別れ
梨華の召し使いへの適性は目を見張る物があった。朝起きたら一分も立たずに栄養バランスも彩りも完璧な朝食が出てくる。シャワーを浴びて部屋に戻ってくると専門業者に頼んだかと思うほどきれいになっている。その上、俺の意識の外でこれらのことをやるため、気が削がれることもない。
「なぁ、別に全部やらなくてもいいんだぞ。俺だって年齢はわからないけど流石にお前の年下ってことはないだろうし、本来なら社会人のはずだ。いつまでもこんな居候みたいな生活をさせてもらうのも変な話だ。」
一度、そう断ってみたことがある。だが、
「・・・馬鹿ですね。私が裕介様に使えている理由はお祖母様からの命令だけではないですから。恩もありますし、この召し使いとしての生活が私の幸せなのですよ。」
と優しい笑顔で否定された。
確かに召し使いとして仕事をしているときの彼女は幸せそうだった。ただ、いつまでもこの生活に甘んじるわけには行かない。こういった事を言うのは失礼だが絢さんも齢八十を数える頃だ。この生活がいつ終わりを迎えるかは誰にもわからない。
今のうちに自立をできるようにしなければ。
数日後、俺が座っていたのはビジネスチェアだった。ここは絢さんが運営する会社の一つ、「カドヨム製本社」の編集部。身元がわからない俺に配慮をしてくれて、会社の中でもパソコン業務が比較的多い部署の配属にしてくれた。俺を助けてくれた絢さんに、俺の傍にいてくれる梨華に、少しでも恩を返せるように全力を尽くそう。俺の心はしっかりと前を向いていた。
キーボードを打つ音が止まり、一人の男が窓の外を見た。外では白の結晶が風に舞い、薄寒くなった木々にふんわりと積もっていた。その時、何かを見つけたのだろうか、先程までの落ち着いた振る舞いはどこへ行ったのかと思うほど素早く片付けを始めた。雑にバッグを背負い、滑らかな動作でタイムカードを切る。その動きは定時ぴったりに帰る会社員のそれであり、近くにいた新入社員が焦って時計を見て、まだこんな時間かと安堵をするほどであった。
裕介と梨華の主従関係が始まってから初めての冬が来た。今年の夏は暑かった分、冬は寒くなると気象予報士は言っていた。だが、冬が冷やしたのは空気だけではなかった。
会社の前に止まっている車に乗り込む。行き先は絢さんが所有している病院だ。会社から病院までの十五分ほどの道のり。梨華の運転は電車と同じくらい快適で、仕事で疲れた俺の睡魔を呼ぶ。
「疲れているのなら少し寝ててもいいんですよ。」
いつもそう言われるが、着ているスーツが型崩れしてしまうからと遠慮する。本当は何かをしてもらっているときに自分だけがくつろいでいるのが許せないのだ。
そうして睡魔と熾烈な格闘をしているうちに車は病院の前に着いていた。
「葉室様ですね。いつもお疲れ様です。」
受付を済ませ、部屋番号と名前を確認してドアを開ける。そこにいたのはチューブと心電図に繋がれた絢さんだった。
大腸がん ステージⅣ。いわゆる末期がんだ。
俺がそのことを知ったのは仕事を始めて二ヶ月ほどたった頃だった。絢さんの部屋のドアが半開きになっており、閉めようと思ったときに部屋の中の荷物が何一つ無くなっていることに気づいた。梨華に聞くと、渋々ながら俺が来る前のことを話してくれた。
絢さんは昨年の冬頃、自宅で突然倒れた。医者からは入院を強く勧められたが、自宅での緩和ケアを選んだ。その最中、俺が転がり込んできた。絢さんは梨華に言っていたそうだ。
「なんの偶然か知らないけど、これで安心だね。」
その時の絢さんの顔はいつにもまして幸せそうだったらしい。結局、何が安心なのかを聞くことはできなかったそうだ。
俺が職場に馴染んできた頃、絢さんの体調は連日悪化していた。一日の時間の殆どをベッドの上で過ごし、活力も失われていった。医者はついに強制入院の選択を下した。いつ病状が急変するかわからないからすぐ対応できるようということだった。
俺はまだ居候でしかなかった。助けてもらった御恩も返せず、体調のことも知らず、自分の周りしか見えていなかった。せめてお見舞いくらいは、と思い、毎日仕事を早めに切り上げ、病院へ足を運んでいる。
目の前にいる絢さんはそんな俺と会話をすることはできない。どうしてもっと早く話そうとしなかったのだろうか。そんな後悔だけが頭の中を埋め尽くす。
絢さんを見つめていたその時、突然絢さんの右手が動き、棚の方を指さした。棚を開くとそこには家の本に負けずとも劣らない高級感のある二枚の紙が入っていた。
「これはなんですか?」
そう聞こうと振り返った俺は固まった。心電図が大きく触れた後、線が真っ直ぐ伸びている。俺は知っていた。これが永遠の別れとなることを。
「午後六時十二分、葉室絢さんの死亡を確認いたしました。」
病室の中は三者三様だった。冷酷に判断を下す医師、どこを見ているのかもわからず立ち尽くしている俺、そして梨華は絢さんの横で静かに、ずっと泣いていた。
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