第6話

「本当ですの? 虎の獣神将様」


 蠱惑の色を含んで、貴晶きしょうの瞳が下から隆虎を見上げる。


「もちろん!」

隆虎りゅうこ貴様、いい加減にしろ! 公主、貴様もだ!」


 隆虎をこの場で殴り倒さなかったのは、狗侯くこうが理性を総動員させた結果である。


(たとえどのような意図があろうと、その浅ましい振る舞いは獣神将に相応しくない!)


 それが最も合理的であろうとも、選ぶことは出来ない。そういう手段も世の中にはある。

 そしてたった今隆虎が行っていることも、狗候にとっては選べない手段の中に入る。


「も、申し訳ありません」


 狗侯の剣幕に、貴晶は慌てて平伏した。恐れているのは本当のようだ。

 助けを請うように、ちらりと上目使いで隆虎を見る。実際に自分を護らせるためと、頼られているという自尊心をくすぐるための仕草だ。

 そんなやり取りも腹立たしいが、それよりも問い詰めなければならない重要な点が狗候にはあった。


「公主、貴様その臭いは何だ? それは死――」

「兄貴!」

「っが!」


 言葉の途中で隆虎から強すぎる肘鉄を脇腹にくらい、狗侯は短い悲鳴を上げる。打たれた個所を押さえて、ぶるぶると震えながら隆虎を睨む。


「貴様……っ」

「いくらなんでも駄目だってェー。女性に臭いとか、失礼にもほどがあるっしょ」

「失礼とか、そういう問題でもないわ、馬鹿者!」


 分かっているのに誤魔化そうとしている。それは狗候にも理解できるが、やはり意図は不明だ。

 むしろ今すぐにでも追及するべき。しかしどうも、隆虎はそれを許したくないようだ。


「わ――、わたくし、失礼いたします!」


 直接的な暴力を目の当たりにした貴晶は、怯えて表情を引きつらせる。急ぎ頭を下げて脱兎のごとく逃げ去った。当然の反応だと言えるだろう。


「あーもー。何してくれてんだよ。兄貴って馬鹿なの? いや、馬鹿だろ」

「それは俺の台詞だ! 貴様、一体何を考えている。公主にまとわりついていたのは間違いなく死臭だ。邪妖が溢れるという一件に関係があるかどうかはともかく、許されざることをしているのは間違いない」

「だからお近付きになろうとしてたんだろーが! せっかく舐めて掛かってきてくれてたのに」


 言われて、ようやく狗侯も隆虎の意図を理解した。謀の類としては一般的といえるだろう。

 相手が色恋を見せてにじり寄ってきたからつい拒絶してしまったが、仕掛けに乗ったように見せて懐を探るのは有用だ。


(だが、だが乗るにしてももう少し……!)


 見苦しくない対応は取れなかったものか。

 だがその考えの浅い軽薄そうな態度こそが、貴晶を油断させたのかもしれない。実際彼女は篭絡する相手として隆虎を選んだ。

 しばし自分の中の誇りと相談して。


「……すまん」


 謝罪した。

 狗侯は搦め手や謀の類が好きではない。当然、自分がやろうなどとは考えない。

相手の思惑を読み解く方にはまだ若干の耐性があるが、自分が仕掛ける側になると、本当に駄目だった。

 ずっと不要だったせいもあるだろう。卑怯に感じてどうしても抵抗が強い。


「……兄貴ってさあ。上の誰かに超可愛がられてただろ」

「は?」

「でなきゃ、んなまっ正直なままでお偉いさんの地位にいられる訳ねーもん。たとえ生まれが良くたって、絶対引き摺り下ろされてる」

「――……」


 ぐ、と狗侯は喉の奥で声を詰まらせた。隆虎の指摘は突き刺さるほどに事実だったからだ。


「ま、分かるけどなー」

「何がだ。確かに俺は謀には疎いが、そもそも武人に必要なのは個人の武と、戦況を見る目と、指揮能力でだな……っ」


 奸計を用いて相手を陥れようなどという真似が、狗候は好きではない。たとえ敵であろうともだ。


(敵として見えようと、己と何も変わらぬ意思のある生き物だ。ただ正々堂々、己の信念の元に決着をつけるべきではないか)


 そこに謀は不要だ。少なくとも狗候にとっては。

 信念を貫くにあたって本気であれば、鍛錬を積み技能を磨く。支えるに足る信念であれば、人が集まるだろう。

 要は正々堂々と向かい合えないのであれば、それは誰もが望まない信念だということだ。

 正しきをもう一度振り返るべきだろう。

 だが、隆虎の考えは違うらしい。


「うん分かってる。それしかやらせてもらえなかったんだろーなって。俺でも兄貴にはそうする」


 納得した様子で深々とうなずいている。ただしそれは、狗候の言に対する肯定ではない。


「貴様は俺を愚弄するか!」


 顔を赤くし狗侯は怒鳴った。適性のない役立たず、と言われた気がして。

 狗候とて理解はしているのだ。

 己の心情がどうであれ、謀を仕掛けて来る輩がいる以上対抗するために同様の知識、発想が必要だということは。

 だが、どうしても受け入れがたい。結果、その分野への疎さへ繋がっている。


「違う違う、そうじゃねーって。勿体ないからだろ」


 苦笑しつつ、隆虎は手を左右にぱたぱたと降る。


「勿体ない?」

「兄貴は真っ直ぐで綺麗だからさ。汚ねーもん見て、そーゆー考えがあるってことも知ってほしくなかった誰かさんがいたんだろーなって。だから、すっげー可愛がられてんなって思っただけ。んで、俺でもそうする。見てると癒されるし」

「……」


 否定はできない。事実主が自分を擁護してくれていたのを狗候も自覚している。

 それは今も変わらない。人であったときからずっと、狗候の主は煌天君だけだ。


「癒されるというのは、違うだろう。それを武人に与えるのは酒と飯と休息、そして女の役目だ」


 当てはまらない者もいるだろうが、大体はその四つで多少なりと息は抜ける。


「分かってねーなぁ。いや、女の子いいよ。女の子ちょー癒されるよ。仕事終わりは妓楼だよね。お気に入りの子に指名入ってた時の悲しさっていったらないよね」

「知らん!」


 語気を荒くして狗侯は話に興じるのを拒絶した。その反応に隆虎は少し顔を引きつらせて。


「えと。悪い。振っちゃ駄目な話だった?」

「そういう訳ではない、が……」


 自分でも過剰な反応を示した自覚はあって、狗候は歯切れ悪く否定をする。

 好む話題ではないが、何が何でも受け付けない、というわけではない。


「俺の時代だとわりと普通だったから。まあ無礼な話だよな。使ってた俺が言うのも何だけど」

「俺の時代も似たようなものだ。男であり、武人であるならば経験はあって当然、という風潮だった」


 逆に言えば、経験がなければ侮られる傾向にあった。

 当時、狗候は実に良識的な人間だった。然程疑問も持たずにその常識に従っている。


(少し考えてみれば、奇妙な話だ)


 性の経験のあるなしなど、人品には一切関係ない。


(おそらく、時世の影響もある)


 人が少なかった、そして死亡率が高かった樵の時代。

 妻帯し、子をもうけてこそ男は一人前、という世情だった。家を継がせる子を育て上げるのは、最早義務と言えた。

 しかし妻も子もない状態では一人前の証になどならないわけで、道理に合わない。


(どこかで認識が歪んで悪習が生まれたのだ。そうに違いない)


 仙界に移って世俗から離れた後の狗候からすれば、異を唱えたい常識だ。


「ああ、分かる。んで武人として男として、舐められないようにするためだけに行くぐらいだった訳ね。……兄貴の行く所超高そう」

「やかましい! 下らん話は終わりだ!」


 遠い目をした隆虎に、狗侯は血が上るのを自覚しつつ話を強引に打ち切る。


「とにかく、明日からは公主を探ることとする。いいな」


 失策は認めたとしても、貴晶に感じた死臭に間違いはない。放置はできなかった。

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