第19話 魅力的な提案

「──ほらほらほらもっと走れー!」


「ち、ちょっと休憩……」


「弱音吐いてる暇があったら走るんだよっ!」


 走る足を止めその場で座り込もうものなら容赦なく木剣による鉄槌が飛んでくる。


 森の中をひたすらランニングするだけのトレーニングだが、もうかれこれ5時間は走りっぱなしだ。


 後ろから脅されながら死ぬ気で走り続けているが、正直心はもう死んでいるも同然に折れている。


 学院に入学するために特訓したいだなんて言った自分を早々に恨む日々を送っている。


 これだけ死ぬ寸前まで追いやられても、稽古中に少しも彼女に触れることすら叶わない。


 本当に学院に彼女のような超人だけしかいないのだとしたら、俺は儚い目標を抱いてしまったのではないかと不安になる。


 止まることはできないため、無我夢中で走り続ける。


 魂はとっくにどこかへ置いてきた。


 虚ろになりながら必死に手を振り走り続ける様は、もはや歩く死人だ。


 ただ本当に死の淵にいる状態なため、唸り声すら出すことはできない。


 一歩、二歩と足を進め、そうして突然足の着地地点を失った。


 踏み込んだ方の足から身体が傾き、この身は宙へ放り出されてしまった。


「あぁぁぁ少年ーーーーっ!!!!!」


 オルンさんの半笑い気味の叫び声が聞こえながら、俺は崖から落ちた。


 ふわりとした浮遊感が妙にあの世であるかのように思わせ、そして頭には極上の枕が当てられた。


「はっ……本当に天国?」


 全身を包み込んでくれるようなベッドに極上の枕、そんなものは天国か上級貴族の最高級寝具しかない。


 本当にベッドがこんな崖から飛び出して宙にあるはずはない。


「──馬鹿なことを言ってるな」


 突然、耳元から悪魔のような天使の囁きが聞こえてきたところで俺の意識は現実へと引き戻された。


「あっ……え、アリシア……?」


「まったく、この私の名を呼び捨てする生意気な奴だ」


 崖から離れた空中でアリシアに抱っこされているという事実に気がついた瞬間、置き去りにしていた魂も気力も全てが戻り、それどころではない焦りが襲ってくる。


 極上の枕だと思っていたのは、間違いなくたった今目の前に見えるアリシアの……その、胸だ。


 俺はそれに顔を埋めて極楽気分で堪能していた。


「や、その……アリシア、違くて。ホントは勘違いをしてて……───」


「騒ぐな、鬱陶しい。このまま地上に降ろしてやるから動かずじっとしていろ」


「…………はい」


 超至近距離からその美貌で睨まれ、命令された。


 しかも前から抱っこをされている状態でだ。


 人生で初めて、ときめきというものを知った。


 無事に崖の下へと着地することができ、俺の背中に回されていたアリシアの腕が解かれた。


 心臓の鼓動がまだうるさく鳴り響いている。


「どうだった少年。アリシア様のおっぱいは極上だっただろう」


「ちょっ………!?」


 アリシアがすぐそこにいる中で、オルンさんが小声でそう言ってきた。


 性を知り始めた頃の思春期の男児のようなテンションでいるオルンさんはちょっと苦手だ。


「おほんっ……あー………えっと、それでアリシアはなんでここに居るんだ?」


 しつこく尋ねてくるオルンさんから逃げるべく、アリシアへ質問をした。


 なぜか崖から落ちた俺を偶然に、そして可憐に抱き止めてくれたアリシアだが、たまたま空中にいたというわけでもないだろう。


 というか、空飛べるのかよ。


「えっ?!……それはだな、その…………何と言うか、あっ、いや………」


 なぜここにいるのか、という単純な質問をしたはずなのだが、どういうわけかモジモジと躊躇っている。


 その姿がとても可愛くて何時間でも見ていられるのだが、言い出す気配がまるでない。


 絶対に言いたくないことなのだろうか。


「『が』…『ん』…『ば』…『れ』…!」


 ついには横でオルンさんが口をパクパクさせてエールを送っている。


 どうやらオルンさんはアリシアがここにいる理由を知っているらしい。


 すると意を決したような顔をしたアリシアが俺の方を向き、長い長い溜めをつくってようやく口を開いた。


「……………その、お前に……魔法を教えてやろうと思うんだが……………………」


 それはもう最高にかわいい照れた表情で、恥ずかしがりながらそう言った。


 脳内で何度も彼女の言葉がリピートされ、その度に心打たれる思いだ。


「おっ……おい、なんとか言え。私の提案を受けるのか受けないのか、どっちだ」


「もちろん受けさせていただきますっ!」


 こんな大変魅力的な提案を断る馬鹿はいない。


 またその提案を受けるまでの過程も最高に魅力的だった。


「っ………そうか。では私は去る──…」


 言い終わるや否や一瞬でこの場から姿を消したアリシア。


「良かったじゃないか少年っ!少年が一緒に学院に入学したいという想いが伝わったんだよきっと」


「はいっ………グスッ、よがっだでず………」


「えっ、なんで泣いてるんだよ……」

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