暖簾

壱原 一

 

新しく借りた部屋は玄関から室内が丸見えだった。共用廊下から室内へ入ると左手に壁、右手にキッチン、正面に部屋と窓がある。


些か心許ないので目隠しを設けることにした。


玄関とキッチンの間に、床と天井で突っ張るタイプのパーテーションを立てる。パーテーションと壁の間に突っ張り棒を渡して、頭上から足元までの暖簾を通し、キッチンと部屋の目隠しをした。


これで訪問者に応対したり、風呂上がりに玄関前を通過してキッチンへ行ったりしてもどっしり構えていられる。我ながら良い策と気に入った。


ただ朝でかける時は絡み付いて邪魔になるから、暖簾をパーテーションの支柱に巻き付けて出掛けるようにした。


しかし夜帰宅してみると決まって巻き戻っている。玄関先に暖簾が下がり室内が目隠しされている。


きつめに縛ったり洗濯物干し用ピンチで留めたりしてもどうしてか外れてしまう。布の素材か重さの所為か、とにかく防げないらしい。


慣れない内は外出中に室内へ誰か侵入して、こちらの不意を突くために巻き付けてあった暖簾を垂らし、のこのこ帰宅した自分を暖簾の向こうで待ち構えているのではと益体のない想像に駆られたりした。


全国展開している量販店で特にこだわりなく選んだ、厚い麻風の藍色の布地の二股の長い暖簾。


今夜も帰宅すると、暗い玄関と部屋を隔てて、朝まきつけた名残の皺を残してじっと垂れ下がっている。


左手のスイッチをぱちりと押して、古めかしい蛍光灯がからんからんと軽く鳴り点滅して白く光るまで待つ。


誰も居ないと分かっていても、分厚い藍色の布地をめくり、レースのカーテン越しの窓に暖簾を潜る自分を見るのが、毎度ほんのり憂鬱だった。


*


きのう友人が遊びに来て、夜更けまで酒盛りをし、早朝まで一眠りして電車で帰るのを駅まで見送りに行った。


ちゅんちゅん雀が鳴き交わし、健全な生活を営む人が散歩したり庭いじりしたりする様を後目に帰宅し、珍しく開いたままの暖簾を放置して怠惰な二度寝に興じる。


辺りはとても静かで、窓から柔らかな朝日が差し込み、外でさわさわ梢がなびいている。


大層さわやかな雰囲気に浸り、自分の寝息が深まるなか、ふと耳が何かを聞き咎めて寝惚け眼を揺り起こす。


すす、す、と衣擦れの音がする。


支柱に巻き付けてあった暖簾が今まさに元へ戻ろうとしていた。


窓からの朝日が届かない湿気った玄関の暗がりで、厚い麻風の藍色の布地が動いている。


弱い指先に摘ままれて、少しずつ引っ張られるように、すす、す、すす、と広がってゆく。


ちゅんちゅんさわさわと清々しい窓の対岸で、ぱさりと暖簾が落ち切って、玄関が目隠しされた。


隣の部屋の住人が玄関を出て鍵を掛け、自分の部屋の前をつかつか通り過ぎる。


そう。


人が居るし、朝だし、布の素材か重さの所為で摩擦が足りなくて独りでに巻きが取れただけ。


眠気はすっかり吹っ飛んで、渇いた喉に固唾を呑み、床に頬を付けた二度寝の姿勢でひたと玄関を凝視する。


あとちょっと目線を下げれば、暖簾と床の隙間が見える。


日焼けした上がり框と、武骨なコンクリートの三和土、乱雑に脱ぎ捨てた靴、重いスチールの扉。


隙間からそれらが見える。それらが見えるだけ。それらしか見えない。


それら以外見える訳がない。


どきどきと念じ、言い聞かせて、知らず指先に力を入れ、ぎくしゃくと目線を下げると、果たしてそれらのみが見えた。


はーと息を吐いて、水を飲もうと起き上がると同時、すすす、こそっと音が届く。


何を考えるより先に、首が勝手にそちらを見た。


暖簾を通した突っ張り棒に、伸び上がってぎりぎりの指先が並ぶ。


目元から上を覗かせて笑い掛ける顔と目が合った。



終.

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暖簾 壱原 一 @Hajime1HARA

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