第17話

「兄貴は気に食わねーだろうけどさ。ただ、考えるだけは考えてほしいなと……」

「違う。俺が気に食わないのはお前の態度だ」


 獣神将であることに誇りを持ち、煌天君こうてんくんを敬愛する狗侯くこうにとって同士の裏切りなど考えたくない話であることは確かだった。

 だが自分の信念の話はともかく、可能性があるなら考慮するべきだという理性ぐらいはある。

 だというのに、指摘した本人の方がさも重要でもないかのようにへらりと笑う。


「お前は犬寿けんじゅの裏切りの可能性を、まだ捨てるべきではないと考えたのだろう。俺もその必要性はあると思った。お前は正しい。なのに、なぜそんなヘラヘラした態度を取る」


 堂々と言えばいい、と狗侯は真正面から隆虎を見詰めて言い切った。口にした通り、己の願望に反した相手の言葉を受け入れる覚悟を持って。


「……」


 作り笑いを止め、隆虎りゅうこはじっと狗侯を見つめた。そこにある感情の本音を暴こうというように。

 そしてややあって、作った物とは違う笑みを浮かべた。眩しそうに。


「何だ」

「兄貴ってさー、本当、上司気質だよな」

「そんなものがあるのか」

「俺はあると思うね。適正ってやつ」

「……まあ、適正は必要だし、俺にも無くはないのだろう。職務は全うしてきたはずだ……」


 断言する強さで言った隆虎に、やや自信がなさげながらも狗侯もうなずく。

 人間であったときから上流階級出身の狗侯は、膝を着く相手が本当に限られていた。むしろ煌天君だけだったと言っても過言ではない。

 隆虎の言う適性とは、唯一無二の主に忠誠を誓って頭を垂れるのとはまた違う感覚だろう。

 煌天君のことを思い浮かべつつ肯定はできても、狗候に実感は乏しい。

 逆に隆虎はほぼ全員に頭を下げて生きてきた。だからこそ断言する。


「あるよ。絶対に」


 狗侯が何を考えているかなど、聞かずとも隆虎には読み取れた。それぐらい分かりやすい。

 煌天君の『主』適性を、隆虎も否定はしない。悪くない主だとも思っている。もし現世で出会っていたら、間違いなく乗り換えていただろうと思うぐらいには。

 しかし、と同時に思うのだ。

 自分の上に狗侯がいれば、彼を裏切る真似はしない、と。


「この人の下でなら負け戦でも戦える、って人だよ。俺の中ではね」


 そしてそれは煌天君ではない。


「成程」


 うなずいては見せたが、狗侯はすぐに首を横に振った。


「しかし、それはあり得んな。煌様は必ず勝つ。負けたとしても、最後には。必ずだ」

「そうだね。煌天君はそうだね」

「ああ」


 隆虎の口にした『は』の部分は、分かってほしい狗侯からはさらりと無視された。本当に含みに気が付かなかったのだ。

 微笑ましい気分で苦笑しつつ、隆虎もわざわざ説明はしない。それでこそ狗侯だ、とも思っているので。


「まァ何だ。今のは俺がちょっとビビリでした。ハイ。うん、俺はまだ犬寿を疑ってる。女のために仙界裏切る奴だからね。絶対に二度目がないとは言えねーだろ」

「……ああ。翠蓮すいれんのためならばやるかもしれん」


 死んだからと言って気持ちが終わるわけではない、というのも隆虎によって理解させられたことだ。


「一応、ぐらいだけど」

「そうなのか? なぜだ?」

「今兄貴に手ェ出すって事は、煌天君をガチで引っ張り出す覚悟があるって事だから。それで何かを成し遂げられると思う程、犬寿も馬鹿じゃねえだろって」


 たとえ何かを得られても、それ以上のすべてを消されることだろう。手にしたことさえ後悔する程に。


「それは元から織り込み済みだろう。獣神将を害するということは、仙界を敵にするという事だ」

「あー、うん。そうだね。うん」


 何を当然のことを、と言いたげな口調で返してきた狗侯に、隆虎もうなずく。

 間違ってはいないのだ。隆虎が殺されたとしても、煌天君は制裁を与えに動くだろう。仙界の意志として。

 狗侯の場合は煌天君自身が動く――という意味だったのだが。

 流しておくことにした。本人が知る必要は、ないといえばない。寵愛に溺れる性質とは思えないが、そんな打算に気付かないぐらいの純粋さを、煌天君も愛でているのだろうから。


「犬寿はちゃんと分かってるっぽかったし。その上で俺たちを呼び出すんだから、ま、大丈夫っしょ」

「そう願いたい。これ以上、煌様を裏切っては欲しくないものだ」

「裏切りは嫌だね。どんなんでもさ」

「ああ」


 隆虎の口調は変わらず緩いままだったが、そこに籠もった真剣さを狗侯は疑わなかった。

 そう。本気以外であるはずがない。

 狗侯も隆虎も、今よりずっと激しい戦乱の世に生きた武人だからだ。裏切りの怖さは良く知っている。


(だから、犬寿。もう裏切ってくれるなよ)




 犬寿の来訪を受けた、その夜。

 狗候と隆虎は言われた通り、桃晶宮に忍び込んでいた。貴晶きしょう本人に招待されたのではないどころか、これから彼女の本音を暴きに行くのだ。堂々と、というわけにはいかない。


(こんなコソ泥のような真似は、好きではないが……)


 使命を全うするためだと思えば、背に腹は代えられない。


「あ、兄貴、あれ」

(貴晶! と侍女の娘か)


 隆虎に指差された方向へと目を向ければ、貴晶が逢鈴あいりんだけを伴って歩いてくるところだった。

 二人は一層慎重に気配を殺す。


「ああ、今日はとてもいい月夜ね、逢鈴」

「さようでございますね、姫」


 雅やかに設えられた池の辺で足を止めた貴晶は、嬉しそうに語りかける。上機嫌な貴晶を、こちらも嬉しそうに微笑みながら逢鈴が相槌を打つ。


「美しいものは好きよ。心が癒されるもの。ねえ、逢鈴。わたくしはどう? わたくしも美しいかしら」

「はい、とても。姫のお姿を一目見れば、全ての生き物が心を奪われることでしょう。抗うことなどできようもない、絶世の美貌でございますよ。力ある姫の美しさには、何人であっても平伏します。お疑いなら、どうぞその池をご覧ください」


 過剰なほどに褒めたたえる逢鈴に、貴晶は僅かに眉を寄せた。

 ただそれは、言われた内容が大袈裟だと、気に入らなかったわけではない。


「わたくし、水鏡は嫌いよ。だってちょっとしたことで歪んで、わたくしを不細工にするんだもの」

「今夜ここにいるのはわたくしと貴晶様だけ。風すらも、姫の美貌を邪魔などいたしませんとも。さあ、ご覧下さい」

「そうかしら……」


 まだ不安そうに呟きながら、貴晶はそっと池を覗き込む。

 逢鈴の言う通りそよ風一つ吹かず、池は凪いで貴晶の姿を正しく映し返した。淡い月の光がきらきらと輝き、昼間とはまた違った神秘的な美しさを醸し出す。

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