再会

 絢さんがいなくなってから俺達の生活は大きく変わってしまった。悲しみにより、自堕落になったわけではない。むしろその逆だ。俺は仕事にのめり込むようになり、週に二、三日しか家に帰らないようになった。デスクは上も下も書類で埋め尽くされ、キーボードを除いて原型を留めているものは何一つない。ホワイトボードに書かれた各人の仕事予定には俺の名前がびっしり書かれている。

「仕事のしすぎだ、少しは休みなさい」

「別に俺達のことを頼ってくれたっていいんだぜ、同僚なんだしな。」

部長も同僚も急激に変化した俺をとても気にかけてくれた。一度、四日間の休暇をもらったが、家にいると絢さんがいなくなった喪失感が猛烈に襲ってきて全く落ち着けない。梨華との会話も減り、会うのは食事の時くらいになってしまった。ただ、体の方は元気だった。絢さんが残してくれた遺産で健康のための自己投資は十分すぎるほどでき、毎日梨華が栄養バランスに配慮した食事を作ってくれる。俺の体と心の温度差は日々、仕事にのめり込む要因の一つになっていた。

 一方、梨華は絢さんがいなくなったことによる将来への不安と召し使いとして働く時間の減少を理由にWebライターの仕事を始めた。家に帰ると彼女は召し使いと仕事以外をしていないからどういった物を書いているかは書いているかはわからないが、本人曰くかなり報酬は悪くないようだ。確かに梨華の能力を持ってすれば記事を書くことなど取るに足らないことなのかもしれない。

 そうして俺達二人がそれぞれ独立の道をたどっている最中、一人の女性が夕飯時に家を訪ねてきた。

 インターホンを覗いた梨華が固まる。

「祐介さん、申し訳ないのですが出てもらえないでしょうか。」

梨華が俺に頼み事をするなんてどうしたのだろう。少し不思議に思いながらもドアを開けると、強い香水の香りがぷんと漂ってきた。悪質な宗教勧誘だろうか。

「すみませんが、どちら様でしょうか。」

「それはこちらのセリフよ。あなたは誰?」

「とりあえずどちら様かを教えてもらわないことには・・・」

「私は梨華の母親よ。で、あなたは誰?」

「祐介と申します・・・。」

 梨華の母親とはどういうことか。それらしい会話をたどると、一つ思い当たる節があった。

「そしてこの子は三つのときに母親がある日を境に帰ってこなくなってね。」

絢さんが俺に初めて会ったときに梨華のことをそう紹介していたはずだ。つまり、目の前にいる女性は幼い梨華を置いて蒸発した人間ということだ。許すことは到底できない。体温が少し上がった気がした。

「ここで長話をするのはお互い大変でしょうし、日を改めてまたお話しましょう。」

そう言って梨華の母親を名乗る女性は俺にカフェの予約券を手渡し、帰っていった。

 食事の席に戻ると梨華の表情が明らかに曇っていた。これは何も話してはいけない状態だと察したので、もらった予約券をボケットに適当に突っ込み食事を再開した。


 三日後、しっかりと仕事に一区切りをつけて俺はカフェに行った。しっかりと予約券はフェイクなどではなく本物だった。

 席について五分ほどたった頃だろうか。梨華の母親を名乗る女性が入ってきた。相変わらず強い香水を身にまとい、店内の視線を集める派手な服装をしている。店の名物コーヒーを二つ頼み、店員が去ってから彼女は話し始めた。

「改めまして、梨華の母親の咲楽です。そう言っても信じがたいと思いますので、いくつか証拠となるものを持ってきました。」

 そう言って彼女はバッグを漁り始める。机の上に置かれたのは梨華の幼少期の写真や成長アルバム、そしてちょっとした個人情報がメモされた紙だった。奇しくも、彼女は真の梨華の母親だった。

「こちら深煎りコーヒーになります。」

 店員が持ってきたコーヒーを少し口に含み、彼女の目が急に鋭くなった。

「単刀直入に言わせてもらいます。梨華に近づかないでくれませんか。」

「失礼ながらあなたの普段の行動を少しばかり観察させていただきました。どうやら、仕事に勤しんでいるが、その分家にいる時間はとても短いようですね。それでいて梨華を召し使いとして時間を奪っていることはどうなのですか。」

 かなりまくしたてるような口調だったが論理は通っていた。やはり、梨華のあの高スペックは遺伝なのかもしれない。

「私のほうがきっと、梨華を幸せにできる。」

 そう言って彼女のターンが終わった。次は俺が反論する番、と思ったが何一つ言いたいことが思いつかない。ここまで図星を突かれてしまうと反論することが悪い事のように感じる。

「・・・少し考えさせてください。」


 家に帰ってシャワーを浴びて布団に入っても、頭の中ではずっとカフェでの事ばかり考えていた。いつも陰ながら俺のことを支えてくれている梨華は本当に幸せなのだろうか。たとえ彼女が今の生活に満足しているとしても、もっといい選択肢があるのではないか。

「あぁ、眠れねぇ。」

 なにかこの状況を打破できるものはないかと棚を漁っていると一枚の紙が出てきた。確かこれは絢さんが残していたものだ。

 あのとき、頭が全く回っていなかったから家に帰った後読むこともなく棚にしまってしまったのだろう。再び心にグッと来るものを堪え、静かに紙を開いた。

 一枚目には会社名と数字、そして短いメッセージが記されていた。調べてみると、どうやらこの会社たちは生前に絢さんが関わってきた会社のようだ。自分の近辺だけでなく他の会社にまで気配りをする、俺にはできないすごいことだ。

 二枚目の始まりは「裕介さんへ」だった。

 「裕介さんへ。

 辛く悲しいことではありますが、私の余命はもう幾ばくかしかありません。まだ一年も経っていないのにこういった状況にしてしまったことを本当に申し訳なく思っています。ほとんどのことを梨華に任せてしまったので私はあなたと関わることはほとんどなかったですが、その分梨華からいろいろな話を聞きました。

 きっとあなたはどうしてこんな俺を助けてくれたのだろうと思っているでしょう。もちろん、必然的なものもありましたが、一番の理由はあなたが梨華の父親に似ていたからです。

 彼は母親が消えてから男手ひとつで梨華を育ててきたというのは伝えたと思いますが、実はそんな彼が亡くなったのはとある工事現場でした。工期が短く予算も十分でなかった現場ではいつもギリギリの工事が行われていました。そんなある日、クレーン車に吊るされていた鉄筋が滑り落ちました。その日は風が強く、クレーンが振り子のように揺れていました。その勢いのまま滑り落ちた鉄骨は工事の柵を超え、道路に落ちようとしていました。そしてそこには母親とはぐれて泣いている一人の少女がいました。

 梨華の父親は避けられる位置にいた、という同僚の証言が残っています。それでも、彼は一人の少女を助けるために身を挺して飛び込みました。結果、数トンある鉄骨に押しつぶされ梨華の父親は即死。ただ少女は軽めの擦り傷で済みました。

 彼の葬式の日、少女の両親はずっと私に謝り続けていました。自分たちがしっかりと娘を見ていなかっただからと。

 でも、私はそうは思わなかった。目を離したから彼が死んだわけでない。親が責められるのではなく彼が褒められるべきだ。私はそう両親に告げました。

 梨華から話を聞いて私は確信しました。あなたには梨華の父親と同じ力が、勇気が備わっている。だからこそ、ずっと梨華の傍にいてあげてください。あの子は物静かで頭も良いけれど、心は普通の女の子です。きっといつか苦しくなる時が来るでしょう。あなたなら誰よりも梨華を幸せにできると幸せにできると思っています。

 裕介さんと梨華の幸せを祈っています。   葉室絢 」


 いつの間にか手に持っていた紙は変色し、柔らかくなっている。視界がぼやけて前が見えない。力を抜き前に倒れると柔らかい枕が包みこんでくれた。俺はとにかく泣いた。ドアが少し空いていて、その隙間から梨華が覗いていたことにも気づかず。


 数日後、話したいことがあると梨華の母親を呼び出し、俺と梨華は例のカフェにいた。

「カランコロン。」

 店主が最近新しくしたという玄関の鈴の音に振り向いてみれば、それは思った通りの存在だった。何事もないように正面に振り返った俺とは対象的に、梨華は下を向いて小さくプルプルと震えていた。

 無理もない。彼女からすれば自分を置いてどこかへ消えていた母親が急に現れて自分を攫いに来たようなものだ。むしろ恐れるなという方が難しい。

「やっと結論がまとまったようね。それじゃあ梨華はもらっていくわよ。」

「ちょっと待ってください!」

 思わず出た大きな声に梨華の母親は面食らっていた。周囲にいた数人の客も何事かとこちらを見つめている。

 どうしてだろう。あの手紙を読んでからずっと言うことは決まっていたはずなのに思わず大きい声が出てしまった。でも、左を見ると子猫のように俺を見ている梨華がいる。そうだ、これは俺の気持ちが高ぶっているからだ。それだけ俺は梨華を守りたいと思えているということなんだ。

「ずっと考えていたんです。俺といることが梨華にとって最大の幸せなのか。結論から言うとその答えは出ませんでした。もしかしたらお母様のほうが梨華を幸せにできるかもしれない。そういう事も考えました。それでも私はあなたのご主人のような人になりたい、そう思ったんです。」

 いつの間にか梨華は俺の左手を握って下を向き、大粒の涙を流していた。

「幸せはきっと結果論じゃないはずです。勇気と決意を持って梨華さんを幸せにする、その過程で幸せを拾うことだって一種の幸せです。私はこの先の人生を梨華さんを幸せにし、梨華さんと幸せに送っていきたい、そう思います。」

「・・・わかったわ。私はあなたを見くびっていたかもしれない。そこまで言うのならあなたを信じます。これからも梨華のことをよろしくお願いします。」

 そう言って彼女は席を立ちお会計を済ませて、ドアを開けた。

「梨華、ごめんね。」

 梨華はその言葉に返事をしなかった。それが長年会いに来なかった恨みによるものなのか、あるいは最後に見せた母親らしさに悲しさが溢れて声が出せなかったためかはわからなかった。ただ一つわかることは母親はやはり母親であったということであった。

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