平安の料理番、時々巫女

空岡

第1話 平安召喚

 チリン……チリ……ン。

 聞こえてきた鈴の音に、天宮まどかは思わず足を止めた。

 梅雨の雨上がりのちょっとした散歩だ。もうかれこれ一週間も続いた長雨の切れ間に、まどかはふと思い立ってふらりと家を出た。

 いく宛もなくふらふらと歩く。その、途中である。

 どこからともなく聞こえてきた鈴の音に引き寄せられるかのように、まどかの足は動いていた。

 小さな鳥居である。その先には古びた、薄汚れたほこら。

 まどかが鳥居の前で足を止めると、まるではかったかのように鈴の音も止まる。

 まどかは恐る恐る、鳥居の向こう側に話しかける。

 しん、と静まり返るばかりで、ひとの声も、気配すらも感じ取れない。やはり、思い過ごしだろうか。

「誰かいませんか?」

 後ずさりながら、もう一度だけ。

 やはり、ひとの声は返ってこない。

 いよいよ気味が悪くなる。そもそも、こんな場所にこんなほこらなどあっただろうか。鳥居だってそうだ。生まれてこのかたこの地に住んでいるが、この辺りに神社や、それにまつわる場所があるなどと、聞いたこともない。

 まどかはきびすを返す。

 チリ……チリン。

 ばっと振り返る。今、確かに聞こえた。向こうからだ、この鳥居を潜り抜けた先から、確かに、はっきりと。

 ふたたびまどかは鳥居に向き直る。そのまま、なんのためらいもなくまどかは鳥居の向こうにしっかりと足を踏み出した。


 天宮まどかはごく普通の会社員だ。しかし彼女の朝は早い。

 目覚まし時計はいつも朝四時には鳴り響く。

 管理栄養士。それがまどかの選んだ職業だ。小さいころから料理が好きで、将来は調理の道に進むと決めていた。

 本当は調理師でもよかったのだが、管理栄養士は四大の学位も取れるし、国家資格も取れるため一石二鳥だとまどかは迷わず管理栄養士の養成大学に入学を決めた。

 自分が調理しなくとも、料理で人を幸せにできる道があるのだ。

 だがやはり、今の仕事はどこか満たされない。自分の手で作った料理で、人々を笑顔にしたい。まどかはそんな、贅沢ともいえる不満を抱き、毎日を過ごしてきた。


 そんな毎日が走馬灯のようにまどかを駆け巡った。まどかの体が鳥居の向こう側へ潜り抜けたそのとき、バチバチバチっと火花が散ったからだ。

 あまりの痛みとまぶしさにまどかは思わず目を閉じた。

 しかし痛みはすぐに引き、代わりにひゅうっと涼しげな風が吹き抜け、雨上がりの緑のかおりを運んでくる。先ほどまではなかったにおいだ。

 そっと目を開けたまどかが見たのは、先ほどとはうってかわって、立派な佇まいのほこらである。 

「え?」

 今さっき潜り抜けた鳥居を振り返る。ほこらと同じく、鳥居が大きく赤く、立派にそびえ立っていることにまどかは目を見開いた。

「なに……化かされてる……?」

 稲荷神社にはきつねがまつられているという。ならば今しがた自分が潜り抜けたのは、稲荷の鳥居だったのだろうか。いやしかし、鳥居の周辺にも、ほこらの近くにも、きつねを象った石像――狛狐など見当たらなかった。

「だ、誰かいませんか!?」

 叫ぶも、返事はない。

 化かされているのだとしたら、鳥居をもう一度くぐればもとの場所に戻れるかもしれない。

 まどかはくるりと後ろを向き、そうして来たときとは違って大きく立派な鳥居のしたを足早に通り抜けた。

 通り抜けたあと目を瞑り深呼吸する。そしてゆっくりと開けた瞳に写されたのは、

「うそ……なんで……?」

 やはり、先ほどと変わらない、立派なつくりの神社がそこにあるだけだった。

 

 よくよく見ると、辺りの風景も大分違うことにまどかは気づいた。地面がやけに獣道である。コンクリートが敷き詰められた道を通ってきたはずなのだが、どういうわけか、今来た道すらまどかの記憶とは合致しない。

 ひとまずまどかはひとを探すことにした。ここがどこなのか、もしかすると神社の主――神々の住む世界かなにかだとしたら、まどかにはどうすることもできそうにない。

 だから、不安をかきけすために、まどかは歩いた。ひとに会いたい。神々ではなく、人間に。

 そうすればここがどこなのか、はっきりするはずだとまどかは踏んだ。もしかしたら、神隠しというものかもしれない。

 見た感じは日本だろうことだけはなんとなくわかったし、ならばきっと、自分はあの神社の神の逆鱗に触れて、どこかに飛ばされたに違いない。

 山道をおりること小一時間、ようやく見えてきた建物に、しかしまどかは目を見張ることしかできなかった。

「御殿……?」

 明らかに現代建築とは程遠い、言うなれば寝殿造のそれである。

 山道で疲れきっていたはずの足が勝手に走る。

 嘘だ、嘘だ。これは夢か幻か。化かされているか寝ぼけているのか。

 しかし、どうあがいても、まどかが感じるにおいも、動かす足の疲労も、切れる息も。すべてがこれを現実だと訴えてくる。

「何奴!?」

 御殿の敷地に無断であがりこんで、なんなら御殿に土足であがりこんだまどかは、警備の兵に囲まれていた。

「珍妙な衣を着おって……貴様、何者だ!?」

 珍妙なのは、そちらのほうだ。まどかは兵の男たちを見て眉を潜めた。

 歴史の教科書でしか見たこともない、昔の服だ。腰には刀をさし、手には弓が携えられている。衣装は束帯と呼ばれるものだろうか。

 息を切らせるまどかに対し、兵の男数人がかりで、まどかを取り囲み、威嚇する。

「あやかしではないか?」

「待って、私は妖怪じゃないです」

「もしや、異国の侵略か!?」

「違います、私も日本人で」

「嘘を言え。そなたの髪は奇っ怪な色をしておろう」

「こ、これは染めただけで……て、もう!」

 話が通じなくてイライラしてくる。

 そうこうする間にも、まどかとの間合いを兵の男たちがじりじりと詰めていく。さしものまどかも弓や刀にはかなわない。

 どうにか話のわかる人間を探さなければ、もしかしたらこのまま殺されるかもしれない。

 まどかが次の策を思案したそのときである。

「さがれ」

 御殿のなか、もっと言えば、帳の向こう側から聞こえたのは、凛とした男性の声である。

 黒い帳をお付きの召し使いらしき男が捲りあげると、そのしたを潜り抜けて、ひとりの男――年の頃はまどかと同じく二十そこそこであろうか――がまどかに歩み寄る。

 先ほどまで威勢のよかった兵たちは、たちどころに御殿のすのこまでさがり、恭しくこうべを垂れた。

 しかし、まどかにはまるで訳もわからず、ただその場に立ち尽くし、呆けるしかできなかった。

 帳を潜り抜けた男が顔をしかめた。

「そなた、わたしを誰と心得る」

「……え? え?」

 かしずく家臣たちと、男の物言い、華美な服から察するに、この場にいる誰よりも位が高いことだけはわかった。

 まどかは家臣に倣って男に頭をさげた。

「すみません……私……」

「そなた、その衣はどこのものだ? よもや、この世のものではないのか?」

 質問攻めである。男は興味深そうにまどかを上からしたまで見渡すも、まどかはいい気持ちはしない。

 頭をあげて、ひと呼吸すると、

「ここはどこですか」

 臆することなく、男に問う。

「先に質問したのはわたしだ」

「私は……」

 もしもここが平安時代だとしたら、自分の出自をなんと説明したらよいのだろうか。だが、まどかは生来嘘がつけない性格である。

「私は、未来から来ました」

「未来……そなたは平安の人間ではないと?」

 まどかの予想が確信に変わる。やはりここは、平安時代。そしてどうやら、まどかは平安時代に転移してしまったようだ。

 どうしたものかとまどかがため息をついたのと同時だった。

「見え透いた嘘をつくな!」

 帳の向こう側に戻ったかと思えば、男は茶碗を片手に、その中身をまどかの顔にぶちまけた。

「……!」

 咄嗟に手で顔を覆ったものの、当然その液体――おそらくお茶だ――を防ぎきることなど不可能だった。

 理不尽だ。

 怒りたくなるのをこらえて、まどかはポタポタと滴り落ちるしずくを左手でぬぐう。

 そのときまどかは、ある異変に気づいた。

「こやつの処遇はオマエたちに任せる」

 男は茶碗を家臣につきだす。家臣はあわててその茶碗にお茶を注ぐ。その手を、まどかが掴んだ。

「これは、飲んじゃダメです」

「なにを」

「これ、毒が入ってます」

 男手をつかむまどかの左手の人差し指には、黒く変色した銀の指輪がはめられていた。

 まどかの言葉に、男はピクリと片眉をあげた。

「これが毒であると?」

「はい、そうです」

「なぜ言い切る?」

「それは……」

 ひとまず、男が茶を飲む気配を消したため、まどかは男から手を離した。男はうっとうしそうにまどかに捕まれていた腕をさすると、まどかをじっとにらむように見下ろした。

「この指輪が、黒く変色しました」

「ゆびわ……とは?」

「あ、これです」

 まどかは左手の人差し指から指輪を抜き取ると、黒く鈍い光を男に見えるようにやや高く掲げて見せる。

「これはシルバー……銀製です。その指輪が黒くなるということは、そのお茶にはなにか毒が入っていると考えるのが自然です」

 男は物珍しそうに指輪に顔を寄せ、眉間にシワを寄せている。

 側で見守る家臣が、やや不穏な面持ちを見せた。

 それを、男は見逃さなかった。

「そなたの言葉は半分しかわからん。わからぬが、どれ、この茶に毒が入っていると言うのならば」

 男は側の家臣に向き直る。そうして家臣の手にある急須を奪うように手に取ると、残っていた中身――毒入りのお茶だ――を家臣の口のなかに強引に流し込んだ。

「ぐっ!? 皇子さま!?」

「鬼食いは毒はないと言っていた。ならば、毒を盛れるのはただひとり。そなたしかおるまい」

「皇子……ぐぁっ!」

 まどかがとめる間もなく、男――皇子と呼ばれた――は家臣の男に茶を飲ませた。とたん、家臣はグッと胃を押さえつけ、数秒とたたずに赤黒い血を吐き出した。

「きゃああ!?」

 まどかが悲鳴をあげる。だが、皇子はなんら動じることはない。苦しみもがく家臣を、虫けらを見るような目で見下ろしたあと、するりとその視線をまどかに移した。

 冷たい目だ。

「あ、あ。管、管はありますか!?」

 動揺しつつも、まどかは動いた。胃洗浄だ、それをしなければ、この男は助からない。

「管と漏斗。あと炭にぬるま湯……早くしないと死んじゃう!」

 あたふたといったり来たりするまどかの手を、皇子がつかみとった。

「こやつはここで死ぬ」

「え?」

「そなたはうつけか? こやつはわたしを殺そうとした。死罪は免れん」

 淡々とした物言いと、なにより感情のない瞳に、まどかはそれ以上なにも言えなくなった。

「ソナタ、毒に詳しいとは薬師か?」

「や、私はただの管理栄養士――調理人で……」

 まどかがしどろもどに答えた。早く胃洗浄をしなければ、と倒れた男に歩み寄ろうにも、皇子によってそれは阻まれた。

「なにをしている。この女を捕らえよ」

「……え?」

 すのこに控えていた兵たちが、まどかを囲む。

「な、んで。なんで私を捕らえるんですか!?」

 兵に縄をかけられながら、まどかは皇子に叫んだ。しかし、皇子は顔色ひとつ変えずに、

「毒と見抜いてわたしに近づく算段かもしれぬであろう? なにより、毒入りの茶を顔に受けて、そなたの肌はなんら爛れることもない。そなたが『異質』であることはうつけでもわかる」

 ずるずると引きずられながら、まどかはそれもそうだと思ってしまう。

 銀が変色するとなれば、砒素かなにかに違いない。砒素入りのお茶を顔面に被ったら、なにかしらの反応があってしかるべきだ。皇子の言い分も一理ある。

 投獄されたまどかは途方にくれた。

 ここは平安時代で、自分は毒を盛った家臣の仲間だたと思われていて、そして未来の人間だ。

「皇子っていうと……次期天皇……? まさか、ね……」

 あんな横柄な人間が、天皇になったら大変だ。そんなことを考えながら、まどかはぼうっと宙を見る。いまだ置かれた状況すら理解できない。ひとまず、今すぐどうこうされるわけではないのなら、弁明の余地があるということだ。

 まどかには勝算があった。今日、出掛ける時に唯一持ってきたものが、まどかのポケットにはちゃんと潜んでいる。

 

 夜になると牢獄はいっそう暗さを増した。ただでさえ暗く陰鬱な空気が流れているというのに、梅雨の夜は暗く、寒い。

「あの」

 見張りの男に話しかける。

「なんだ」

「なにか寒さをしのげるものを、いただけませんか?」

「罪人の分際で生意気なことを言うな」

「でも、私が死んだら、罪を明らかにできませんよ?」

「ああ、めでたいやつだ。オマエは投獄された時点で死罪なのだ。今さら獄で死のうが、俺の知ったことじゃない」

 そういうものなのか。まどかは納得しつつも、ならば弁明の機会すら与えられないことに気づいた。それではダメだ。

「わ、私。毒なんか盛ってません!」

「罪人はみな、同じことを言うからな」

「調べればわかることでしょう!?」

「そなた、誰にものを申して――」

 見張りの男がいよいよ腹をたてたとき、獄に来訪者が現れた。その人物を見るや、見張りの男は床に膝をついて恭しくこうべを垂れるものだから、まどかもつられてそちらに目を向けた。

「おや、思ったよりもうら若いかたなのだね」

 物腰の柔らかな男が、いた。見目麗しく、整った顔立ちをした男性だ。もしかすると、そこら辺の女性なんかよりもいくぶんもきれいな顔立ちをしている。中性的な顔立ちだ。

 むろん、昼間の皇子も、この世のものとは思えない美しさや儚さが醸し出されていたが、まどかはこちらの男のほうが好感が持てると思った。

「た、助けてください! 私は毒なんか盛ってなくて」

「ああ、わかっている。そなたを呼んだのはわたしだから」

 穏やかな声が鼓膜に心地よく届く。呼んだ、と言った、この男は。呼んだ、つまりまどかを平安時代につれてきた元凶は、この男。

「どういう意味ですか……」

「ああ。ひとまずそなたをここから助けだそう」

 見張りの男から鍵を受け取り、男は牢獄の鍵を開けた。

 そうしてまどかに手を差し出すと、にっこりと人好きする笑みを浮かべた。

「私は安倍晴明、と言えば、そなたにはすべてがわかるかな?」

「安倍、晴明……って、あの安倍晴明!?」

 現代においても誰もが知っている名前だ。安倍晴明、平安時代最強の陰陽師。その力は各貴族だけではなく、帝からも認められたものだという。

 そんな有名人がなぜ、自分を平安時代に呼んだのだろうか。

「そなたは選ばれし巫女。わたしと共に、九十九神の討伐に当たってほしい」

 寝耳に水、まったくもって理解不能。

 だが、これだけはわかる。

 まどかがこの牢獄から出るためには、晴明の手をとるしかない。

「私は」

 差し出された晴明の手に、まどかはそっと自分の手を重ね合わせた。

「私は、天宮まどかです。晴明さんの噂はかねがね聞いています」

「ふふ。噂? あまりよろしくないものでないといいのだけれど」

 ひどくきれいに笑うひとだとまどかは思った。この、得たいの知れない、だけれど穏やかな、歴史上最強ともいえる陰陽師が、なぜまどかを平安時代に呼び寄せたのか。まどかにはまだ、わからない。

 

 皇子の寝所につくや、まどかは再び気まずい思いをしていた。

「この妙な女が、『例の』巫女なのか?」

「左様です。皇子さま」

 晴明の説明によれば、まどかはこの皇子のために平安の時代に召喚された。この皇子は次期天皇の第一皇子だが、短命の呪いをかけられている。

 呪いを解くためには、九十九神を討伐せねばならない。なぜならその呪いは。

「おい、似非巫女」

「え、えせ……」

 言い返そうにも言い返せなかった。なぜならまどかは巫女ではない。晴明によれば、まどかは巫女としてこの世界に呼ばれたのだが、肝心のまどかには陰陽術はおろか、式神すら使えない。

 だからまどかは、黙るしかなかった。

「俺たち天皇家の祖先くらいは知ってるだろ」

 昼間も感じが悪かったが、今はさらに感じが悪い。口調のせいだろうか。

 まどかは背筋を正す。

「はい。いざなぎのみことといざなみのみことです」

「はっ。ただのうつけではないようだな」

「……それで、それがなにか?」

 刺のある言いかたに、まどかもついきつい口調で返した。

「いざなみの呪いにより、黄泉とうつしよの別ができた。そして、一日に三千の人間が死する世界がなりたってしまった。その贖罪として、代々天皇家は呪われている」

「呪い……? でもそれは、神話の話じゃ……」

「神話だ……? オマエは俺がただのひとの子だと言いたいのか?」

「……いや、まあ……それは……」

 神話は神話である。まどかは天皇家が神の子孫だと信じていない。それは現代に生きていれば当たり前のことだ。そもそも、陰陽師や神や式神などというものを、まどかは今まで見たことがなかった。

 正確には、つい数刻前まで。

 隣に座る晴明を見やる。晴明の側にはあの、発光する式神が行儀よく鎮座している。式神がまどかの視線に気づき、『ぎゅむ』っと鳴いた。

「オマエも見えてるんだろ」

 皇子が式神のほうを見る。てっきり晴明とまどか以外には見えないものだと思っていたが、そうではないようだ。

「皇子さまも、見えているのですか」

「当たり前だ。九十九神がうつしよに現れるようになったのは、ひとえにいざなみがこの世界を呪ったせいだ」

「……いざなみの呪い……」

 いまだまどかは納得いっていないようだ。

「で、オマエは俺のために巫女として九十九神の討伐をするのか? しないのか?」

 試すような言いかただ。まどかは思案する。そもそも自分がそんな大層な巫女であるはずがない。

 巫女だったのならば、神通力とか、それより先に、霊的なものに日常から触れてきたはず。

 まどかの人生にそれらは皆無である。よってまどかは結論付けた。

「やるもなにも。私は巫女じゃないので」

 やんわりと断りをいれると、はんっと皇子が鼻で笑った。

「そうだな。俺もオマエには無理だと思う」

「そうでしたか。ならば私を、未来に帰してください」

「それは俺じゃなく、晴明に頼むんだな」

 皇子が席をたとうとしたそのときである。

『きゃああ! あやかしが、あやかしがっ!』

 外の騒がさしさに三人ともすぐさま気づいた。そして最初に動いたのは晴明でる。

 懐から紙切れ――呪符を取り出すと、出入り口に向かって投げた。その呪符がぼっと音をたてて燃えたかと思えば、晴明はすぐさま二枚目、三枚目の呪符を懐からとりだして、まどかと皇子の周りに置いた。

「おふたりとも。決してその呪符よりこちらに参られぬよう」

 釘をさすように言われ、まどかはこくこくと首を縦に振ることしかできない。

 晴明の真正面に、鬼のようなあやかしが見えたからだ。しかし、御殿の使用人には見えていないらしく、ただただ逃げ惑うばかりだった。

 鬼は晴明に狙いを定めると、耳まで裂けた口から火をふく。

「餓鬼か……!」

 まどかの後ろで、皇子が呟く。餓鬼、餓鬼。

 地獄にすむという、鬼の餓鬼だろうか。

「おかしい……」

「さっきからなんなんですか」

 耐えきれず、まどかは皇子に問い返していた。

「この屋敷の周りには、晴明の呪符で結界が張られている。ゆえに、屋敷に入れるわけがない」

 晴明は餓鬼に苦戦している。

「屋敷に入れるあやかしとなれば、それなりに力が強くなければ晴明の結界を破れるわけが……」

 独り言に近かった。皇子はハッとしたようにまどかを見る。まどかの頬を汗が伝う。皇子はなにかに気づいたようにまどかを見ている。一体皇子はなにに気づいたというのだろうか。

「皇子さま、私になにかついてますか……?」

「巫女あらわるるとき、神々の暴走と引き換えに、呪いを終わらせるだろう……」

「なん……なんです?」

「『黒雲』の予言の言葉だ。つまり、あの餓鬼があれほどまでに力をつけたのは、オマエがこの世界に来たから……と考えるのが自然だ」

 妙に神妙な面持ちの皇子に、それならばとまどかの体は無意識に動いた。

 どういうわけか晴明はあの餓鬼に苦戦しているし、このままでは皇子もろとも危険に晒してしまう。

 ならば、自分があの餓鬼の力を暴走させているのならば。

 まどかは、自分がこの場を離れることで、すべてが解決すると思ったのだ。

 晴明の結界を走り出て、まどかは晴明の脇を通りすぎる。

「まどかどの!」

 晴明の制止を振り切って、餓鬼の側を危ういながらも通りすぎる。

 庭に降りたところで振り返ると、やはり、餓鬼はまどかのあとをついて来ていた。

 しかし、このさきのプランがない。

 餓鬼をおびき寄せたところで、まどかには太刀打ちできる術がない。

 そうこうする間にも餓鬼はまどかを食らわんとまどかを追いかけてくる。

「まどかどの! これを!」

 ひゅっと晴明がなにかを投げる。一直線にまどかに向かって飛んできたのは、呪符である。

 だが、使いかたなんてまどかは知らない。知らないが、藁にもすがる思いでまどかはその呪符を手に掴んだ。

 くしゃっと呪符を握りつぶすように手にしたまどかは、襲いくる餓鬼に向かってその手を振りかざした。

「こ、来ないでっ!」

 言うなれば、ただのビンタである。呪符を握った手で、渾身のビンタを餓鬼に向かって一発。

「ぐ、ぁあっ!!」

 だがしかし、まどかの予想に反して、餓鬼は耳をつんざくような叫び声をあげながら、まどかの持つ呪符のなかに吸い込まれていくのだった。

 一部始終を見ていた晴明が、庭に降りてまどかに平伏した。

「さすが貴女は、やはり巫女です」

「や……晴明さん、なにを」

 あわあわと両手を顔の前で振りながら、まどかはしゃがみこんで晴明を立たせるべく肩に手を添える。

 そのとき、バチチっとまどかの目の前に火花が散った。あの、鳥居をくぐったときと同じ感覚だ。

 しかし、あのときと違うのは、まどかが未来に戻れるわけではないということと、流れ込んできた『なにか』。

 まさしく、まどかが感じ取ったのは晴明の『霊力』である。

「晴明さん……わざと餓鬼に苦戦しているふりを……?」

「ああ。貴女には隠し通せませんね」

 感じた霊力がまどかに静かに語りかける。先ほどの餓鬼など赤子同然の、それほどまでに強い力を、まどかは晴明のなかに感じ取った。

 決まりが悪そうに晴明が立ち上がる。どうして、とまどかが口を開く前に、御殿のうえから皇子が口を出した。

「俺が試した」

「……え?」

「オマエが巫女だと信じられるか? だから俺が、晴明に頼んでオマエを試した」

 結果的に解決したものの、下手を打てばまどかは死んでいた。いっときでも皇子を心配し、動いた自分が恨めしい。

 まどかは御殿の階段――きざはしをずかずかと上がると、皇子めがけて歩いていく。

「なんだ? やるのか?」

 安い挑発だ、しかし今はそれでちょうどいい。

 まどかは迷わず皇子の左頬を平手打ちした。開いた手のひらから呪符がひらりと舞い落ちた。

「貴様……誰に向かってこのような無礼を……」

「無礼!? どちらが先に無礼を働いたかわかってますか!?」

 平手打ちなんてしたことがない。少なくとも未来では。

 先ほど平手打ちしたのは相手が餓鬼だからためらいもなかったのだが、今のこの平手打ちにも迷いがなかったことに、まどか自身も驚いた。

「まどかどの……」

「晴明さん。私は帰りたいです」

「……左様ですか。しかしながら、申し訳ありません。送り帰すにしても、次の新月までお待ちいただかねばなりません」

 腰を低く、晴明は言う。まどかは信じられないと言いたげに天井をあおいだ。寝殿造の屋根は、千年以上前のものとは思えないほど、立派なつくりになっている。

「おい、俺は許していないからな」

「アナタには関係ないでしょう?」

「いや、関係ある」

 平手打ちされた頬をおさえながら、皇子はまどかにずいっと顔を寄せた。

「オマエには九十九神を討伐し、俺の呪いを解いてもらう」

「だから、私は」

「次の新月まで、オマエは帰れない。その間、どこで暮らす?」

 まどかは晴明をちらりと見やる。

「わたしの屋敷でよければ」

「ならぬ」

 晴明が助け船を出すも、皇子はそれを断固拒否した。

 頬を抑えていた手で、まどかの腕をぎゅっとつかむ。

「次の新月まで、オマエは俺の庖丁(料理番)として働きながら、九十九神の討伐の任に就いてもらう」

 なにを身勝手なことを。思うも、先ほどまでまどかの味方をしていた晴明すら、口を出すことはできなかった。

 これは命令である。この国で二番目に権力を持つ、第一皇子の、勅命だ。

 一介の陰陽師が逆らえるわけもない。

「嫌だ、と言ったら?」

「罪人として命をもらう。オマエが生き残るには、九十九神を討伐するしかない。さあ、どうする?」

 皇子の物言いに腹が立つ。まるで人間扱いされていないことに、まどかは腹をたてた。

 そもそも、未来の世界でもブラックな職場はあったし、理不尽な思いもしてきた。

 なのに、平安時代に召喚されてなお、自分は誰かに虐げられなければならないのだろうか。

「……皇子ともあろうお方が、他力本願ですね? ご自分で解決しては?」

 言い返されたのは、もしかしたら初めてかもしれない。皇子はそんなことを思いながら、霞む意識に逆らうように、ぎゅっと拳を握りしめる。てのひらにめり込む自身の爪の痛みで、皇子はようやく意識を保った。

「オマエはこれが、どれだけ重要なことか……わかっていない……よう……」

 だな。

 最後の言葉は倒れるのと同時であった。

 バタン!

 と音がして、まどかはどうすることもできなかった。いざ目の前で不測の事態が起こると、ひとは咄嗟に動けないようだ。

「あ、あ。え?」

「皇子さま」

 さっと歩み寄ったのは晴明である。慣れた様子で式神――中型犬のような――を出すと、その背中に皇子を乗せ、寝所の布団へと運んでいく。

 まどかはただただおろおろするばかりで、晴明について歩くことしかできなかった。

 

 寝所の布団に皇子を寝かせて、晴明はまどかを振り返った。

「気丈に振る舞っておられますが、皇子さまは呪いゆえにお体が弱くあらせられます」

 式神を消して、晴明はまどかに静かに説明する。

「まどかどのは、毒入りの茶を被っても、無傷だったとか」

「……はい」

「それは、もしかするとまどかどのに、回復の術が使えるのかも知れないですね」

「回復……じゃあもしかして、皇子さまを回復させることも……?」

 ばっと皇子に駆け寄るも、なにをどうすればその術が使えるのか、まどか自身もわからない。

 わからないなりに、両手の指を絡ませあわせ、顔の前に掲げて念じる。

「治れ、治れ。なおれ!」

 言葉にもした。自分にそんな力があるのならば、今使わずしていつ使うのだろうか。

 晴明はただ黙ってまどかを見守っている。

 しかし、まどかがなにかを発することも、皇子が回復することもなく、ただただ時間が過ぎていく。

「……晴明さん。私は」

 無力さを思い知る。

 そして、疑った自分も。

 皇子が呪われていることなんて、一切信じていなかった。今の今まで。

 しかし、真っ青な顔で横たわる皇子を見て、まどかは自分の無力を嘆いた。

「私は、巫女としてこのひとを救えるのでしょうか」

 例えばそれが、次の新月までの期限つきだとしても、なにもしないよりはましだとまどかは決意する。

「貴女なら、きっとできますよ」

 さざ波のような晴明の声が、まどかの鼓膜をふるわせた。


 かぐわしいにおいに目を覚ました皇子は、枕元にちょこんと座る人物に、一気に意識を覚醒させた。

「オマエ……」

「お目覚めになりましたか」

「……帰るのではなかったのか」

 のそりと体を起こしながら、皇子はまどかに悪態をついた。

 まどかは苦笑を浮かべながら、向こう側に並べた膳を指差した。

「あちらに朝食を用意しました」

 皇子はここで、寝所のそとががやがやと騒がしいことに気づいた。

 立ち上がりすのこへ歩けば、寝所の外にずらりと、家臣や女房が身を隠し、皇子の部屋を覗き見ていた。

 その視線は皇子ではなく、まどかに注がれている。

「あのようなものを……」

 皇子の身を案じているようだが、

「そなたたち。わたしの意向に不満があると?」

 牽制するように窘めて、皇子はしっしと家臣や女房を追い払う。

 人払いをして、ほっとしたのはまどかのほうである。

 昨日とは違い、巫女装束に身を包み、髪の毛を揃え結んだまどかは、皇子のほうを見て照れ臭そうに笑う。

「なんだか、変な感じです」

「はっ。さくじつの衣に比べたら、まともだろう」

 そのまま、皇子はまどかが用意した膳の前に足を向ける。しかし、そこに並んだ料理に、顔をしかめてまどかをにらむように見た。

 そもそも、皇子の寝所に人々が集まっていたのは、まどかが未来から来た人間だからでも、まどかが晴明の弟子だからでもない。


「よし。作りますか!」

 朝は七時。規則正しい生活が身に付いているまどかは、意気揚々と台所――厨(くりや)にたった。

 食材は米に野菜を中心としたたくさんのものが揃うなか、まどかは気づく。

「え……醤油も砂糖もみりんもないの……?」

「しょうゆ……? まどか、それはなんだ?」

 料理番のひとりが問い返した。

「醤油は……大豆と小麦と麹を発酵させた……」

「ああ、ひしおだったら、こっちだよ」

 料理番の男が持ってきたのは味噌にやや流動性を持たせたような調味料だ。

 まどかはひしおを人差し指ですくいとり、口に運ぶ。

「……醤油と味噌のあいのこ……って感じかな……」

 それにしては癖があるが、この際そこは気にしないことにした。なにしろ、平安の調味料といったら、このひしおと塩と、酢くらいのもので、わがままも言っていられない。

 ちなみに平安のひしおは肉ひしおや魚ひしおが主なため、癖があるのも当然だ。現代にも秋田のしょっつるなどが残っているが、あれらは魚のひしおである。

 そしてこのひしおのうち、穀物を使ったひしおが味噌へと発展する。味噌は本来未醤と書く。醤がひしおを意味している。

 そもそも、ほかの料理番の料理を見ると、どれも『薄い』か『濃い』の両極端なのだ。薄いというのは、味がないという意味だ。

 まさに、味をつけた料理が存在しない。

 平安の料理はただ焼いただけ、煮ただけの料理がほとんどである。

 ならどうやってそれらを白米のおかずにするのかといえば、先に述べたひしおや塩、酢を各々膳のうえで好みに調合して、魚につけたり白米に混ぜたりして食べるのだ。

 そのほかに、肉や魚は冷蔵庫がなければおのずと塩蔵品になる。平安の料理はまさに、薄いか濃いかのどちらかなのだ。

「肉はないんですか」

「肉なんて! 仏教の教えも知らないのか?」

 料理番の男はまどかを信じられないものを見るような目で見ている。

「あれが食べたい、これが食べたいと欲することは、あしきことなんだってさ。まどかは恐ろしきひとだな」

 まどかの出自を知るものは、晴明のほかには皇子しかいない。まどかがよもや巫女で、皇子の呪いを解くために未来から召喚されたとは、誰も思いもしないだろう。

 まどかは乾いた笑みを浮かべる。

 確か、大学の講義で習った気もする。平安の食文化は悲惨だったと。

 皇子は、呪い以前に食生活を見直す必要がありそうだ。

 まどかは城下におりて、あるものを調達するのだった。

 

 果たして、並んだ膳に目を丸くする皇子に対し、まどかはにこやかに説明する。家臣たちが寝所をみていた理由は、まさにこの膳にある。

「城下で猪の肉を手にいれました。鶏の卵も。里芋は煮っ転がしにして、あつものはひしおで味噌汁風にしてみました」

 まどかはそのなかでも、煮っ転がしの器を手にとって、

「この時代には砂糖は貴重品、みりんもありません。だから、甘味をつけるのに、なにを使ったと思います?」

 まどかが嬉しそうなのは、これがまどかの『本業』だからである。

 まどかは未来の世界で、料理の仕事についていた。

「これ、濁り酒で代用したんですよ。そもそも、みりんもアルコールを含む調味料ですし、この時代の濁り酒の糖度は高く――」

「もういい、やめろ」

 頭を抱える皇子に、まどかは首をかしげた。

 自分で言うのもなんだが、この少ない材料と調味料で、よくここまで料理ができたものだまどかは自画自賛している。

 だが、皇子にはそうではなかったようで、

「肉食はしない。それに、なんだそのあつものは。色がひどい。まるで食欲をそそられない」

 はあぁっとため息をついた皇子だが、まどかはけろりとしたままだ。

「最初はそうかもしれませんけど。一口、一口だけ。騙されたと思って、召し上がってください」

 ほら、と膳の前に座り促すまどかに、うっとうしさを感じる。もとより、皇子である自分にくだけた態度をとるまどかに、やきもきしているのかもしれない。

「私は皇子さまの料理番です。損はさせませんよ?」

「……誰がこんなもの――」

 ぐう。

 腹の虫は正直だ。

 かいだことのない香りに、正直に言えば興味があった。香ばしさと、甘さと塩辛さが混じった、なんともいえないにおいである。

 どんっと膳の前に座った皇子は、まず最初にまどかに促す。

「鬼食いをせよ」

「鬼食い……?」

「毒味だ」

「あ。ああ、そうでしたね」

 まどかは皇子の向かいに座って、器のすべてから一口ずつ、口に運んだ。あつもの、なます、焼いた肉、卵焼き。そして米(こわいい)だ。

 平安の精米技術はまだまだ未熟だ。ゆえに、米を研ぐ作業からして未来とは違う。未来ではざるに入れた米を軽くかき回しながら洗う程度で十分に糠が取れるが、平安の米はそうはいかない。

 まず、洗い始めの最初の水は素早く捨てる。これは、乾いた米が水を一気に吸い上げるからで、ぬか臭い水を吸わせないために重要なことだ。

 そのあと、ざるの中の米を右手でぐるりとかき回して、手の平でぎゅっとざるに押し付ける。それを何回か繰り返して、水でぬかを流す。これを、水の濁りがなくなるまで繰り返す。

 水の量は体積比なら1.2倍、重量比なら1.5倍、最初はやや強めの中火にかけて、煮立ったら弱火にして八~十分。この間、蓋を絶対に取らないのがコツだ。そして最後に強火にして余分な水分を飛ばしたら、火を消して蒸らすこと十五分。ふっくらしたご飯の完成だ。

 竈の火加減は皇子つきの料理番から教わったが、火打石で火を起こすことは出来たものの、火加減を完璧にできるようになるまで、大分時間がかかりそうだとまどかは思った。それでも料理人の意地にかけて、覚えるつもりでいるのだが。

 そうして苦労して作ったごはんもおかずも冷めてはいるものの、味はそこそこ自信があった。

「はい。毒味しましたよ」

 すべての毒味をし、ぴんぴんしているまどかを見届けてから、皇子はようやく、自身も膳に箸をつけた。

 皇子はまどかに料理番を命じたが、それはまどかがあのとき――茶をかけられたとき――すぐさま『毒』に気づいたからだ。その、料理への知識を買って料理番に指名したのだが、料理の腕はたいしたことはなかったようだ。

 ――と、思っていた。

 はく、っと、恐る恐るまどかの作った料理を口にいれた瞬間、今までにない味が皇子を幸せの極みへといざなった。

 ただの肉の焼き物であるはずなのに、甘じょっぱい味が病み付きになる。

「これは、なにをした?」

「あ。はい。西京漬け風に……ひしおと濁り酒に浸けました」

 次に皇子は、あつものを喉に流し込む。普段の味のないあつものとは違い、深みと香りのある汁物だ。

「これは?」

「はい。鰹だしの代わりに鶏ガラでだしをとって、ひしおで味付けした味噌汁風……」

「これは?」

「わかめを三杯酢で和えました。酢と煮きった濁り酒と塩を混ぜて三杯酢にしました」

「この米はなんだ? まるで別物だ」

 平安の白米はこわいいと言って、蒸して作られる。こわいいは未来でも赤飯を炊くときなどに使われる調理方法と同じだ。米の水分が少なく、粒がはっきりしている。

「ご飯は固粥と同じ原理で『炊いて』います」

「……なるほど。今後米はこの固粥で出せ」

 あっという間に料理を平らげる皇子を見て、まどかは久々に料理人である喜びを感じる。そして、無邪気にまどかの料理を頬張る皇子を見て、まんざら嫌なやつでもないのかもしれないと思うのだった。


 膳を片付けたまどかと皇子は、晴明のもとに足を向ける。その間、ふたりに会話はない。

 寝所は広く、晴明のところに着くまでに大分時間がかかった。

「晴明さん、おはようございます」

「まどかどの。皇子さままで……」

 皇子を見るや、晴明は上座を退き、そこを皇子に譲った。皇子はさも当たり前のように上座に座ると、晴明のほうをちらりと見やる。

「今日は『黒雲』は来ないのか?」

 だしぬけに問う皇子に対し、晴明は皇子にこうべを垂れながら、

「もう間もなく参ります」

 恭しく答えた。

 そのやり取りをはたから見ていたまどかは、今日何回目かもわからぬ疑問を抱く。

『黒雲』

 先日の餓鬼の件で、皇子が呟いていた言葉だ。昨日の件は皇子の謀であったわけだから、皇子の言葉はすべて嘘だとまどかは思っていたのだが、どうやら『黒雲』なる人物は実在するようだ。

「あの」

 恐る恐るまどかが口を開く。

「なんだ」

 皇子は相変わらずの口調でまどかに答えた。

「『黒雲』さん……っていうのは、誰なんですか?」

 まどかのそれに、だが皇子は上機嫌に答える。

「『黒雲』は、晴明の弟子だ」

「弟子……!」

「ええ。まどかどのの兄弟子に当たりますね」

「あ、兄弟子……!」

 急にふわんとまどかの胸が高鳴った。兄弟子という言葉もそうだが、自分が晴明の弟子として認められたことが、どこか妙な気分にさせる。

 あの平安最強と言われた安倍晴明の弟子。なんのとりえもない自分が、そのようなたいそうな役目を仰せつかったことが、正直に言えば嬉しかった。

「黒雲さんって、どんなかたなんですか?」

「はんっ、オマエなど到底及ばぬ優秀な――」

 皇子がわがことのように説明し始めた時であった。

 ビリリリっとまどかの体に電気が走る。正確には電気が走ったわけではないのだが、体中がしびれるような――静電気がはじけるような――そんな感覚がまどかに突き刺さった。

 そのしびれの元凶を、まどかは振り返った。

 御殿の庭先に、ひとりの少女が立っていたのだ。その装束は巫女のものであるが、まどかのものと違って上下を黒色に身を包んでいる。

 少女は烏の羽のように黒々とした髪の毛を後ろでひとつにくり、前髪はきれいに眉の高さで切りそろえられている。

 切れ長の目は長いまつげで縁どられ、小さな唇は、しかし熟れた木苺のように赤くあでやかだ。

 ほうっと皇子が息を吐き出すのが分かった。

 だが、まどかはそれどころではない。

 この感覚を、まどかは知っている。この、ビリっと体に走る衝撃は、『霊力』そのものだ。

 つまり、彼女が晴明の弟子、『黒雲』であると気づくのに、そう時間はかからなかった。

「腐っても巫女なのですね。アナタは」

 黒雲の小さな口が動く。

 よくよく見れば、年のころはまどかより幾分か下である。十六、七ほどの幼い少女が、自分の兄弟子になるとは思いもしなかった。

 だからといって、その実力は、おそらく今のまどかなど及ばないほどに上であることは嫌でもわかる。

「私の『予言』を跳ね返すなんて、生まれてこのかた初めてです」

 黒雲は御殿の階段――きざはしを一歩一歩、気品のある歩き方で上がってくる。

 晴明は微笑を携え、皇子のほうは見とれているようだった。

 やがて黒雲が御殿の寝殿まで上がってくると、黒雲はまどかの真ん前に立ち、

「私は黒雲。アナタを探し出した星読みです」

「探し出した……?」

 まどかが晴明のほうを見ると、晴明は黒雲を制止するように右手を上げる。とたん、黒雲はおとなしくなり、下座――晴明の隣に腰を据えた。

 そのしぐさはまるでやんごとなきという言葉が似合う、そんなんことをまどかは思った。

「黒雲は、星読みゆえに、皇子さまの呪いを解ける巫女を探し出せるのです」

「え、っと。それじゃあ、私がここに呼ばれたのは、意味があるってことですか?」

「もちろんです。九十九神の討伐は、まどかどのにしかできません」

 晴明の言葉にまどかは再びなんとも言えない気持ちになるも、皇子のほうはそうでもなかったようだ。

 眉間にしわを寄せて、まどかにじと目を向けている。

「いくら黒雲の予言だからって、俺はコイツを信用できない」

「……なら、なんで料理番なんて命じたのですか」

「それは……オマエは毒にすぐに気付いた。ゆえに毒に関しては一目置いているが、そのほかはてんであてにならん。昨日の様子を見れば一目瞭然だろう」

 皇子の指摘はもっともで、まどかはぐうの音も出なかった。

 しかし、意外にも助け舟を出したのは黒雲である。

「そうは言っても、皇子さま。先ほどこの巫女は、私の『予言』の力を跳ね返しました」

「それは本当なのか?」

 皇子がまどかに確認する。しかし、まどかに思い当たる節はない。ふるふると顔を横に振ると、皇子は「ほらな」とため息をついた。

 しかし、黒雲は真剣である。今一度まどかを向き直り、じっとりとした視線を寄越してくる。

 ジリジリジリ、っと音がする。だが、その音はまどか以外には聞こえていないようだ。

 その音はやがて静電気のようなバチバチとした音に変わり、まどかの体のなかから湧き上がる。

 若干の痛みを感じ始めたところで、まどかは思わず身じろいだ。

「痛っ!」

 バチン!っと『なにか』を振り払うように手を動かすと、そのバチバチはまどかから消える。

 黒雲の口がきれいな弧を描く。

「ほらまた。私の星読みの力をはじいた。私には、この巫女の予言を見ることができません」

 この、バチバチしたものが霊力やそのたぐいのものなのだと、まどかはこの時確信するに至った。

 まどかは黒雲からやや距離をとる。

 黒雲はふっと笑みを消して、

「そう警戒せずとも、私ごときがアナタにかなうわけがないでしょう?」

 すんとすました表情である。 

 読めない。

 まどかは戸惑った。この、黒雲という少女の感情が、まるで読めない。というよりは、感情がないようにも感じられる。

「黒雲。それではわたしの予言をしてくれぬか?」

 戸惑うまどかをよそに、皇子がほうっとした表情で黒雲に命じた。

 その表情は、黒雲への恋慕ともとれるし、敬愛や崇拝のようにも見える。

 黒雲が皇子のほうを向き、目を閉じる。

「皇子さまは……」

 はっと目を開ける。黒雲はいましがた見えた予言に、息を忘れた。

 先日までは見えなかった予言だ。まどかがこの世界に来るまで、絶対にくつがえせなかった、皇子の未来。それが、たった一晩で――黒雲ですら変えられなかったそれを、ものの数刻でまどかが変えてみせた。

「黒雲? なにを呆けている?」

「あ……申し訳ありません。皇子さま、は……」

 汗が吹き出す。しかし黒雲は仮にも巫女だ。その動揺を悟られないように、小さく深呼吸する。

 黒雲の汗が引く。心臓も凪ぐ。

「皇子さまの呪いが解ける、そのような未来が見えました」

「本当か!?」

「はい。まぎれもなく、そちらの巫女のお力で」

 ふつっと黒雲の視線がまどかに寄越される。その瞳に宿る、なんとも形容しがたい感情に、まどかはあてられた。

 嫌われている?

 だが、それがなぜだかまどかにはわからない。

「黒雲さん、私が呪いを解くって……」

「ああ。アナタはまだ聞いていないのですか」

 しらっと、まるで戯言を発するかのような口調で、

「皇子さまの呪いはいざなみと九十九神によるもの。その、いざなみの呪いを解けるのは、いざなみの生まれ変わり――つまり、アナタだけです」

 女の嫉妬はおそろしいというが、今はそれより先に、まどかには戸惑うことしかできなかった。

 いざなみの生まれ変わり。いざなみのみことの。つまり、この世界に黄泉とうつしよの別を作り、それどころか、一日に三千の人間が死にゆく世の中を作り出した根元。

「私が……いざなみの……?」

 黒雲の隣に座っていた晴明が、黒雲をいさめる。

 しかし、黒雲は涼しい顔である。

「自覚が足りないのです。未来から呼ばれ、皇子さまの呪いを解け。それだけでは誰だって納得いかぬもの」

 黒雲はまるで自分が正しいと言いたげだ。

 しかし、晴明としては、まどかにはこの事実を隠しておきたかった。その責を背負うには、まどかはまだまだこの世界を知らなすぎる。

「なんだ。オマエはそんなことも知らずに俺の料理番を請け負ったのか」

「……私、のせい。なんでしょうか」

 九十九神がこの世にはびこるようになったのも、いざなみの呪いだと聞いた。すべての責任がいざなみにあるとしたら、生まれ変わりのまどかにも、同じく責任が伴うのではないだろうか。

「まどかどの、落ち着いて」

「晴明さんも、知っていたんですよね?」

「まどかどの……」

 立ち上がる。

 いたたまれなくなったまどかは立ち上がり、そのまま御殿のすのこを通り、きざはしをかけ降りていく。

「まどかどの、どちらへ!?」

 引き留めたのは晴明のみである。皇子も、黒雲も、御殿のなかに座ったままに、ぼうっと宙を眺めている。

「少し、散歩に」

「では、わたしもついていきましょう」

「すみません。ひとりにしてくれますか」

 ぴりぴりとまどかの霊力が晴明を威嚇している。もっともそれは、無意識であるが、あの黒雲ですら動揺を見せるほどには、まどかの威圧は常軌を逸するものがある。

 先程までまどかを軽視していた黒雲でさえ、まどかの異変に気づき、警戒し、臨戦態勢をとっていた。

 むろん、式神が見える皇子もまた、まどかの霊力にあてられて、毛穴という毛穴から汗が吹き出た。

「まどかどの、気をおしずめに」

 晴明だけが、まどかに対峙できる。黒雲や皇子程度の霊力では、到底まどかには敵い得ない。

「私、私は」

「まどかどの、こちらに」

「晴明さん。私をなぜ、平安に呼んだんですか」

 ぶわっと庭に土ぼこりが舞う。まどかの霊力が制御できなくなったのだ。急激な霊力の上昇に、まどか自身もその力をもて余している。

 晴明は、下手な嘘は通じないと踏んだ。ゆえに、

「千年に一度、いざなみの生まれ変わりが現れる。その巫女を平安に呼んで、九十九神を討伐する必要があるのです」

「……なら、私じゃない生まれ変わりでも」

「いいえ。ほかの生まれ変わりはみな死にました。貴女だけが最後のたよりなのです」

 ごうっと風がなる。そうして空には黒い雲が立ち込めて、ますますまどかの周囲には、近づけないほどの霊力が流れ溢れる。

 晴明が庭におりると、まどかは一歩後ずさる。

「来ないで」

「まどかどの。生まれ変わりとて、別の人間なのです」

「でも、でも……!」

「生まれ変わったとして、貴女は別の人生を生きてきましたね。魂は人生の歩みにより形作られるもの。貴女といざなみは、似て非なるものなのです。ただ、貴女にいざなみと同等の霊力がある以外には」

 慣れない場所――もっといえば、過去に召喚されて、まどかは心細かった。

 なぜ自分が平安に呼び出されたのか、知りたくなかったわけではない。けれど、知ったら知ったで、恐ろしくなった。

 なにより、今こうして、まどかの周りに立ち込める霊力が、自分は『あしきもの』の生まれ変わりだと証明している気がして、まどかは居心地が悪かった。

「まどかどの。こちらに」

 なにをどうしたらいいのかなんて、まどかにもわからない。わからないのだが、まどかは晴明が差し出した手を、その手をしっかりと握った。

 その瞬間、ふっとまどかの周りの風も霊力も、すべてが静かに凪ぎやんで、まどかの体はがくんと倒れ落ちた。

 

 沈む、沈む。

 まどかの意識は静かにおりていく。真っ暗なようで真っ白なような、無意識のなかに溶け込んでいく。

 しかし、その耳は体は、外界の音をこぼさずまどかに届ける。

 まどかに目覚めた霊力は、まどかの五感を研ぎ澄ました。

「黒雲。なぜあのようなことを言ったのです」

 そうきりだしたのは晴明である。

 まどかを寝所の布団に横たわらせ、その傍らで三人での話し合いが持たれた。

 黒雲は少しだけ唇を尖らせている。年相応の反応に、まどかはわすかばかり驚いた。

「晴明さまが、あの巫女を特別扱いするゆえ、巫女として自覚させるべきと思いました」

「黒雲。そなたもわかっていると思いますが、まどかどのの世界には霊力はおろか、九十九神すらいません」

「だから、甘やかすのですか」

 やはり、まどかの住む世界――未来では、霊力などは存在していなかったようだ。だからこそ、まどかは自分が巫女だという確信を持てなかった。

 あの、暴走をみるまでは。

 まどか自身も半信半疑であった。なぜまどかが巫女なのか、この世界にはなぜ九十九神や霊力が存在するのか。

「うらを返せば、まどかどのの世界に霊力がないということは、この時代……あるいはもう少しあとの時代で、巫女が呪いを解いたということになります」

 晴明の言葉に、黒雲はぐっと黙りこんだ。認めたくないのだろう、その事実から目を背けるように、反論する。

「でも、それがあの巫女とは限らないでしょう?」

「黒雲。自分の予言を覆すのかい? そなたは先ほど、『皇子の呪いは解ける』そう言いましたね?」

 墓穴を掘った。

 しかし、確かに黒雲はみた。誰がなにをしたのかまでははっきりとは見えなかったものの、皇子が呪いから解き放たれて、長く長い生をまっとうする予言だ。

 しかし、その予言にまどかが関わる以上、まどかに関する部分はまったく見えない。まどかの潜在的な霊力は黒雲をはるかにしのぐ。ゆえに、黒雲の予言では干渉できない。

 それでも、少ない情報からでも黒雲にはわかった。まどかがこの呪いを終わらせるのだと。

「私は反対です。あの巫女は頼りない。聞けば、次の新月には帰るのでしょう?」

 いつもは従順な黒雲が、食い下がることに晴明は少しばかり目をみはった。

 黒雲は自主的に動くことがない、控えめで流動的な少女だと、晴明は感じていた。しかしどうだ。まどかがこの世界に来てから、黒雲は自分から星読みをし、それどころか晴明を言い負かせようとしてくる。

「俺も、あの巫女は信用ならん。見たか? まるで力を制御できてなかった」

 はっと鼻で笑う皇子は、黒雲を後援するかのようだ。

 皇子の黒雲に対する気持ちに、まどかはなんとなく気づいていたが、どうやら皇子は黒雲に特別な感情を抱いている。

 それが崇拝なのか恋慕かはさておいて、どうにもまどかの居場所はないようだ。

「それに。晴明さまの『諱(いみな)』の支配がなければ、あの巫女は今ごろ都ごと消しとんでいましたよ?」

 いみな、とはなんであろうか。

 眠りながら、まどかは頭を回転させる。

 いみな。忌み名。なにか、霊的なものと関係がありそうな名前だ。

「そうですね。しかし、諱は、相手より霊力が高くなければ、その名を呼んで支配することは不可能です」

「なれば。晴明さま。晴明さまはなぜ、あの巫女に諱を教えたのですか」

 諱、つまり安部晴明という名前が、その諱というものらしい。

 となれば、黒雲という名前は、諱ではないことを示している。

 そこから察するに、平安の人間には諱と呼び名、ふたつの名前が存在するようだ。

「諱を知られることは、相手に支配されること。いくら晴明さまとはいえ、あのような素性の知れぬひとに諱を教えるなんて……」

「それは俺も賛成だな。晴明、オマエは俺にとっても頼みの綱だ。なにかあったらどうする?」

 悪用する前提の話しぶりに、まどかは自分が歓迎されていないことを悟った。ならば、それならば、次の新月で未来に帰ったって、誰も困らないはず。誰もまどかを引き留めないはず。

「まどかどのが、そういうかたに見えますか?」

 晴明の声はいつだって穏やかだ。この声で名前を呼ばれると、まどかはどうにも逆らえない。それが『いみな』の支配なのだとしても、別にそれで構わないとさえ思う。

「まどかどのが霊力を悪用し、わたしを、皇子さまを黒雲を。まわりの人間を陥れるように見えますか」

 皇子も黒雲も黙り混む。

 もしまどかが本気でそうしようとしたのならば、皇子の料理にまどかしか知り得ない未来の知識の毒を盛れただろうし、それに、餓鬼の件だってそうだ。

 自分をかえりみず餓鬼に向かい結界から走り出たと黒雲も聞いている。

 単なるお人好しだとしても、その心根は、まさしく『慈愛』に溢れたひとだと、誰もが思ったに違いない。

「……アイツは、目覚めるんだろうな?」

 皇子が帳の向こう側に眠るまどかに視線を寄越す。晴明はふっと笑い、「大丈夫です」と答える。

 黒雲は不満げに晴明を見ていたが、確かにまどかには邪気を感じ取れなかった。微塵も。

 普通、人間には多少なりともなりともよこしまな気持ちが存在するものだ。しかしまどかからは、そういったものは一切感じられなかった。

 信じられない話ではあるが、まどかは生粋の巫女なのだ。巫女は身も心も清い人間が選ばれる。そう、黒雲とは違って、純粋無垢な人間が。


「ん……」

 夢のなかなのか現実なのか、まどかにもわからない。わからないが、先ほど聞こえた会話が現実であることは、なんとなく理解できた。

 ぱちっと目を開けると、意外にもその傍らに、皇子の姿があった。向こう側には黒雲もいる。

「す、すみません!」

 皇子を差し置いて眠っていたことに恐縮して、あわてて起き上がり、まどかは下座へと移動した。

 皇子はふんっと鼻をならして、上座に座り直す。

「オマエ、体はもういいのか?」

「は、はい。私……確か……」

 こうべを垂れながら、自分がしでかしたことを思い出す。確か、霊力が溢れて制御できず、暴走したのだ。それを止めたのは紛れもなく晴明だ。晴明がまどかの『諱(いみな)』を呼んで、なかば強制的に眠らせた。

 そう夢のなかで聞いた。晴明と黒雲と皇子だけの会話だ。

「晴明さん。私、晴明さんにお願いしたいことが」

 まどかはすのこから庭を見下ろす晴明に向き直る。晴明もまどかを振り返り、にこりと笑った。

「私に陰陽術を、教えてください」

「最初からそのつもりですよ」

 やはり、晴明の声音は優しくまどかの鼓膜を震わせた。

 かくして、まどかは正式に晴明の弟子となる。晴明とまどかが視線を交わすなか、黒雲が苦い顔をしていることに、皇子だけが気づいた。


 そもそも、まどかが未来の人間だと――皇子の暗殺の疑惑を晴らすために、まどかはこれを皇子に見せる予定だった。

「うわっ、こちらに向けるな」

「皇子さま、写真が怖いのですか?」

「しゃしん? なんだそれは!」

 まどかのポケットにしまわれていたスマホは、なんら役に立たなかった。これを見せればまどかが未来の人間だと信じてもらえるとまどかは踏んだのだが、そううまく話は進まない。

「奇っ怪なものを俺に向けるな」

「皇子さまって、存外怖がりなんですね」

 フフッと笑ってまどかは携帯を懐にしまった。もうまもなく、スマホの電源は落ちる。ならば、せっかくなので、記念に写真を撮ろうと思ったのだ。

 しかし、皇子もあの晴明ですら気後れしていたため、まどかはそれをあきらめた。

「まどかどの。それでは、料理番の合間に、わたしがこちらに出向きますので。それで陰陽術をお教えしましょう」

「はい。よろしくお願いします!」

 弾んだまどかの返事に、晴明はやや違和感を感じた。

 まどかが暴走するに至った理由を知っているだけに、眠っている間にどのような心境の変化があったのか、晴明は不安を感じた。

「晴明さん、私になにかついてます?」

「いえ……まどかどのは、なにゆえ巫女になろうと?」

 晴明の不安をよそに、まどかは優しく、まるで悟ったかのように笑った。

「私は私です。いざなみじゃない。それに、誰かひとりでも私を信じてくれるひとがいるなら。私は耐えられます」

 まるで、先ほどの会話を聞いていたかのような物言いに、さしもの晴明も肝を抜かす。

 もしかしたら、まどかにはすべてお見通しなのだろうか。

 あり得ない話ではない。まどかは巫女だ。しかも特別な。

 ならば、余計な詮索はやめよう。

「はい。わたしはまどかどのを信じています」

「ありがとうございます。晴明さん」

 ふっと場の空気が和んだ。

 かに思えた。

 バン!

 っと空気が爆ぜた。その瞬間に、四人が四人、その音の主を向き直る。

 御殿の門が破られ燃えて、その先には見たこともない化け物――おそらく九十九神だ――がごうごうと音をたてながらこちらを見ている。

 かと思えば、一瞬で九十九神はこちらに移動して、まどかは構える余裕すらなかった。

「下がって!」

 対して、晴明はすぐさま結界を張り、黒雲ですら、式神を顕現し、臨戦態勢をとっている。

 まるで大人と赤子の差がある。

 まどかと晴明、黒雲の間には、天と地ほどの経験値の差があると、まどかは改めて思い知らされた。

 黒雲が舞う。

 まるで舞いを舞うかのような身のこなしで、九十九神の攻撃をいなしていく。

 それに合わせるように晴明が呪符を投げ、九十九神をけん制している。しかし、どれも決定打にはならない。

「あ、あ……」

「怖気づいたか?」

 おろおろするまどかに、後ろにいる皇子はややとげのあるもの言いだ。

 まどかの足は震えている。どうすればいいのか全く見当がつかない。なにより、九十九神に対峙する黒雲も晴明も、まどかごときでは足元にも及ばない、今出ていけば邪魔になるだけだということは痛いほどにわかる。わかるだけに、まどかは動けない。

「まどかどの! そこを動かないで!」

 まどかの揺れる心を察したのか、晴明が叫んだ。とたん、まどかの足は本当に動かなくなるものだから、きっとこれが諱(いみな)の効力なのだとまどかは思う。

 いや、思いたかっただけだ。

 足が動かないのは、まどかが恐怖しているからだ。あの化け物に自分はかなわない。殺されるのが怖い。

 あさましいと思う。黒雲や晴明があれほど必死になって自分たちを守ろうとしているのに、自分は自分の命の心配ばかりだ。

 だからといって、まどかになにかができるはずもなく、晴明は呪符を何枚も九十九神に向かって投げ、晴明の式神たちが、黒雲の式神たちが、無残にも食い殺されていく。

「ぐおぉ!」

 昂るものを抑えきれないのか、九十九神がないた。その声は仰々しく、まどかの戦意をそぐには十分すぎるほどだった。

「くそ、オマエ、本当に巫女なのか?」

 皇子が口惜しそうにまどかに言う。その間にも、黒雲が新しい式神を顕現し、晴明は九十九神が振り回す両手をぎりぎりで避ける。

 おかしい。

 先日の餓鬼の件で、まどかは餓鬼を呪符に封印することができた。封印した餓鬼は、自分の式神として使えるようになるのだという。だとしたら、晴明ほどの霊力を持っていれば、あの九十九神も呪符に封じ込めることは可能ではないのだろうか。

「皇子さま……晴明さんはなんで、呪符に封印しないのですか?」

「ちっ、オマエはそこまでうつけか。……昨日の餓鬼と違って、九十九神を封印できるのは、特別な巫女――オマエだけだ。悔しいが」

「私……? 私が……?」

 だが、まどかにはまるで見当もつかない。なぜどうやってあの九十九神を封印すればいいのか、まどかにはまるでわからなかった。

 わからないなりに、考える。

 あの九十九神を封印するには、呪符が必要に違いない。だが、呪符など、まどかが持っているはずもない。

 晴明からもらうとしても、今この戦況で、晴明からそれを受け取るすべなど残されていない。

 だがしかし、まどかが戦線に立たなければ、九十九神は晴明を、黒雲を殺し、やがてまどかも皇子の命すら危うくなるだろう。

「皇子さま、私に本当にそのような力があるんですね?」

「知らん。晴明が言うには、そうらしい」

 ぐおおお、っと九十九神が叫ぶと、びりりりりっとまどかの体に電気が走った。すごい霊力だ。昨日の餓鬼なんて目じゃないほどに。そしておそらく、晴明の霊力と同じか、あるいはそれ以上の圧力に、まどかの足がすくむ。

 すうっと目を閉じる。

 諱を呼ばれた。だからまどかはこの結界のなかから出られない、動けない。そのはず。

 そう、そのはずだった。

 まどかの足が動く。一歩、二歩三歩!

 駆け出した足は、迷うことなく晴明たちのもとへと動いた。

「まどかどの! 来てはなりません!」

「……! 足手まといになるのがおちでしょうに!」

 晴明の心配の声と、黒雲の焦る声。しかし、まどかにはどちらも届かない。

 自分しかこの状況を変えられないというのなら、動かずにはいられなかった。

 それは、まどかにまだ現実味が持てなかったからかもしれないし、単純にふたりを救いたかったからかもしれない。

 どちらにせよ、まどかの足は動いた。

 そして、たどり着いた。

 九十九神の真ん前まで。

 九十九神がまどかを見下ろし、ふううっと息を吐き出す。

 九十九神も本能でわかるようだ。真の敵がまどかであることに。

「まどかどの! 避けろ!」

 すくんだ足は、やはり晴明たちのように俊敏には動かなかった。九十九神がまどかを薙ぎ払わんと振り出した右手を、まどかは避けた。正確には、晴明がまどかを諱で呼んだため、まどかの体が勝手に動いた。

 晴明の言葉には霊力が宿る。言霊というものだ。その言霊で諱を呼ばれたものは、言葉の主の言葉に逆らえなくなる。むろんこれは、現時点において晴明の霊力がまどかを上回るからできた芸当であって、今後も同じようにまどかを支配できるとも限らない。

「は、はぁ、はっ、」

 間一髪のところで攻撃を避けて、まどかの息は緊張から上がった。

 死ぬところだった、死ぬ。死。

 そう思ったところで、まどかは急に怖くなった。一気に現実味が帯びてきて、ここにきてまどかは初めて、はっきりと思った。

 死にたくない。

 そうして、それに呼応するかのように、まどかの霊力が徐々に徐々に上がっていくのを、晴明だけが感じ取った。

「まどかどの! 集中して!」

 集中、集中。

 まどかは晴明の言葉を心の中で反芻する。そして目を閉じ、深呼吸する。一回、二回。

 深呼吸する間に、まどかは九十九神が振りかざした右手と左手を、すうっと音もなく交わした。

 見える。

 目を閉じると、ほかの感覚が研ぎ澄まされた。まどかを取り囲む、霊力だ。

 ひとつは晴明のもの、もうひとつは黒雲のもの。そしてひときわ大きく邪悪なもの、それが九十九神のものである。

 ふうっと息を吐き出した時、まどかの懐でなにかが震えた。

「なに……?」

 目を開け、まどかは自身の懐にあるそれを取り出した。

 スマホだ。

 先ほどふざけ半分で持ってきたスマホの画面が起動している。

『ボタンを押してください』

 起動されたのはカメラ機能である。しかし、カメラ機能とは少し違う、画面には『九十九神』の文字が浮かんでいる。

 つまり、このカメラで九十九神の写真を撮れということだろうか。

 なにがなんだかわからない。わからないのだが、まどかは九十九神に向かってスマホをかざした。

 黒雲が舞う、晴明が呪符で九十九神の動きを抑える。

 まどかはそうして、スマホの丸いボタンを押す。画面内に九十九神をしっかりと収めて。

 カシャリ。

 その音とともに、九十九神がけたたましい声を上げる。

「ぎぃい!」

 そしてそのまま、九十九神がまどかのスマホに吸い込まれていく。

 まどかはもちろん、皇子も黒雲も、あの晴明ですら、驚き呆けることしかできなかった。

 ぴこん。とスマホがなる。まどかのスマホの写真フォルダに『封』の文字が浮かび上がる。そのなかに、先ほどの九十九神の画像が保存された。

「なに……これ……?」

 画面に映る九十九神を見て、まどかは首をかしげるばかりだ。まどかだけではない。晴明も、黒雲も、あの皇子でさえ、なにが起きたかわからないようだ。

 みな、各々にまどかに走りよる。そうして、まどかのスマホを覗き込んで、ほうっと息を吐き出した。

「これが、『スマホ』の力なのか……?」

「違います。スマホはただの機械のはず……」

「機械?」

 皇子の言葉に、しかし晴明ははっとしたように、

「おそらくですが。その『スマホ』というものが、まどかどのの霊力に干渉を受けてしまったのかもしれません」

 晴明の言葉に、まどかは疑問を抱く。まどか自身、あの鳥居を潜り抜けるまで、霊力やそのたぐいは一切持っていなかった。つまり、あの鳥居にはなんらかの霊的干渉をもたらす仕組みがあるのかもしれない。

「晴明さん。今更なんですけど、あの鳥居ってなんだったんですか」

「ああ、あれはね。貴女をこちらに呼び寄せるために私が作った結界のようなものです」

「じゃあ、あれを潜ると霊力が与えられるとか、そういうことなんですか?」

「……それは少し違いますね。まどかどのが霊力を得たのは、霊力がある時代に召喚されたからであって、わたしの鳥居とは無関係です」

 ややこしい話だ。

 つまり、まどかの時代には霊力が存在しなかったからまどかには霊力が使えなかっただけで、潜在的にまどかには霊力が備わっていた。

 それゆえ、霊力や九十九神が存在する平安に呼び出されたまどかは、その力を使えるようになった。

 ということでいいのだろうか。

「晴明さま。今日はともかく。その巫女の体を清めましょう」

 黒雲がまどかを見る。まどかの服は一切汚れていないが、なるほどどうして、まどかにびっちりこびりついた九十九神の霊力に、まどか自身も風呂に入れるのならばと黒雲の言葉を了承した。


 風呂からあがったまどかは、まずなにより先に髪を黒く染めねばと思った。

「晴明さん。黒檀はありますか?」

「はい、ありますよ」

 それを聞いていた黒雲は、少しだけ表情を曇らせた。

「アナタはアナタなのですから、髪の色をどうこうする必要はないのでは?」

 まるで、そのままのまどかを受け入れるような言いかたに、まどかは黒雲を見る。目を真ん丸にするまどかがおかしかったのか、黒雲がふわっと笑った。年相応のそれである。

「黒雲さんが言うなら、そうしようかな……」

 嬉しさと気恥ずかしさの混じった言葉だ。

 端から見ていた晴明はふたりに気づかれぬよう、微笑を浮かべた。

 いい意味で黒雲はまどかに刺激を受けたようだ。今までは、人形のように表情を変えず、ただ晴明に従うばかりだった。そんな黒雲を、晴明は案じていた。

「晴明。黒雲は最近変わったか?」

 黒雲を案じてかまどかを案じてか、晴明の屋敷についてきていた皇子にも黒雲の変化は明らかなようだ。

 不服そうな、だけれど嬉しそうな声が、晴明に向けられた。

「まどかどのの影響でしょう」

「アイツの?」

「ええ。好敵手とも、姉とも同志ともつかない関係でしょうか」

「なんだそれ。訳がわからん」

 皇子にはにわかに信じがたい。それは黒雲自身もそうであるに違いない。

 知らず知らずまどかのペースに巻き込まれていることに、黒雲自身も気づいていない。

「それはそうと」

 黒雲とまどかの間に、皇子が割って入る。黒雲は恐縮しこうべを垂れたが、まどかは何食わぬ顔である。

 まどかのこういう、肝の据わった部分が、黒雲には理解できない。だが、それがまどかがまどかたるゆえんなのだとも思う。

 それは皇子も同じようで、もはやまどかに無礼を叱責する気もない。

「夕餉の時間だ」

「あっ。そうでしたね」

 まどかは晴明を見やる。

「キッチン――厨を借りても大丈夫ですか?」

「はい。大したものはないのですが」

 それにしても。

 朝食は十一時、夕食は十六時といったところだろうか。

 本来ならば貴族の朝は四時、五時から始まるのだという。今日は先日の事件もあり、皇子の朝は遅かった。

 明日から、平安時代のタイムスケジュールに体をあわせられるのだろうか。

「少しだけお待ちくださいね」

 まどかが厨に歩くと、黒雲もまた、まどかのあとについて歩く。

「黒雲さん?」

「皇子さまのためです。皇子さまをお待たせするわけにはいきませんから」

 素直でないだけで、黒雲はとても優しい子なのではと、まどかはそんなことを思いながら、黒雲に笑いかけた。

 

 夕餉のメニューは、焼いた魚と固粥、それから味噌汁風のわかめのあつものに、野菜のなます。それから、あわびの酒蒸しを添えた。

「あわびとか初めて見ました」

「公家のかたがたが、わたしにわけてくださるのですが、なにぶんわたしでは料理ができなくて」 

 運んだ膳を見て、晴明はほうっと息を吐き出した。

 皇子はすでに箸を持ち、まどかの料理を口に運んでいる。

「コイツの料理は変わった味付けだが、不思議と箸が進む。晴明も食べてみろ」

「ありがとうございます。それでは、いただきます」

 まどかの料理はあらかじめ下味がつけてある。あわびの酒蒸しだって、ちゃんと塩味をつけた。本当はバターソテーにしてもよかったのだが、バターなど手に入るわけもなく、それならばと酒蒸しにした。

 はくはくと皇子が料理を口に運ぶ。それを見て、まどかは気づいた。

「あっ!」

「なんだ?」

「あ、いや……毒味を……」

 すっかり忘れていた。まどかは毒味――鬼食いの役割も与えられている。

 しかし、皇子は箸を運ぶ手を止めないままに、

「黒雲が毒など盛るわけがない」

「そんなに私が信用できませんか」

「そうだな。そういうことになる」

 本当は、理由なんてない。皇子にもわからない。まどかには邪心がない。自分に毒を盛るはずがないと思わせるなにかがある。

 それがなにかはさておいても。

「やはり、オマエの料理の腕だけは確かだな」

「ありがとうございます。栄養もちゃんと考えてるので、体調もよくなるといいんですけど」

「えいよう……?」

 皇子が聞き返す。

「あ。えっと。食べ物は毒にもなり得るということです。バランス――食べ物には調和があって、それが保たれないと体に不調をきたし――」

「もういい。飯が不味くなる。オマエの言うことは半分しかわからん。うまければなんでもいい」

 職業柄、語りたくなるのは悪い癖だ。

 まどかは下座に座りながら、自身が作った料理を口に運ぶ。

 やや塩気の強い魚や、初めて食べるアワビは思いの外おいしくて、自然と頬が緩んでいた。

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