召し使い
車を脱出してから何時間たっただろうか。最初こそ軽快に飛ばしていた俺の足も異常な夏の暑さと疲労にやられ、今やよろよろと歩くことしかできない。近くを流れていた川から水は入手できたが空腹がどうしようもなく辛い。いつから飯を食っていないんだろう。そう自分に問いかけても返ってくるのは頭の深部からくる頭痛だけであった。
すっかりあたりは暗くなり、月が輝き始めている。
「あぁ、このまま死ぬのかな」
もちろんそんなのは嫌だ。俺には帰りを待つ妻が・・・俺に妻なんかいたっけ。いやでも、親父が・・・
そうか、俺の帰りを待つ人がいる保証はないのか。そう思ったらもう、歩く気力もどこかへ飛び去ってしまった。
もういいや。そして俺はその場に倒れた。でも、倒れる寸前に月よりも明るい何かが見えた気がした。
目が覚めると、そこにいたのはツヤツヤの黒髪に透き通る瞳、整った顔立ちといった、まさしく美少女としか言い表せないような美しい少女だった。
「神様わかってんじゃん。」
天国も悪くないな。そう俺の脳は判断した。ただ、目に入ってきた情報はここが天国ではないと訴えていた。
温かみのある薄ベージュの天井、壁一面を埋め尽くす厚みのある活字本、ローマ字の風格漂う時計、それらすべては平凡な生活では見られない珍しいものではあったが、間違いなく「家」の特徴であった。
ここが天国ではないと信じたくない俺はなんとか反証を得ようと目を泳がせていると、彼女と目があった。
彼女は一瞬嬉しそうな顔になったあと、幽霊を見たかのような顔になり、
「ひっ」
という小さな声を上げて部屋を出ていった。
数分後。帰ってきた少女の脇には見るからに高そうな黒のワンピースに身を包んだ老婦人が立っていた。
「やっと起きたかね。私はこの屋敷の主人である葉室絢だ。葉室さんや絢さんと呼んでくれて構わない。」
葉室という苗字。どこかで聞いた気もするが自分の苗字すら思い出せない俺に思い出すことは不可能だった。
「この子は私の孫の梨華だ。訳あって私が昔に引き取った。そして今日からは君の召し使いだ。好きなようにしていいぞ。」
「ちょっと待ってください。なんで私はこんな豪邸にいて、こんな高待遇で迎えられているのですか。しかも召し使いだなんてお孫さんは本当にいいんですか。」
「ちょっと落ち着きなされ。」
どうやら俺は自分ごとになると周りが見えなくなってしまうらしい。
「まず、君はこの葉室という苗字に聞き覚えはないかい。」
絢さんの知っていて当然という声色の問いにNoと応えるのは少々ためらいがあったが、知ったかぶりをしても何もいいことはないと正直に話すと絢さんは少し驚いた。
「そうか、知らないか。葉室は日本の名家のうちの一つで私がその直系の子供、つまりは御子息というわけだ。」
どうりでこんな豪邸に住んでいるわけである。私の納得した様子を見て絢さんは話を続けた。
「そしてこの子は三つのときに母親がある日を境に帰ってこなくなってね。それ以来男手一つで育てられてきたんだけれどその後すぐに父親も亡くなってしまったんだ。まだ小学生にもなっていない子を一人にするのはどうかと思ってね。私の使用人として傍で暮らすことにしたんだ。」
「ご紹介にあずかりました、梨華です。何なりとお申し付けください。」
それじゃこの後のことは梨華に任せるから好きにしていていいよ。と絢さんが出ていった、そのドアの閉まる音とともに部屋には静寂が訪れた。
梨華さんが話さなそうなことをいいことに俺は今の自分について考えてみた。名前、年齢、職業、家族構成が不明。わかっていることは車から逃げ出してここにたどり着いたことだけ。改めて地獄のような状況である。
「・・・のか、おい、聞いているのか。」
一体何事かと首を回すとそこにはさっきまで下ろしていた髪をポニーテールにして大人びた風格を纏う梨華、いや梨華さんがいた。
いやいや、いくらなんでもほぼ初対面の人にそれはないだろう、と少し不機嫌な顔をしていると、はっと息を呑んで
「これは失礼しました。つい警戒して言葉遣いが粗くなってしまいました。この無礼、許して下さりませんでしょうか。」
と言った。さすがは元名家の使用人。礼儀がしっかりとしている。
こうして、ひとつ屋根の下で俺達の生活が始まった。
「ご主人様と呼び続けるのもあれだから、仮で名前をつけていいですか。」
「別にいいけどどうやって決めるんだ?」
「名前生成サイトとかを使えばいいでしょう。ほら、裕介とかどうですか。」
少し不安な生活が。
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