Case.1 替魂受験(後編)
010 先輩の隣に座るためのカフェオレ
5
中間テストまで、あと一週間。
高校に入って初めてのテスト期間が目前に迫り、クラスの雰囲気も徐々に重たくなっていた。
朝、一時間目の授業が始まる前から自習に励むクラスメイトは増え、昼休みのレクリエーションも雑談から英単語クイズに変わり、ほとんどの部活動が休みになり、放課後の自習室は人で溢れた。
あの
「なんだよ、
授業がすべて終わって、クラスメイトが各々教室を出る準備を始めたとき、峰岸は机の上に勉強道具を一式取り出して、テスト勉強を始めた。それを見て「頑張るねえ」と声をかけたら、こう返されたわけだ。
「言っとくがな、俺は勉強しているんじゃねえ。伏線を張ってんだ」
意味が分からん。
「その心は?」
「いいか。人との出会いは往々にして偶然だ。あらかじめ用意された運命なんてものはねえ。すべてガチャなんだ。で、だ。近い将来、めちゃくちゃ好みな美しい女性と偶然の出会いをする、と仮定して。その子のタイプが、勉強が得意な男性、だったらどうするっちゅー話だよ」
おー、すげ。捕らぬ狸すぎるわ。峰岸のこの発想力、目を見張るものがあるね。
「俺はすべての可能性を取りこぼしたくないんだよ。そのために、日ごろからあらゆる伏線を張ってるってわけだ。分かったら、集中させてくれ」
まあ動機がなんであれ、努力はいいもんだ。何も言うまい。
僕はスクールバッグを肩にかけて、教室を出ようとした。
「なあ。お前はどこで勉強すんだ? 自習室にでも行くのか?」
後ろから、峰岸に質問された。僕は返答を少し悩んで、適当な嘘を用意して、
「んー。家、かな」
スズナリモールへと、駆け出していく。
◇
スズナリモールの一階、カフェ。
ここ数日の僕は、この場所に足を運ぶのが日課になっていた。
ただし、カフェオレを飲みに来たわけじゃない。なんなら席にも着かない。ここで毎日のように勉強をする、
「あ、天才クン。おつかれ~」
店内いちばん奥の席に座る先輩が、僕を見つけて手を振ってくれた。
浅く会釈をして、先輩の元まで行く。そして、バッグの中から準備してきたプリントを取り出し、手渡した。それは、晴乃井先輩や
過去問から抽出した頻出問題や、出題される可能性が高い英単語やらをまとめたもの。我ながら、かなり精度が高いと思う。
「今日も、ありがとね。じゃ、これ昨日の分」
と晴乃井先輩は解き終わったプリントを僕に渡した。このあと僕が採点して、苦手分野を洗い出し、明日分の問題集の参考にする。
ここ数日の僕の役割は、晴乃井先輩専属の個別塾講師みたいなものだった。
晴乃井先輩は、いったん休憩と言った具合でぐぐーっと背を伸ばしたあとで、コーヒーを一口飲んだ。
「それで……今日ももう帰っちゃうの?」
「ええ、まあ」
「ふーん。天才クンもテスト勉強あるんじゃないの? ここで一緒にやってけばいいのに」
正直、願ってもないお誘いだ。晴乃井先輩と一緒にテスト勉強ができるなんて、全校生徒が羨むようなイベントだろう。僕だってしたいさ。けど、
「僕は自宅がいちばん落ち着くので。すみません」
晴乃井先輩には、ちゃんと嘘をついて断る。
これは、僕が自分に定めたルールだった。晴乃井先輩は、学校一の美人で、誰しもが憧れる存在。まさか、放課後のカフェで男子生徒と一緒に勉強していた……なんて噂が出回ってはならない。
だから僕は、用事が済んだらすぐにカフェを出るようにしている。
「うん、そっか。じゃあ、また明日ね」
「はい、また明日。頑張ってください」
「頑張るよ。天才クンがここまでしてくれたんだもん。絶対、良い点数をとるから!」
なんて、真っすぐな目で見つめられてしまうと、さすがにたじろいでしまう。
顔が火照る前に、それがバレる前に、僕は慌ててカフェの外へと向かう。
出口の前で立ち止り、振り返る。
見れば、先輩は僕と別れてすぐに勉強を再開していた。
晴乃井先輩は、かなりの頑張り屋だと思う。
僕がカフェに顔を出すとき、彼女はいつも真剣な顔をしてプリントに向き合っている。怠けている様子を一度もみたことがない。
それに、毎日解いてもらっている問題集からも彼女が努力している様子が垣間見える。正答率が、日に日に上がっているのだ。
もともと、要領はいい方なのかもしれない。いっても
翌日も、僕はカフェに足を運んだ。
到着したのは、午後四時過ぎのことだった。晴乃井先輩はもう店内にいて、相変わらず真剣な顔をして熱心に問題集に向き合っていた。
それでも、僕を見つけるやいなや、ぱぁっと笑顔を咲かせて手を振ってくれる。
「こっちこっち!」
まるでループものの一幕みたいに、僕もまた浅い会釈をして先輩の席へと向かう。
「どうですか、進捗は」
訊くと先輩は、んー、と短く唸ってから、机の上のプリントを指さした。
「ここ。やっぱりわけわかんないんだよねぇ」
それは、数学の問題だった。昨日採点した問題でも、先輩が間違えていた部分だった。
どうやら先輩は数学が苦手科目らしい。ほかの教科は、それなりの成果を出しつつあるが、数学の攻略だけは難航していた。
「ああ、それは……これです」と僕はカバンの中から市販の参考書を取り出し、該当ページを開いて、「この公式を使うんです。一見、別の範囲の問題に見えますが、見方を変えれば──」
と説明している途中で、先輩が噴き出した。
「? なんです? 僕、変なこと言いました?」
言うと、先輩は右手をはらはらと振って、
「ううん、違くて。天才クンって、やっぱり天才じゃん、って思ってさ」
「どういうことですか」
「いやいや。だって、あなた平然と解説してるけど、それ二年生の範囲だよ?」
「……まあ、毎日のように作問してますから。なんとなく理解してきちゃって」
たしかに、おかしな話だ。一年後に履修する範囲の問題を、いつのまにやら理解しているんだから。しかしこれもまた、僕が天才だから、ってわけじゃない。もともと数学が得意なのもあるが、単純に、このテスト範囲の問題に慣れてきただけなのだ。
「ねぇ、今日もすぐ帰る?」
先輩が尋ねる。もちろんだ、と僕が答えようとしたその時、
「あたしさ、まだ分からない問題あるんだよね。今日ぐらい付き合ってくれないかな」
晴乃井先輩の上目遣いが、僕の心を撃ち抜く。断る言葉をこぼれ落としてしまった。
「それに……なにも買わないで話してるとさ、ほら、お店に悪いじゃん?」
たぶんそれが、僕にはちょうどいい口実に思えてしまったんだろう。
一緒の席で勉強するわけにはいかない。どうしても周りの目が気になる。
とそこで、先輩の隣の席が空席であることに、気づく。
「……一時間だけ、なら」その席に鞄を置いて、「カフェオレ買ってきます」
「うんっ!」
やっぱり火照る顔をみせたくなくて、僕は早足でカウンターへと向かった。
◇
「そう、順調なんだ」
その夜、僕は種ヶ崎さんと通話をしていた。この形で計画に参加すると決めてから、連絡先を交換し、たまに情報共有をしている。
「いいね、君は。毎日晴乃井さんに会いに行けて。私なんか、ずっと興味のないスポーツやらされてるのに……。いくら晴乃井さんのためとはいえ、ちょっと辛いよ」
まあ、情報共有とは建前で、種ヶ崎さんが恨み節を僕にぶつける時間でもある。
「テスト期間なのに、部活あるんだ」
「あるところはあるの。私、過去問を貰うために七つの部活に入ったんだけど」
七つ。僕が指示しといてこんなこと言うと怒られそうだけど、ギャグかと思った。
「テニス、バド、アーチェリー、バスケ、スケボー、バレー、演劇」
ガチだった。いやまて、演劇はスポーツなのか?
「演劇は体育会系文化部、って自称してた。いちおう、身体使うし。あと、お母さんがスタントウーマンだってバレてるから、重宝されちゃって」
とにかく、と種ヶ崎さんは言葉を継ぐ。
「これが私の役割だって分かってるから、新室くんは新室くんの役割を全うして。絶対に、晴乃井さんに恥をかかせないで。一世一代の大勝負なんだから」
まかせてよ、と返事。そして電話を切った。
そのあとで僕は深く呼吸をして、自室の天井を仰いだ。
なんだか、忙しい毎日だ。受験生の頃を思い出す。
あの頃、僕は充実していた。目標を達成するために、できることはなんでもした。持ちうる時間をすべて目標のために費やして、一心不乱に突き抜けた日々だった。
その果てに現在があって、消耗試合のような高校生活がある。
なのにどこか、この生活を楽しんでいる僕がいる。
それを自覚した途端、心臓が締め付けられるような気分になった。
「……。これが終わったら、また、いつも通りに戻ろう」
夜の自室で、ひとりごちた。
そうしよう。元に戻ろう。そのためにも、晴乃井先輩のテストを成功に導こう。よし、と頷いて、勉強机に向かう。今日は火曜日。月曜日から始まるテスト期間までまだ時間がたっぷりあるのだ。精一杯、やれることはやろう。
このまま、突き抜けよう。あの頃のように。そう、決意した。
けれど、流れは変わる。木曜日の放課後の出来事だった。
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