決別
「裕介様、朝ご飯ができました。」
「ありがとう、今行くからもう少し待っててくれ。」
葉室家には平穏な日常が戻りつつあった。
先日のカフェでの一件の後、俺達は一度話し合いの場を設けた。お互いがお互いをどう思っているか、どんなことに不満があるのか、何をしてほしいのか・・・。
彼女からのお願いはかなりわかりやすいものだった。「体調が不安になるからあまり残業はしないでほしい。夕食の時間は顔を合わせられる貴重な機会だからできる限り帰ってきてほしい。自分を一番大切にしてほしい。」と、彼女はほとんど俺を心配することばかりを頼んできた。聞いている身としては顔から火が吹き出るかと思うほど恥ずかしかったが、それほどその優しさが嬉しかった。
一方俺からの願いはただ一つだった。「自分が好きなことをしてほしい。」そう伝えることが俺が彼女を幸せにする第一歩になるはずだ。
それからの仕事ははすこぶる順調だった。特に良くなったと感じられたのは集中力だ。今までは何か気にしていることがあり、いま一つ気持ちが入っていなかったが、自分が何をすればいいのかが見え、一気に目が覚めたような感覚だった。
「裕介、編集長にならないか。」
ある日、社長が俺を社長室に呼び出して提案をした。まだ入社して一年もない俺にそんな重役を与えて大丈夫なのだろうか。
「私よりも適任がいるのではないですか。」
「私も最初は別のベテランに声をかけたさ。でも、彼は『裕介のほうが適任ですよ。仕事熱心だし気遣いもできる。私は裕介を推薦します。』と言ったんだ。仕方がないから部署内のほとんどの人に声をかけたさ。それでも帰ってきた答えは君でいい、君がいいという声だったんだ。君は君が思うよりもずっとすごい存在なんだよ。」
「社長がそこまで言うなら、この提案、受けさせていただきます。」
例のないスピード出世。でも、そんなことよりも自分が世間的に認められたことが嬉しかった。梨華にふさわしい人間になる、そんな目標の達成ゲージがかなり増えた気がした。
少し広くなったデスクに山積みになった企画書と下書きに目を通し、承認・非承認を決定する。編集長の仕事は動きが少なくなった分書類仕事が増え、疲労が溜まりやすかった。唯一の利点は企画書を見ている間に世間のあまり表立っていない情報を仕入れることができることだ。政治家の裏金問題や地方議会の対立、会社の買収事情などうちの会社が広い人脈と交流を活かして入手した情報が目白押しになっている。
とある金曜の昼下がり、そんな仕事を漫然と行っていると、自分の同期で自分と同じかそれ以上の技量を持っている社員が神妙な面持ちで企画書を持ってきた。
彼がここまでの顔をするということはよほどのことがあったのだろう。もし大きなミスをしていたらどうフォローしようか。そう思って企画書に視線を落とした。
「一体何が!?崖下で二人の警察官とパトカーが発見&近くに何者かの足跡」
大きくゴシック体で書かれたそのタイトルはかなり衝撃的なものだった。記事に目を向けると、詳細な情報が書かれている。
二人の警察官は無断欠勤により懲戒処分が検討されるほど素行が問題視されていた。死亡推定月日は一年前程前。最後に彼らを見た同僚によると、その日の午後に彼らはとある殺人事件の容疑者の護送の予定が組まれていた。ここまで発見が遅れた理由は現場があまりにも山奥であったことと、偶然彼らの辞表が前日に提出されていててっきり辞めたものだと思われていたことが理由と考えられている。
彼の能力が遺憾なく発揮された文章は整っていて、情報が瞬時に頭の中に入ってきた。その時、なにか頭の片隅に引っかかるものを感じた気がした。
「ちょっとこの企画書一旦預かっててもいいか。」
彼も俺の表情からこれはなにかあると思ったのか乾いた返事をして自分のデスクへ帰っていった。
席を立ちお昼休憩に入ることを付近の社員に伝えてから会社を出る。春の生暖かさが風に乗って肌に触れる。散歩をするには少々暑すぎる天気だ。ただ、会社に戻るのはもったいないしエアコンの効いた室内ではリフレッシュにならない。仕方がないので袖のボタンを外し、腕まくりをしてなんとか誤魔化すことにした。
会社の付近をのんびり歩いていると一つのポスターに目に留まった。警察署の横にある指名手配犯のポスター、そこの一枠が空いていた。顔を近づけてみると小さく
「指名手配が解除されました」
という紙が貼られていた。指名手配犯が捕まるなんてことがあるのか。少し警察に対する評価が上がった気がした。時計を見るとすでに一時半を回っている。そろそろ会社に戻らなければ。そう思って視線をポスターの右ににずらしていき、帰り道が視界に入る、その時一つの顔写真が目に留まった。
似ている。そう、あまりにその顔は俺のものと酷似していた。眉の濃さ、鼻の長さ、少ししゃくれた顎、どのパーツをとってもそれが俺のものにしか見えないというもの以外の情報は得られなかった。
「傷害致死容疑:佐藤裕也 被疑者護送中に逃亡と思われる。
目撃情報は✕✕✕ー◯◯◯◯ー△△△△まで」
空気が、音が、世界が止まった気がした。聞こえるのは一秒に二回を超える速度で打たれている拍動だけだった。ありえない、そう脳に命令してもその願いは受け入れられなかった。
「俺は一体どうすればいいんだ・・・。」
途方に暮れてポスターの前で空を見上げ、突っ立っていた。
やっと次のアクションを取ったのは日が雲に隠れた十数分後だった。今の俺には多種多様な情報が入っていて、欲しい情報を入手するのは容易なはずだ。自分の手で審議を確かめよう。そう決意した俺は滴るほどかいていた手汗にハンカチを握りしめ、震える足にムチを振るい、会社への道を歩き始めた。
三日後。いつの間にか張り出してきた太平洋高気圧が忌々しい熱気を送る中、俺はエナジードリンク片手に作業をしていた。ここまでの調査でわかったことは佐藤裕也が日本中に驚くべき人数いることと、留置所がこの会社と同じ県であったことくらいだ。まさしく手詰まりと言ったところである。やっぱり人違いなのかもしれ・・・
「裕介!先日の企画書の件で警察側に動きがあった。とにかくこれを見てくれ!」
そういって同僚はスマホを差し出した。そこで行われていたのは動画配信サービスで配信されている警察の記者会見だった。
「先日崖下で発見された二人の警察官の死体ですが、彼らは当時佐藤裕也被疑者を乗せて県中央部へ向けて走っていたということが判明しました。直接の転落要因は不明ですが、被疑者がいまだ見つかっていないことから被疑者によるものではないかと考えています。」
点と点がつながって線になるというのはまさしくこういう事を言うのだと思った。もしかしたらなにか手がかりがあるかもしれない。そう思って俺は企画書にかいてあった転落事故の現場に向かった。
現場は山奥にあった。向かっている道中には猪や鹿の注意看板が立てられており、砂利道や未舗装の区間も数多くあるかなりの田舎っぷりだった。
気を抜いてカーナビに従って道なりに進んでいた次の瞬間、思わぬ急カーブが目の前に現れた。やばい。そう思って全力でハンドルを回す。結局一回転半してなんとか車は無事だった。
なんとか車から出てあたりを見回したそのとき、デジャヴとともに記憶が一気に流れ込んできた。
手錠をつけられた腕、知らない二人組、車の滑落、命からがらの逃走。俺は佐藤裕也だった。殺人を犯し、護送中に事故が起きて逃亡生活を送っていた、それが真実だったのだ。
真実に直面し、最初に考えたのは梨華のことだった。もう、梨華には会えない。俺は殺人者で彼女は高貴な家の女性だ。一緒にいていいはずがない。
「絢さんとの約束守れないな。」
能面の俺には似つかない涙が頬を伝う。もう諦めよう。そう思って俺は車に乗り込み、近くの警察署へ向かった。
警察署の近くの路肩に車を止め、降りようとしたとき、俺の足は異常なほどすくんでいた。今までの生活をすべて失い灰色の世界で生きていく、その勇気が俺にはなかった。どんなに心にムチを振るっても立ち上がることができない。まるで小学生のように体を丸め泣いていると、誰かの影が日光を遮った。
「裕介様、どうされたのですか。」
顔を上げなくてもわかる、梨華の声だった。
自分はこれ以上梨華と関わってはいけない。警察に行って自分の罪を償いにいかなければいけない。そう知っていたが梨華に打ち明けることはできなかった。気づけば助手席に乗っていて、梨華が家に向かって車を走らせていた。
「裕介様、どうされたのですか。」
夕食のとき、梨華からもう一度聞かれたがやはり答えることはできなかった。自室に戻り、布団に顔を埋める。心も体ももう限界だった。疲れ果てた俺はスーツのまま寝てしまった。
翌朝起きたのは九時をすでに超えた頃だった。本来なら仕事にいかなくてはと思うはずだが、そんな感情すら湧いてこなかった。「一生このままここにいたい。」そう思いさえした。
ふと机を見ると、小さな紙が置かれていた。
「裕介様。私はあなた様の召し使いです。何かあったときは私が傍にいます。ぜひ、その事を忘れないでください。」
たった数行で書かれたその手紙。でもそれは何よりも心強くて、何よりも尊いものだった。決心をつけるには十分すぎるほどに。
会社への辞表と同僚への謝罪文を手早く書き上げ、最後に残ったのは梨華への置き手紙だった。何枚も何枚も書いたが、全て気づけば濡れていて読めなくなっている。それでもこらえて手紙を書き終えたのは梨華が返ってくる時間の一時間前だった。
勇気を持って家のドアを開ける。その時、帰ってくると思っていなかった梨華が視界に入った。
「どこかお出かけになるのですか。」
「あぁ、ちょっとな・・・。・・・梨華、幸せにな。」
そう言って俺は足早に家を出て、警察署で自首をした。
「佐藤裕也、お前の名前で間違いないか。」
「はい、多分。」
「動機は何だ。」
「わかりません。一度記憶喪失になったもので。」
「記憶喪失か、信じがたいがそうだとしたら大変だから一応状況説明をしておこう。
犯行日時は昨年の六月十二日、午後四時。ビルの屋上で地元の大富豪を突き落としその場で逮捕。その瞬間の目撃者はいなかったが状況から殺意を持って殺したわけではないと判断された。」
「もう少し詳しいことを教えてくれませんか。」
「別に知ったところでだと思うがいいだろう。さっき目撃者はいないといったと思うが実は一人いてな。ビルで聞き込みをしていたとき、三歳くらいの少女が君のような人に助けられたと言っていたんだ。ただ、どんなに調査をしてもそれが真である証拠が見つからなかったので証言として扱われなかったんだ。」
「俺がその少女を助けるためにやったという可能性はあると思いますか?」
「一個人としての意見にはなるが、俺は実際その可能性が高いと思っている。お前の知り合いにも事情聴取をしたがみんなお前のことを褒めていた。自分よりも他の人を大切にできる優しい存在だと。だから、あまり気落ちせず、頑張って刑期を終え、また誰かの役に立ってほしいと俺は思うぞ。」
「ありがとうございます。最後に一ついいですか。少女の名前は何でしょうか。」
「少女の名前はわからないが、付き添っていたおばあさんは『葉室』と名乗っていたかな。」
もしかしたら彼女は俺の存在に気づいた上で、ともに歩んでくれたのかもしれない。最後にそれが知れて本当に良かった。
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