第21話

 ――しばし、互いの気配を探るような沈黙が続いた。だが目線が外れることもなかった。

 ややあってから狗候は再び口を開く。


「隆虎」

「……ん」


 まだ普段の己を取り繕うのが難しい様子で、しかしどうにか声を作って狗候に答える。


「調子はどうだ。少しは落ち着いたか」

「完璧じゃねーけど、これは薬の方も抜けねーとね。でも呪の方は平気。行ける」

「そうか」


 意識を切り替えるためにか、一旦目を閉じて熱を持ったままの息を吐き出す。それから。


「っし!」


 気合の声と共に立ち上がった。

 やや強引に『常』を振舞う隆虎に、狗候もあえて指摘はしない。応じて相応に振舞うだけだ。


「ならば良い。……しかし、あれは一体どういう呪だったのか。俺とお前でそこまで抵抗力に差があるとも思わんが」

「お。嬉しいこと言ってくれんじゃん。アレはホラ、あれだよ。――俺の方が欲望に負ける要素が強かったってだけで。逢鈴あいりんの方は多分、女に走ると思ってただろうけど」

「成程。仙界を貶めるにも有効だな」


 隆虎が常に女性に対して軽薄であったのは事実だ。逢鈴が鵜呑みにしてもおかしくはない。


「いくら俺だって、何とも思ってねー相手への欲望ぐらいは抑えるって。ただ、兄貴にはな。感情があったから飲まれた。未熟だったせいで酷ェことしたのに言い訳はしねえ」


 狗候くこうがずっと正気だったからこそ、隆虎の罪悪感は増したことだろう。


「気にするな。お前を戦力として使うためにした判断だ。殴って気絶でもさせた方が、お前には良かったのだろう。ゆえに、俺が選んだ手段でもある。お前の咎ではない」


 それもまた事実だ。

 そして狗候を被害者にして隆虎が己を責めれば、狗候もまた隆虎にそうさせた己を責める。


「言ったはずだ。お前を救うに差し出すには、容易いものだと」

「……分かった。もう言わねえ」

「よし。だが、役目は果たせ。気合を入れろ!」

「おー。犬寿のことも心配だし、行くとしますか」




「う……っ!」

「お……!」


 邪気が強まる方へと駆け、宮殿の外――町へと出た狗候と隆虎は揃って足を止め、小さく呻く。

 大きな都であれば許容範囲内であったはずの邪気が、膨れ上がって充満している。それらが流れてくるのはもっと先、町の外れの方だった。


「急ぐぞ」

「おう」


 正と負。相反する気の只中に踏み込むのは己を傷付けるのと同義。自らの気の流れを制御して周囲の邪気からの干渉をはねのけつつ、進む。


「――大兄!」


 ややあって都の外れの一角。建物さえ崩れかけ、荒廃した雰囲気の漂う場所で犬寿けんじゅと合流する。


「どういう状況だ。逢鈴は」

「あの、邪気の中心に」


 黒い靄のような形で具現化した邪気は、近付くだけで心身を蝕みそうな穢れで満ちている。


「マジか。もう生きてねえんじゃねえの」

「これはもう、逢鈴が用意しただけの量ではないな」


 町中の邪気をかき集め、凝らせて増幅させた。そんな気配だ。


「私の呪力では滅するどころか完全に押さえることもできず。申し訳ありません」

「人でしかなくなったお前に荷が重いのは当然だ。そのために我ら仙界があるのだ。任せろ」

「……申し訳ありません」


 この事態を招いた当事者の一人として、犬寿は詫びた。

 擁護はしない。代わりに狗候は前を見据えて足を踏み出す。

 纏う呪力の防御だけでは心許なく思い、小範囲を守護するための印を切って影響を避ける。犬寿と隆虎からほっとした息がつかれた。


「犬寿はともかく……隆虎」

「俺術は苦手なんだってェー。でも帰ったら努力します、うん」

「そうしろ」


 ここで責めても急にできるようになったりはしないので。

 視界さえも遮る黒い靄の中を進むと、かつては広場だったのか、少し開けた空間に出た。

 その中央に、逢鈴がいる。


「逢鈴!」

「……もう来てしまったの」


 声を荒げて名を呼べば、逢鈴は嫌そうに振り向いた。


「観念しろ!」

「ほほ……っ。何を観念しろというのかしら」


 逢鈴は笑う。その態度にはまだ余裕があった。そして袖口から一本の簪を取り出す。

 銀細工に翡翠の石で飾られた見事な品だ。品物は見事であるが、美しさはまったく感じられない。ただひたすらに禍々しい。


「それは……」

「愚か者ども。お前たちが気が付けたのは、もうとっくに手遅れになった後だったのよ」


 吐き捨て、高らかに哄笑を響かせると、逢鈴は簪を地に突き刺した。

 未熟ながらも磨かれた仙女の呪力が、集まった邪気に力と、明確な形を与える。

 簪という呪具で繋がった呪いが大きく大地が脈打たせ、胎動を告げた。


「兄貴!」

「ちィッ!」


 やや切羽詰まった声を上げた隆虎にうなずき、舌打ちをしてから狗侯は広場から大きく下がる。


「ほほっ。ほほほほほっ」


 笑う逢鈴の足元で、大地はうねり、隆起する。簪から流れ込んだ邪気が地面を根のように走り、歪んだ気を支えに、土を器に一つの形を伴って動き出す。

 それは、巨大な蛇だった。

 色は剥き出しの土のままだが、全身に走る邪気がドク、ドク、と一呼吸ほどごとに脈打つ。赤黒い光を明滅させるその様は、まるで濁った血管が浮き上がっているように見える。


「なんと……醜悪な」


 思わず、顔をしかめて狗候は呻く。

 その様を蛇の背に座った逢鈴が見下ろし、鼻で笑った。


「お前たちも同じでしょう」

「何だと?」


 聞き捨てならない言い様だった。あまりの不愉快さに自然、声音が一層の険を帯びる。

 だが言い放った逢鈴の方も、狗侯と同じぐらいに忌々しそうな顔をしていた。心の底からの表情だ。


「獣神将だ何だと言ったところで、お前たちだって人間でしょう」

「……」


 逢鈴の言葉を、誰も否定しなかった。それは事実だ。だが醜悪であることとは結び付かない。

 彼女の主張に戸惑いを覚える。

 無視をしても良かったのかもしれない。だが逢鈴は間違いなく、本気で狗候たちを蔑んでいる。

 その理由を、意志を、軽んじてはいけない気がした。


「それがどうした?」


 華仙界の主である煌天君こうてんくんも、ただの一人の人間だった。ただ彼は、己が異質な人間であることを知っていた。そして己と同じ存在が、少なからずこの世に存在するのだとも。


 ――その時代に、秩序はなかった。


 暴力がすべてを支配し、また暴力によって奪われ、奪い返される。力のない者はただ蹂躙されるしかなかった。

 故に煌天君は立ち上がり、自分たちにこそ戒めを布いた。力は管理され、法と秩序を得て、人界と仙界という境界を作ることで平穏を手にしたのだ。

 人だが、違う。それは互いに認めなくてはならないことだった。


「同じでしかないただの人間が……どうして支配者面をしているの」

「本気で言っているのか。呪力を持った時点で、もう人は人ではない」

「人だったのよ!」


 金切り声を上げて、逢鈴は叫ぶ。


「わたしは人だった! 父も母も、友人も恋人もいた! 夢だってあった! 力を使ってどうしようだなんて、考えたこともない! ただ、ただ普通に生きていたかったのに――……」


 顔を手で覆い、逢鈴は声を詰まらせる。


「お前たちが、全てを奪った」


 そして低く、怨嗟を口にした。

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