011 なのに、君が止めた
校舎内は静かだった。普段ならば、運動部の掛け声や男子生徒たちの笑い声が響く時間帯だが、さすがに皆テスト勉強に忙しいんだろう。もちろん、学校に残って勉強をする人ばかりじゃないから、昇降口に向かう生徒はままいた。僕はそのうちの一人だった。
上履きを脱ぐ。今日もまた、
スクールバッグの中をちらり覗く。そこには、今日の分の自作問題集と、採点を終えた昨日の分が入っている。今日からは、テスト本番を意識した模擬試験的なものを解いてもらうつもりだ。
これを解いてもらって良い得点が出れば、当日もかなり期待できる。そして、その確率はけっこう高いと思っている。贔屓目無しに、晴乃井先輩の努力が、目に見えて現れてきているのだ。
嬉しかった。先輩の力になれている気がした。という実感から、この感情はくるのかもしれない。身体が軽い。僕は、すぐに晴乃井先輩に会いたかった。
外履きを履く。上履きをげた箱にしまった。それから、スズナリモールへ向かう足を一歩、前に踏み出した。
静寂がこだまする校舎に大声が響き渡ったのは、ちょうどそのタイミングのことだった。
「ちょっと待ってよ!」
それは女生徒の声だった。荒々しい攻撃的なトーン。僕に向けられたものじゃない、というのはすぐに分かった。それでも、ふと足を止めてしまった。
ドタドタっ、と慌ただしい足音がいくつも鳴った。どうしても気になって、僕はその方向へと振り返った。その瞬間、
「待てってば!
聞こえてきたのは、聞き覚えがありすぎる名前だった。
そして視界に飛び込んできたのは、これまた見覚えがありすぎる顔。
廊下を駆ける種ヶ崎さんが見えた。
それを追いかけるのは、数名の女生徒だった。そのうちの一人が、種ヶ崎さんに追いついて、左手を掴んだ。種ヶ崎さんの足が止まる。
そこで僕はようやく気付く。見覚えがあるのは、種ヶ崎さんだけじゃない。あれはたしか、前にスズナリモールのカフェで見かけた、女子テニス部の人たちだ。
「話が違うんだけど!」種ヶ崎さんの腕をつかんだ女子が、またもや大声を出した。「辞めるってなに? おかしくない? まだ入部してから一週間も経ってないんだけど」
「……思ってたのと違った。それじゃ理由になりませんか」
「でも、入部したいって言ったのはあんただよね?」
「…………」
「なんとか言えよ。黙ってれば見逃してやるとでも思ってんの? ねえ」
険悪な雰囲気に思わず、げた箱の影に隠れてしまった。
最初から見ていたわけじゃない。それでも、会話の内容に見当がつく。
どうやら種ヶ崎さんは……テニス部の退部を申し出たらしい。
「ねぇ、種ヶ崎ちゃん」と声を出したのは、さっきとは別の女生徒だ。「あなた、別の部活も掛け持ちしているってほんと?」
「はい。それがなにか?」
「は? おちょくってんの? なに、しつこく勧誘されて面倒だったから、一瞬だけでも入部すれば溜飲下げてもらえっかな、みたいなこと? ナメてんの?」
「だったら最初からそう言えば? こんな性悪なことしなくてもさ」
女生徒の発言に、また別の女生徒が乗っかる。完全に、種ヶ崎さん対多数の構図が出来上がっていた。
種ヶ崎さんは左手を掴まれたまま、先輩たちから視線を外して、顔を斜め下に向けていた。対話するつもりはないですよ、という主張にも見えた。
それが、さらに油を注ぐことになったのだろう。
先輩のうち一人が、「てか、」と声を出して、
「ウチらさ、過去問用意してあげたよね? あんたのために。なのに、すぐ『ハイさよなら』って、そんな薄情なことある?」
「そもそも、高二の過去問って何に使うわけ? あんた一年でしょ。まさか、からかってんの?」
彼女たちのやりとりは、さらにこじれていく。種ヶ崎さんが、浅く呼吸をした。
「からかってないです。放してくださいよ」と言った後で掴まれた手を振り払った。「というか、説明する必要あります?」
「あるでしょ。ウチらを自分勝手に利用してさ。振り回されんの迷惑だし、やめろって言ってんの」
種ヶ崎さんは、またもや好戦的な態度を見せた。
まずい。ただごとじゃないかもしれない、と思った。
テニス部の先輩たちは、どんどん怒りを露わにしていく。ヒートアップする感情は、表情にも声色にも表れている。無関係とはいえ、素直に怖い。
と、まるで他人事として逃げ切ろうと思っていた僕の心を、
「じゃあ訊くけど。晴乃井るると絡んでるのを見かけたんだけど、あれなに?」
長い金髪を低い位置で結んだ女生徒の言葉が、撃ち抜いた。
種ヶ崎さんはその先輩に向き直って、「晴乃井さんが、なに」と小さくこぼした。
「いいや? 別に、どーでもいいんだけどさぁ?」
種ヶ崎さんの発言を食うように、金髪の女生徒が声を出した。
「あの子、同じクラスなんだけど。芸能人気取りかなんか知らないけどさ、あんま学校こないでしょ? なのに最近、駅前のカフェで見かけちゃってさ。なにしてんのかなーって覗いてみたら、勉強してるわけ。ま、テスト前だからフツーっちゃフツーだけど、やけに違和感? っつーか、気になってさ。それでちょっと考えて、ピンときたんだよね」
それから、種ヶ崎さんを睨みつけて、
「そいや、先輩たちがあんたに過去問渡したあとだったっけなーって」
「…………」
「ねぇ。あんた、晴乃井るるに都合よく使われてない? それかあいつに入れ込んでる? まあどっちでもいいんだけど」
種ヶ崎さんは何か言いたげに、拳を強く握りしめていた。
「正直さ、ウチ、あの子嫌いなんだよねー」
対して、金髪の女生徒は挑発するように言った。
「周りをナメてるっていうか、下に見てるっていうか。そういうの、伝わってきちゃうんだよねぇ。仕事忙しいのは分かんだけど、過去問使って楽しよーとしてるってことでしょ? そういうとこ、癇なんだよねー。あの子のプライドのために、ウチら振り回されたってわけ?」
「あのっ……」
「だいたいさあ、なーんか顔がいいからって持て囃されてるけど、そういう傲慢な感じとか、みんな気づかないんかなあ」
「…………」
種ヶ崎さんの肩が震えている。拳を握りしめる力が強くなっている。
まずい。そう思ったときには、種ヶ崎さんが動き出していた。
顔を上げ、そして、先輩に殴り掛かろうと、
「悪いことは言わないからさ、あんたのためにも、あいつとは関わらない方が──」
拳を、振り上げたのだ。
だから、僕は咄嗟に走り出した。そして、叫ぶ。
「種ヶ崎さんっ! やめてっ!」
種ヶ崎さんの視線がこちらを向く。刹那、拳の動きが止まる。その隙を突いて、僕は思いっきり、
「──ッなっ」
種ヶ崎さんに飛びかかった──半ば、事故的に。
勢い余って駆け出したばっかりに、げた箱の下に敷かれたすのこに躓いた、というのが正しい。足が地面から離れて、身体がふわっと宙に浮いて、そのまま──
「倒れ──」
「ッ……!」
気づけば、種ヶ崎さんの身体に乗っかってしまっていた。
慌てて上半身を起こす。顔を上げれば、そこには僕らを見下ろし、ドン引きの表情を浮かべた女テニの面々がいた。
「どいて」の声が聞こえて、下を見る。種ヶ崎さんが、僕を睨みつけていた。「どいて、って言ってんでしょ……!」
彼女の怒りの矛先は、いまは僕へと向いていた。けれど好都合かもしれない、と瞬間的に思った。だから僕はすぐに、
「いくよ」
と種ヶ崎さんの腕を掴んで、引っ張り上げた。
「……はぁ?」
種ヶ崎さんの静かな怒りを、いったん無視。そして、
「先輩方、すみません! 僕たち、これから用事があるんです」
種ヶ崎さんを連れて、その場から逃げ出した。
「……ねぇ、まじで邪魔しないで」
当然、彼女は抗議の声を出す。それでも気にせず、少しでも速く走る。
「ねぇってばっ! 聞いてんの」
それでも、どうでもなんでも、種ヶ崎さんを連れて、走る。
「
「…………」
「やめてッ……」
「……………………」
「放してって言ってるでしょ!」
正門を出たあたりで我慢の限界がきたのか、種ヶ崎さんは僕の手を強引に振りほどいた。
種ヶ崎さんの数歩先で、僕は足を止めた。
「ほんと、なんなの?」
振り向けば、彼女はさきほど先輩たちに向けていたそれよりも、強い怒りを顔に滲ませていた。
「……君のことさ、実はこれまで我慢してた。計画を変な方向に捻じ曲げて、言うこと聞いてくれないしなんなのって思ってた。それでも我慢した。けど……もう無理」
それから、喉を震わせながら息を吸い込んで、
「なんで止めたの!」
叫んだ。
「ありえないでしょ。あの人、晴乃井さんの悪口言ったんだよ? 晴乃井さんのいいとことか全然見ようとしないくせに嫉妬して、偏見で喋って……。ぶたなきゃいけなかったと思う。分からせなきゃダメだったと思う。なのに、君が止めた。どういうつもりなの!」
種ヶ崎さんは、一気にまくしたてた。肩を大きく上下に揺らし、呼吸をしている。
ハッキリ言えば、これは喧嘩だ。種ヶ崎さんの言い分は分かる。でも僕にも反論がある。
そもそも、僕を巻き込んだのは君だ。とても正当とは言い難いやり方で、僕を思い通りにしようとした。本来、僕はその場で怒るべきだったのかもしれない。それでも可能な限り譲歩して、君の願いに寄り添ったつもりだ。僕なりのやり方で、晴乃井先輩の力になろうと努めたつもりだ。その結果がこれか? あまりにもひどい。君はひどいよ。
晴乃井先輩のことしか眼中にないんだ、君は。僕に同じ熱量を求めるのはムリだ。道徳も理性もすべて棄てて、晴乃井先輩に尽くせ、だなんて無茶だ。ふざけてる。そう思うさ。
しかし……いやだからこそ、だ。
まったく、なんというか。本当に自分でも不思議なのだけど、
「種ヶ崎さん」
「なに?」
「僕だって、許せないよ」
僕も、君に同感なのだ。
「……」
「あの人は、なんも分かってない。晴乃井先輩はちゃんと努力する人だし、ちゃんと葛藤している人だし、向上心もあって行動に移せる人だし……とにかくいい人なのに」
「……なに? なんなの? 新室くん、晴乃井さんと出会ったばかりだよね? それなのに、なんでそんな分かった気になってんの」
「そうだよ。僕だってそんなに知らない。だったら、あの人はもっと知らないはずだ!」
いつの間にかヒートアップしていた自分に気づく。さらには、その溢れる熱を止められない自分にも気づいた。けど、自覚したとて自制が利かないなら仕方ない。突き進め。
「なら、分からせなくちゃいけない。本当の晴乃井先輩を知ってもらわなきゃ!」
「……そうだよ。だから私、殴ろうとしたんだけど」
「でも暴力は、ダメだよ」
「こういう時に優等生なの、ムカつく」
「だからッ!」
怒りに任せて、けれど怒りに支配されないように、一度、深呼吸を挟む。
その瞬間、あるアイデアがふと頭によぎった。
バカバカしい。改めて、そう思うよ。
けど、晴乃井先輩のこと、ああやって言われるのが嫌だった自分がいたから、そのバカバカしいアイデアを形にして、いっちょやり返してやりますかあ、という、
「晴乃井先輩には、『完全無欠の最強女子高生』になってもらおう」
覚悟を、決めた。
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