第20話
「はい」
そして逢鈴によって煽られた彼女は、自分の美貌のためにすぐにも暴挙を行うつもりでいたようだ。
直前の貴晶が求めたものを思い出して、
「犬寿よ、一つ聞く。お前は侍女の求める薬を公主に処方したのか」
「いいえ」
はっきりと、犬寿は首を横に振った。
「公主に気付かれれば、
「そうか」
少しほっとしたように、狗侯はうなずく。
「私が公主に施したのは、すべて人界で成せる薬と健康法。それだけで、十分公主は美しい方だと思っています」
「ま、そういう問題じゃねーんだろうけど」
「はい」
先程の、貴晶の常軌を逸した叫びの内容を聞けば分かる。貴晶が求めているのは、誰をも平伏させる、暴力のような美貌なのだ。
現実的に考えて、そんなものがあり得るはずがない。
(それもあの、逢鈴という侍女に誘導されてのことか)
目的は不可解だ。何より、やり方が不愉快だ。
(何にしても、今日で終わりだ。すぐに思い知らせてくれよう)
逢鈴もさすがに、今日ここで狗侯たちが立ち聞きしていたとは思わないだろう。その分、一歩速く動くことができる。
しかし余裕もない。貴晶と逢鈴は、明日にでも邪術のための新しい生贄を用意するつもりだ。
だがもう一つ不可解な点がある。
「逢鈴は邪法が施されていないと気付かなかったのか?」
術の痕跡を犬寿が上手く捏造したとも考えられる。逢鈴と犬寿の間には歴然の力量差があるので不可能ではない、ように思える。
ただ、思った効果が表れないことだけは誤魔化しようがない。
「……分かりません。私の方から問うこともできませんし」
「そうだな」
偽りを処方していると、わざわざ申告することになってしまう。
「何にしても、やるべきことは変わらんか。時間を取らせた。行くとしよう」
「おーよ」
返って来たのは軽い返事。
彼らにとっては幾度もこなしてきた仕事の一つ。特別な事ではない。
ただし起こっていることは都度別件。そこに油断があってはならない。
己の心を戒め、狗候は前を見据えて足を進めた。
夜はすっかり更けている。
邪念に侵された地上から仰ぎ見ても、月の光は変わらず美しく降り注ぐ。
公主に与えられている宮殿に仕える使用人たちも多くが眠りにつき、辺りは静まり返っていた。
敷地内に踏み込もうとして――気が付き、狗侯は鼻を鳴らす。
「結界か」
つまらなさそうに呟くと腰に佩いた剣を抜き、軽く一振りする。それだけでほろりと崩れた結界は、侵入に何の妨げも起こさなくなる。
「拙い」
「そりゃ、修業中の仙女見習いだからね。兄貴と比べちゃあね」
苦笑しつつ
――静かだ。
「出てこないな」
恐れるつもりも必要もないので、狗侯は相手に悟られない訳がない、乱暴なやり方で結界を破った。当然、逢鈴が姿を見せるかと思ったのだが――出てこない。
「まさか、逃げたとか?」
「まさか」
結界が破られたから逃げたというのなら、狗侯はその気配を察知できたはずだ。そして、それ以前に逢鈴が逃げ出す理由はない。
(俺たちに怯えていた、というのならともかくだが)
怯えるどころか、挑戦的だった。
「まァいーや。行こうぜ」
「そうだな」
建物の中に足を踏み入れると、奥から歪んだ邪術の気配がした。
まさに今、新たな邪術が成されようとしているのだ。
そうと気付いた瞬間、狗侯は走り出した。隆虎、犬寿もそれに続く。
離宮の奥の、さらに離れ。気配の発生源はそこだった。
――人心よ、穢れよ
人界よ、呪われよ
人道よ、禍となれ――
朱色に塗られた扉の向こう、禍歌を口ずさみながら、逢鈴が嫋やかに踊る。腕に纏った薄布が翻り、ヒラリ、ヒラリと蝶のように舞う。
舞手の技量は卓越していて、ただの舞踊であれば称賛されるに相応しい。
だからこそ、余計に禍々しい。
「そこまでだ! 即刻、呪詛を取りやめろ!」
狗侯が怒鳴ると、逢鈴はたった今侵入者たちの存在に気が付いたかのように驚いた顔をして、舞を止めた。
「まあ……。皆様、お揃いで。しかしいくら薬師、いくら獣神将とは言っても、こんな夜深くに殿方が女性の住処を徘徊するだなんて、非常識ではありませんか」
「貴様が常識を語るな!」
白々しく非難をしてきた逢鈴へと、狗侯は怒鳴る。
「邪法を用いて世を乱す、大罪人が!」
「まあ……」
袖を持ち上げ口元を隠し、逢鈴は目を伏せる。その声は、どこか楽し気だった。
待ちに待った瞬間が訪れた、そんな歓喜を滲ませる。
「わたくしが大罪人であるというのなら、その大罪人を作り出す仙界という場所は何なのかしら。罪人養成場とでも呼ぶべきでしょうね?」
「ふざけるな。罪人となったのは、貴様の性根が腐っていただけだろう!」
「なんと……傲慢な」
逢鈴は表情こそ変えなかったが、その声が僅かに震えた。
「わたくしの性根が腐っているというのならば……腐らせたのはお前たちです」
「この期に及んで、まだ責任から逃れようというのか。どこまでも――」
「ねえ、犬寿」
狗侯の言葉など聞くに値しないとでも言うように、逢鈴は途中で他所を向く。そして犬寿へと呼びかけた。
「おかしいわ。仙界という場所は、とてもおかしい。犬寿、貴方もそう思うでしょう?」
「君の気持ちは分かる。私も、君と同じ罪人だから」
「犬寿!」
逢鈴に同調するよう内容を口にした犬寿を、狗侯は怒鳴りつける。逢鈴はそれをうるさそうに一瞥して。
「ならば、わたくしと共に行きましょう」
「それはできない」
だが誘いはきっぱりと、迷いなく断った。
「……何ですって?」
同じだと認めながらも拒絶された逢鈴は、信じ難い、という様子で眉を寄せた。
「私と君は同種の罪人だが、認識は違う。私は仙界の在りようがおかしいとまでは思っていない。仙界は正しい。しかしもう少し、心に優しくてもいいのではないか、とは思っているが」
「何て……生温い」
顔をしかめ、逢鈴は犬寿を侮蔑の目で見た。
「己の罪業に他者を引き入れようだなどと、往生際の悪い。観念しろ。仙女崩れ風情が、獣神将に抗えると思うな」
腰から剣を引き抜き、突き付けながら狗侯が言うと――
「……ふん」
忌々しそうに逢鈴は鼻で笑う。そして、たんっ、とその場で足を踏み鳴らした。
下にいる『もの』への合図だったのだろう。応じて床板が盛り上がり、地下で何かが蠢動して移動を始める。
「もう少し蓄えたかったのだけど……。まあ、良いでしょう。最後の仕上げを行ってしまうことにします」
「!」
足元で蠢く邪気に気を取られた一瞬、逢鈴が袂から取り出した何かの粉末を扇で仰いだ風に乗せて広げる。
術を使って指向性を与えられた風は部屋中に粉末をばらまき、狗候たちの元にまで届く。
鼻と口を抑えて飛びのき、影響範囲から逃れる――が、僅かに吸った。
(何だ。何をした。影響は……)
自分の身体を巡る気をざっと探って、理解する。
(強制的な高揚を感じる。催淫剤の類か。下らん)
薬物に呪いを加えて効果を増させたそれを、逆に己の呪力で捻じ伏せる。吸った量を抑えたことも幸いしただろう。
疼く部分はあるが、意志を強く持てば無視ができる程度。
狗候が改めて逢鈴へと意識を向け直したところに。
「う……ッ」
「隆虎!?」
おそらく狗候と同程度にしか浴びなかっただろう隆虎が、呻いて膝を突く。
「ほほ。せいぜい本能に弄ばれなさい、獣よ」
身を翻して逢鈴は駆け去る。
追うか、隆虎の状態を確かめるのが先か――僅かに逡巡してから、狗候は後ろを振り返った。
「犬寿、追え!」
「承知」
証を失おうとも、獣神将として勤めた年月の研磨は変わらない。仙女崩れに後れを取ることはあるまい、と判断する。
そして自分自身は隆虎の傍らに膝を突いた。
「どうした。相性が悪かったか」
「俺、は。何とかするから。兄貴は離れろ、すぐに!」
荒くなる呼気を抑え付け、切れ切れに訴える。
狗候と隆虎はほぼ同じ存在ではあるが、宿す獣性によって若干の差はある。狗候に効果が薄いからと言って、隆虎も同様であるとは限らない。
「下らんことを言っている余裕があるなら、報告しろ!」
隆虎から聞き出す時間を惜しく思い、手を伸ばす。体温が高い。
(発熱している。抵抗は出来ているか。それとも)
「!?」
気の乱れがどこに起因しているのか、さらに注意深く探ろうと集中しようとしたところで、手首を掴まれた。
「隆……んっ!」
引き寄せられた、と認識するとほぼ同時に、口付けられる。
「ちょっと、無理かも。だから」
本能を揺さぶる類の術は、抗うのが難しい。直接呪うのではなく、呪いをかけた薬を体内に直接送り込んだことも逢鈴を有利にした。
(賭けであったはずだが、上手くやられた)
そうでもしなければ己の技術で獣神将を害することなどできないと、逢鈴が分かっていたからかもしれないが。
「自覚があるなら問題ない」
己を押しのけようとする隆虎の肩を掴み、狗候は再び、今度は自分から口付けた。
「!」
「その乱れた気、俺が直接整えてやる。覚悟を決めろ」
「はッ!? いや、覚悟って」
「心配するな。お前を救うのに必要とあらば容易き事」
「……分かってっけど。そーゆー兄貴だから、離れてほしかったんだけどな」
無念そうに情けない表情で笑みを作って、隆虎は狗候に体重をかけて押し倒す。
「……だから、多分煌天君も。ああ、そっか。だから俺を同行させたのか畜生。本当に兄貴以外には容赦ねえよなあの野郎」
「煌様? 何だ?」
「あー、何でもね」
苛立ちを滲ませた息を付き、再度口付けを交わす。
狗候が取ろうとしているのは逢鈴と同じ手段だ。舌を絡めつつ、歪んだ気を強引に己の気と共鳴させて流れを正そうと試みる。
(あの程度の呪で生じた影響など、すぐに正してくれる)
手を伸ばして直接隆虎の肌――両頬を包むように触れる。乱れて歪んだ気の流れを受け止めて、緩やかに修正をかけていく。
「……よし」
やはり近しい存在だからか。上手く共鳴できそうだ。確信を得て、離した唇が笑みを浮かべる。
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