第3話

 外は――正確には歩いてみないと分からないだろうが、邪気が侵入しようとしている様子もない。王宮ならではの濃さはあるが、許容範囲だろう。


(邪妖が頻繁に湧き出す程の邪気が、凝り固まっているようには見えないが……)


 では、町だろうかと考えてみるが、それもしっくりこない。


(蒼国の内政は安定しているし、民の生活水準も悪くない。そもそも、上空から見た限りでは特別穢れを感じもしなかった)


 ならば答えは一つ。今持ち上がっている問題は、人心の乱れによる偶発的なものではなく、誰かの悪意による、意図的なものだということだ。


(その方がマシではあるんだがな)


 人心の乱れ――人の世の政権に問題があるのなら、長期の任務となる。

 だが何者かの悪意であるのなら、元凶となっている者を征伐すれば済む。

 とはいえ、短期で済みそうだと喜ぶ気にはなれなかった。

 悪意というものはどれだけ小さかろうとも、生じさせる痛みに比例しない。そうでなくても快いものでないことだけは確定しているのだから。


「犬の獣神将様のお部屋は、こちらになります」


 女性神官の声に、狗侯は思考に沈んでいた意識を現実に戻す。とはいえそれは外からでは変化とも捉えられなかっただろう。

 振り向いた神官の方も気付いた様子はない。


「どうぞ」

「虎の獣神将様は、こちらへ」


 案内された部屋の扉には、それぞれ犬と虎を象った彫刻がされていた。どれほど時間が経ってから招こうとも、これならば間違えようもない。


「ご苦労。下がれ」

「はい。御用がありましたら、どうぞお申し付けくださいませ」


 定型句を述べて深々とお辞儀をすると、神官二人はしずしずと立ち去って行った。


「夜来て下さいってのは、いいんかな」


 神官の背中を見送りつつ、本気か冗談か判断しにくい軽い口調で隆虎りゅうこは呟く。その品のない発想に狗候くこうの額に青筋が浮かんだ。


「そんなに体力が有り余って暇なら、俺が夜通し鍛えてやるが?」


 冗談か、本気かなど関係ない。口にすること自体がすでに問題だ。

 いっそその精神こそを鍛えてやりたい気分で、狗候は指を鳴らしつつ低い声音で言う。


「いやいや、遠慮します。今んな事してる場合じゃねーっしょ。鍛錬なら戻ってからにしよーぜ?」

「そんな事をしている場合ではないというのは、どの口が言うんだ」


 隆虎の直前の呟きよりは断然まともだという自信が狗候にはある。

 だが問題が起こっている現地で鍛錬、というのが相応しくないのはその通りだ。息を吐いて一旦感情を仕切り直す。


「まったく。何故貴様のような奴が獣神将に選ばれたのか、理解に苦しむ」


 そして煌天君が言う『後輩を鍛えろ』に納得もした。


(確かにこいつには教えなくてはならないことが多いようだ)


 なぜ、そのような常識から教えねばならないのかという虚しさを感じつつ。


「そりゃ俺が英傑だからっしょ」


 呆れを隠さない狗候の物言いを気にすることなく、隆虎は平然と自分を称賛する称号を口にした。


「自分で言うな」

「だってそうだろ? 兄貴だってそうなんだろ。あ、そういや時代いつ?」

「……しょうだ」


 一拍ためらってから、事実を答える。


「うわ、神話時代じゃん。なァ、昔の名前なんつーの? 有名?」

「馬鹿か。知ってどうする」


 おそらく名前が残っているだろうという自覚はあるが、狗侯は隆虎の雑談を取り合わずに一蹴する。

 煌天君こうてんくんを始めとして、華仙界に住む仙人・仙女達はそこで生まれ育った者達がほとんどだ。

 しかし狗侯達獣神将は違う。


 華仙界の主である煌天君の手足として、術に長ける仙人・仙女を守る武の要として。地上で名を馳せた英傑が華仙界に招かれ、神格を得る。

 その定数は十二人と定められており、年を守護する十二支の獣性を持つ。狗侯は犬、隆虎は虎だ。欠員が出た時のみ補充がされる――のだが。


「つーか、樵って随分古いよな。兄貴が獣神将になったのって俺の二つ前じゃん? 兄貴の前に獣神将になった奴だって、兄貴より後の時代の奴のが多いし」

「うるさい。下らない事を気にするな」

「下らねぇかなぁ。普通に気になるんだけど」

「下らん」


 直も食い下がろうとする隆虎を、狗侯はばっさりと切り捨てた。


(――知られて困ることではない)


 狗侯の獣神将就任には、確かに若干、常とは違う経緯があった。問題はないはずだ。しかし、突っ込まれて聞かれると少し困る。

 理由が狗侯にも良く分からないからだ。そして狗候自身も納得していない。

 就任した今、過去のこととなっているわけだから今さら掘り返すつもりはないが――訊ねられたら答えられない。


 狗侯が人界で生きていたのは、もう五百年も前になる。煌天君と知り合ったのも人界でだ。

 彼は己の忠実な手足を欲して、人の王の真似事までしていた。その頃から狗侯は煌天君の部下だった。


 大勢の部下の中から、狗侯は選ばれた。しかし当時、獣神将の空席はなかった。人員が欠けてから探すのが通例なので、この時点ですでに異例だ。

 空白期間、狗侯は犬の精霊の姿を取って、長らく煌天君の話し相手をしていた。犬の獣神将の席が空く事も二度あったが、任命されることなく見送られている。

 三度目の交代で狗侯は獣神将となったが、煌天君はあまり喜んではいない、気がする。


(何故だ? 忠実かつ有用な手足として、俺を招かれたはずなのに)


 仙界の主たる煌天君がわざわざ自身で人界に足を向け、そこから直に選ばれたという自負が狗侯にはある。それに応えるべく、誰よりも強い忠誠心を持っているとも。

 当然、求められる武においても妥協などしない。実際に現在獣神将の務めにある者たちの中で、狗候の実力は上位に位置する。


 己にできる努力はしている。だからこそ不安が拭えない。

 自分は、煌天君の望みに適う将ではなかったのではないか、と。己が獣神将であることを、煌天君は不服に感じているのではないだろうか、と。


(いや、そんな事はない!)


 頭に過った不安を、狗侯は慌てて打ち消した。

 それは選んだ煌天君の判断を否定することに繋がる。


(煌様の判断を間違いにしてはならんのだ。今が足りないのならば己を磨き、煌様の望む将の姿にまで己を高めれば良いだけの話!)

「兄貴?」

「!」


 己の中の不安を突かれ、つい、物思いに沈んでしまった。隆虎に呼び掛けられてはっと我に返る。


「どうしたよ?」

「いや、何でもない」

「着いた早々、もう考え事かぁ? 何か引っかかる事でもあったのか? 俺の鼻にはまだ何も引っかかって来ねーけど」


 隆虎の中では獣神将就任時期の件はすでに終わった話題になっていたらしい。

狗候の沈黙は任務に向けての思考だと思ったようだ。自身も周囲へ感覚を巡らせつつ、首を傾げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る