」

 もうさがってよい。

 無機質な声に、逆らうことができなかった。

 まどかは康仁を見上げる。悔しさも悲しさも、感情という感情を一切感じ取れない康仁の表情が、無性につらかった。

 

 牛車に揺られて、康仁の御殿に戻る。道中、会話は皆無である。

「あ。あー、梅の季節だなぁ」

 沈黙に耐えかねて、まどかは視線を泳がせながら、言った。

「梅か……梅干しは薬にもなるからな」

「あー。そうですね、梅干しは健康にいいですし」

「作れるのか?」

「はい。それなりには」

 季節は六月、熟れた黄色い梅の実を塩漬けするにはちょうどいい季節である。

 梅を漬けるときは、よく熟したいい香りのする梅の実を使うとよく出来上がる。

「帰ったら作るか?」

「え。梅の実があるんですか?」

「まあ……御殿の近くに梅の木があったからな」

「へえ。あ、ついでに紫蘇の葉はありますか?」

 半分はそのままつけて、半分は紫蘇漬けにしよう、まどかの頭のなかで梅干しのレシピが浮かび上がる。

「紫蘇……その辺に腐るほど生えるだろうな」

「そうですか。私、紫蘇の葉で作るゆかりが好きなんですよね」

「ゆかり……?」

 康仁の言葉などまどかには聞こえていない。

 紫蘇を梅と一緒に漬けたあと、紫蘇はからからになるまで干す。それを細かくくだけばゆかりの出来上がりだ。

 栄養もあるし、香りもよいゆかりは、いいご飯のお供になる。

「おい。ひとりで浸ってないで俺にも『ゆかり』のことを教えろ!」

 ほわんと上の空であるまどかに言うも、やはりまどかが康仁の言葉に反応することはなかった。

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