012 三位一体の悪だくみ ~りんごジュースを添えて~

   6


 カフェに入店してから晴乃井はれのい先輩が顔を上げるまで、少しのタイムラグがあった。それほど集中して勉強していたということだろう。嬉しいね。僕が作問した教材に精一杯向き合ってくれているというのは、疑似個人塾教師冥利に尽きるさ。


 しかし申し訳ないが、いったん手を止めてもらいたいのだ。


「ッ……! ど、どうしたの天才クン。やけに真剣な顔してるけど」


 先輩が座る席まで近づくと、彼女はそう言ってから、目線を横にずらした。


「それに、芽依めいまで」


 僕の隣には種ヶ崎たねがさきさんがいる。そう、女子テニス部の面々との一件があったあとで、僕らは二人でここへやってきたのだ。晴乃井先輩に会うため。そして、


「すみませんが、晴乃井先輩。ちょっとばかし計画を変更したいんです」


 こいつを高らかに宣言するためだ。


替魂かえだま受験、やりましょう」

 

   ◇


 電車で一駅の伊月駅までやってきて、徒歩五分。僕らは三人で、種ヶ崎さんの家までやってきた。立派な一軒家だ。玄関から入って正面に階段があった。


 二階に上がってすぐ左手の部屋が、種ヶ崎さんの自室らしかった。


 彼女の部屋は、なんというか想像以上に、女子の部屋だった。ぶっきらぼうで無口な印象からは予想もつかない内装。白い本棚の中に小説や参考書が綺麗に整頓されていて、空いたスペースには小さな観葉植物と、猫が描かれたポストカードが置かれていた。ちなみに、部屋の隅に放置されている巨大なサンドバッグだけは見なかったことにした。


 とにかく、どこをどう見ても「女の子」って感じの雰囲気が漂っている。サンドバッグを視界に入れないように気をつけながら、そう思った。


「とりあえず、私、なにか飲み物を持ってきます」


 僕らを部屋に招き入れるやいなや、種ヶ崎さんはドアノブに手をかけた。


「晴乃井さんは、新室くんが変なことしないように見守っていてください」

「なッ……!」


 早々、人聞きが悪いことを言う! まるで僕が、女子の部屋を勝手に荒らす変質者みたいじゃないか! 種ヶ崎さんの顔を見て、首を素早く横に振った。そんなことしないよ、のジェスチャーだ。けれど彼女は訝し気な表情を崩さなかった。……待てよ、その顔ガチじゃん。ガチで疑ってるじゃん。


「りょーかいっ」


 先輩も先輩で、快活に敬礼を繰り出した。やめてくださいよ、寄ってたかって僕だけを悪者に仕立て上げるのは。


 違うでしょう。これから悪だくみをするのは、僕だけじゃない。

 僕ら三人とも、替魂受験、という大勝負に出ることを誓った共犯者でしょう。


 そう。種ヶ崎さんの部屋にやってきたのは、替魂受験の作戦会議のためだった。


「ねぇ」二人きりになった部屋のなかで、晴乃井先輩が口を開いた。「どうして、またインストしてくれる気になったの?」


 右ひざを両手で抱えた姿勢で、先輩は僕に尋ねた。


 まあ、気になるでしょうね。


 たしかに、晴乃井先輩から見て僕は、急に手のひらを返した一貫性のない男だ。あるいは、なにか魂胆があると不審がっているか……。どちらも違うのだが、そう思われても仕方がない。


 しかし、この決断に至った経緯を喋るわけにもいかなかった。


「単純な話です。数学のテストは僕が担当するべき、と思ったんです」


 なので急ごしらえで、建前を作り出す。とはいえそれは、実際の作戦内容にも関連のある話だったので、あながち全部がでまかせというわけでもない。


「ここ数日で先輩の学力はみるみる伸びていると思います。でも、数学の点数は伸び悩んでいる。そこで、考えたんです。先輩を『完全無欠の最強女子高生』にするには、数学のテストに限って替魂受験をするのが最も合理的だ、と」


 などと啖呵を切ったものの、言い換えれば、他の科目は先輩が解いた方がいいだろう、という判断もあった。僕が替魂することで、唯一高得点を狙えるのが数学だってだけだ。


 しかし、それで充分。先輩の苦手科目を僕が補うことで、総合的にかなり高得点、高偏差値が狙える。『完全無欠の最強女子高生』を作り上げるには、これこそ最善の策だ。


「しかも中間テストの日程的にも都合がいい。テスト期間初日の一時間目、というお誂え向きな時間割です。もちろん一年生も同時刻に現国のテストがありますが、通院を理由に追試に回してもらうようにします」

「ちょ、ちょっと待って。そこまでしなくても……」

「そこまでします」先輩の言葉を食い気味に遮る。「させてください」


 とそこで部屋の扉が開いて、種ヶ崎さんが入室した。


新室にいむろくん、凄くやる気みたいですよ。やらせてあげましょうよ」


 空のコップ三つと紙パックのりんごジュースが乗ったトレーを、ローテーブルに置いてから、種ヶ崎さんは言葉を続けた。


「元々は、私たちの計画だったんです。そこに、新室くんを誘った。それは本来なら断られても仕方がないような内容で、現に一度、彼は断っている。新室くんは賢い人だから。その時は、計画が失敗すると思ったんでしょう。でも、」


 彼女は空のコップを晴乃井先輩の手元に置いて、言う。


「新室くんは考えを改めた。これが何を意味するか、言わずもがなですよね」

「成功する確信があるってこと?」


 種ヶ崎さんが、ふふん、と微笑みを浮かべて僕を見た。


「突破口さえあれば、って君は言ってたもんね?」


 種ヶ崎さんは本当にあくどい人だ。僕の過去の発言を持ち出して、説明材料に使うなんて。とはいえ、僕も同罪か。先輩に嘘をついているんだから。


 本当の理由は、そんな合理的な理由じゃない。感情的なものだ。

 晴乃井先輩の凄さを皆に知らしめてやりたい、という願い、ただひとつなのだ。


 だから実のところ、現時点で成功する保証はない。


「ただし、実行するにしても、解決しなくてはならない問題がいくつかあります」


 僕は人差し指を立てて、言う。


「まず、『インスト』の持続時間、です」

 晴乃井先輩は、りんごジュースが注がれたコップを口に近づけながら首を傾げた。

「持続時間?」

 はい、と肯く。

「中間テストは、各教科一コマ丸々の四十五分間で実施されます。けれど、インストの持続時間は約二十四分。そのギャップにどう対処するか……そこを考えなくてはなりません」

「なるほど。それは、そうね」

「移動時間も考慮すると、僕の持ち時間は二十分もないでしょう」

「それだけの時間じゃ、全部解くのは難しい……」


 ただ、さしたる問題じゃない。僕はすでに対応策を用意していた。


「だと思います。なので、残りは晴乃井先輩の担当、つまり半分ずつ解答を分担するんです。一応、先輩の得意不得意はあらかた理解したはずなので、前半の時間で苦手な問題を潰せるよう尽力します」

「なるほど……」

「ここ数日、先輩の答案を採点した甲斐があったというものです」

「晴乃井さんの弱点を把握しているなんて、きしょいね」


 冗談なのかガチなのか、種ヶ崎さんがまたしても人聞きの悪いことを言った。ええい、スルーしてやる!


 さて、重要なのはここからだ。


「つぎに、僕の身体の隠し場所をどうするか。そこを考えなくちゃいけません」


 インスト、最大の欠点。晴乃井先輩の身体に乗り移っている間は、僕の身体が仮死状態になってしまう、という点だ。これに関しては、まだ打開策を思いついていなかった。


 発動時間が二十四分間という制限がある以上、なるべくテスト会場に近い場所でインストをしたい。しかし、校舎内に仮死状態の身体を放置するというのはリスキー極まる。なかなか難しい問題だった。


 そういうわけで、今日の議題の中心はこの点だと考えていた。策を出し合って、どうにか解決したいと考えていた。


 晴乃井先輩の顔を見る。すると彼女は神妙な面持ちを浮かべていた。


 まるで直前に挙げた議題よりも他に気にしていることがある、といった表情。と同時に、なにやら言いたげだった。ならば、と発言を待つ。しばらくして、先輩が口を開いて、


「そして最後に、あたしの意思、ね」


 言った。


「……まあ、そうですね」


 種ヶ崎さんに目配せ。彼女は小さく二度頷いて、下を向いた。


 たしかに、そこは最も重要だ。たしかに、晴乃井先輩は『完全無欠の最強女子高生』になることを望んでいる。一方で、替魂受験を提案したのは種ヶ崎さんだとも聞いている。


 いまの種ヶ崎さんの反応を見るに、それと代替案を提示した時の先輩の呑み込みの早さから推察するに、先輩はもともと替魂に拘っているわけでもないらしい。


 もっと言えば、替魂をすることで僕に迷惑がかかるのでは、という後ろめたさを感じていてもおかしくない。それは大いに不実行の理由たりうる。


 けれど、どうも杞憂だったらしい。


「なんて、もったいつけちゃったけど」


 晴乃井先輩はそう言って、右膝を抱えていた両手を解いて正座した。それから、


「よろしくお願いします」


 深く、頭を下げた。その動作に、僕も種ヶ崎さんもひどくうろたえた。


「え、ちょっと、晴乃井先輩……」

「やめてください。新室くんなんかに頭を下げないでくださいよ」


 なんか、という三文字が気になったけど、この際どうでもいい。僕も同感だからだ。


 それでも、先輩は頭を上げない。


「当日まで、あたしも出来るかぎりのことをする。他の科目は頑張って勉強するし、あとそうだ、身体の隠し場所……あたしにも考えさせて。絶対に、いい場所見つけておくから」


 その様は、懇願、ではない。少なくとも僕にはそう見えていない。先輩は、決してプライドを棄ててこの計画に縋りつこうとしているのではない。


 そうじゃなくて、先輩の言葉はもっと純粋なものに聞こえた。


「あなたたちの協力に、めいいっぱい応えたい。応えるから、あたし」


 たとえば、感謝、とか。そういうものに。


   ◇


 あれからすぐ先輩は帰宅した。少しでもテスト勉強をしたいから。そう言っていた。


 僕と種ヶ崎さんだけが残った部屋で、彼女が言う。


「新室くん。協力、ありがとう」


 なんて発言内容と裏腹に、相変わらずむすっとした表情だったけど。


「あ、いや。……別に」

「あんまこういうこと言いたくないけど、嬉しかったよ。たしかに、殴るよりもよっぽどいいやり方だと思う。晴乃井さんが全教科で高得点を取れば、先輩も思い知るはず」

「うん。こちらこそ、賛同してくれてありがとう」


 コップの中には、まだりんごジュースが残っていた。これだけ飲み切ったら帰ろう、と思い、コップに口をつけた。その時、種ヶ崎さんが声を出した。


「ねぇ」

「? なに」

「新室くんって、思ったよりも不思議だよね」


 種ヶ崎さんは深く息を吸い込んでから、そう言った。


「…………不思議、かな」

「うん。奇妙だよ。見ず知らずの人のために、普通ここまでする? 私ならしないな」

「勧誘した側の発言とは思えないね」


 思わず苦笑した。君の方が僕よりも献身的ですがな。どの口が言う。


「君さ。晴乃井さんに何を重ねて、何を託しているの?」

「……? 質問の意味が分かんないんだけど」

「だって、私にはそう見えるから。晴乃井さんに協力することで、君は君の中にある何かを満たそうとしている」


 別に、そんなつもりはない。だから、投げられた疑問が、いまいち腹落ちしなかった。


 ただ……しいていえば、だ。


「頑張ってきたことが報われないことや、認めてもらえないことほど、不幸なことってない。とは、思うから」


 ふぅん、と種ヶ崎さんが声を漏らした。納得したのか、どうなのか。

 それは、種ヶ崎さんのみぞ知ることだけど。少なくとも、


「ま、いいや。私が期待していることは、ただひとつだし。絶対、成功させてよね」


 そのエールだけは、真正面から、しかと受け取った。

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