第18話

「綺麗……」


 どこか、ほっとしたような貴晶きしょうの呟き。


「ええ、大変お美しゅうございます」

「ねえ、逢鈴あいりん。それならばもう良いかしら。お祖母様も亡くなってしまったし、これ以上は……っきゃあ!」


 気弱げに貴晶が何かを逢鈴に訴えかけようとしたところで、急に強い風が吹き、木々を、水面を揺らした。


(今のは、呪力!?)


 吹いた一陣の風には、自分でも隆虎りゅうこでもない呪力が混ざっていた。


(それも、未熟ながらも練磨を感じる。術として成立していたと言っていい)


 なぜ地上で呪力を使いこなしている者がいるのか。狗侯くこうがそれに動揺していると――


「いやああぁぁぁっ!」


 絹を裂くような貴晶の激しい悲鳴が静かな庭園に谺した。


(!?)


 これまで貴晶が声を荒げたところを見たことがなかったのもあり、そちらも驚く。


「嫌よ! 嫌ぁ! 醜い……っ! 凄く醜かったわ!! あぁっ、あ、あぁぁぁああ……」


 見れば貴晶は蹲り、自らの顔に爪を立てて泣いていた。呼吸の仕方さえ忘れたかのように、喉を抑えてえずき始める。


「あぁ、姫。どうか落ち着いて」

「嫌、嫌ぁ……。美しくないといけないの。わたくしは美しくないと……。他には何もないのに。兄様や姉様や、父様母様に、わたくしなんかいらないって言われてしまう……」

「ええ、そうですね」

(!?)


 聞いた瞬間、狗候は自分の耳を疑った。

 優しい微笑を浮かべたまま、逢鈴は貴晶の慟哭に同意しのだ。


(何を言っている)


 貴晶の思考はあまりにも偏っていて危うい。侍女であれば共感を示して宥め、しかし否定をするべきではないのだろうか。

 宥めるどころかさらに恐慌をきたしそうな肯定を口にしつつ、逢鈴はそっと貴晶の背を撫でる。


「どうやら姫の美貌はまだ、風の精霊たちには通じないようですね」

「うぅ……!」


 風という自然現象を個人の美醜でどうにかしようなどと、無茶苦茶なことを言う。

 貴晶はおそらく本気だ。しかし唆している逢鈴の薄ら笑いは、それが叶わないことを理解している。

 そして狗候たちにはもう一つ、無視できない事実があった。


「兄貴、今の」

「ああ」


 これだけ近くにいて、獣神将である二人が気付かないはずもない。


「あの侍女の娘。仙女だ」

「だな。呪力は粗雑で見れたもんじゃねー練度の低さだけど」


 だが術として意図通りに発動させるだけの技術は修めている。

 天性の才覚の持ち主である可能性もあるが、限りなく低い。練度の低さや体内の呪力量から、何者かに師事をして技術を身に着けたと考えた方が自然だろう。


 そもそも、地上に呪力を持つ者がいる方がおかしいのだ。

 稀に呪力を持って生まれてくる人間はいる。だが力を発現させた瞬間、仙界はその者を招く。人ならざる力で人界を乱させぬために。


(仙女がなぜ、人間界で侍女などを……)


 力量に如何によらず、仙界に所属した者が不要に人界と関わるのは禁じられている。未熟な術者であっても、只人には十分な脅威となるためだ。


「姫、お分かりですね」

「ええ」


 ひゅっ、ひゅっ、と短い呼吸を繰り返し、ぶるぶると大きく体を震わせながら、貴晶はほんの僅かに首を縦に振る。疲弊した彼女の、精一杯の主張だ。


「もっと、美しくならなければいけないわ」

「そのために、何をすべきかお分かりですね?」

「沢山の人間の魂がいる」

「ええ、その通りです」


 昏い光をぬらりと宿らせた貴晶の瞳に、もう迷いはなかった。


「早速、贄を用意して頂戴」

「承知いたしました」

「――ああ、でも、逢鈴。顕寿けんじゅが言うことを聞くかしら」

「ご心配なく、姫」


 自信たっぷりに、逢鈴は言い切った。

 元とはいえ、犬寿けんじゅは獣神将だ。仙女のなりそこない程度の半端な術者に御せるような相手ではない。

 ただしそれは、単純な実力で語るのであればだ。

 狗侯は逢鈴のその自信が、ただの過信だとは思わなかった。


(犬寿を言いなりにさせる力は、逢鈴にはないはず。だがあの自信は偽りでもない。目的を達するための手段への確信があるのだ)


 力以外で犬寿を従わせることのできる、何か。


「あ、なんか俺、想像ついたかも……」

「何?」


 嫌そうな顔で隆虎が呟く。狗侯がその呟きを拾って振り返るのと、逢鈴が袖を探って手の平に乗る大きさの小箱を取り出したのは、同時。


「逢鈴、それは……?」

「皇太后陛下の魂です」

「え!?」


 うっそりと、暗い笑みを浮かべて言った逢鈴に貴晶は驚き――続いて、顔を輝かせた。嬉しそうに。


「凄いわ、逢鈴!」

「ありがとうございます」

「顕寿はお祖母様のためになら何でもやるものね。あぁ、でも」


 言葉の途中で貴晶は顔をしかめる。気付きたくないことに気が付いてしまった様子で。


「そうよ、そうだったわ。顕寿はわたくしに従わない。わたくしの美しさがまだ足りない証ね」

「然様にございます、姫」

「今滞在している獣神将の二人もそうだったわ。ねえ、逢鈴。もっと美しくなれば、彼らもわたくしの虜になるかしら? それとも獣神将には……仙界の者には通じないのかしら」

「あぁ、何を仰るのです、姫!」


 過剰な驚き様を交えて、逢鈴は嘆く。


「そのような事を仰ってはいけません。姫は姫に与えられたたその武器を、何者よりも強くしなくては。仙界が如何ほどのものでありましょう。さあ、美しさをお望みください。誰もが貴女に傅くまで、その美貌を磨くのです!」

「ええ、そうね……。わたしには、これしかない……」


 言いながら、貴晶はそっと自分の顔を撫でる。不安に押し潰されそうなほど弱々しく。


「戻りましょう、逢鈴。もう休まなくちゃ。夜更かしも美貌によくないわ」

「はい、姫」


 逢鈴は恭しくうなずき、貴晶に付いて庭を後にした。

 その場に残されたのは、狗侯と隆虎、そして――


「犬寿。なぜ隠れる」

「大兄から隠れていた訳ではありませんが」


 言いながら、少し離れた茂みから犬寿が姿を見せた。

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