009 川に沈む夕、春風が傷を撫でる
どうだろう。納得してもらえたろうか。
たぶん彼女も、晴乃井先輩の反応を待つことにしたんだろう。
しばらく続いた沈黙を裂いたのは、テレビの音だった。晴乃井先輩が突然立ち上がり、かと思えばおもむろにテレビの電源を入れたのだ。そのあと、ソファに腰掛けなおして、机の上のデンモクを手に取って操作し始めた。
「晴乃井先輩……?」
まだ答えは聞いていない。怒らせてしまったのか、と心配になり、声をかけた。
すると先輩は、デンモクを机に置いた。直後、ぴぴぴ、という音が鳴って、曲が流れ始めた。そしてマイクを手に取り、
「わっかんないから、歌うわ」
なんて、あっけらかんと言い放った。
「それって、やっぱりこの方法じゃダメってことですか……?」
イントロが流れている。前奏三十秒、と画面に表示されている。
晴乃井先輩は首を横に振った。
「そうじゃないよ。あたし、それけっこーいいアイデアだと思う。てか、できればやりたいなって思った」
「え、」
「うん、本気だよ。でも、成功するかどうか分かんない。上手くいく自信はない。だって、あたし頭良くないしさ。
先輩が小さく呼吸を挟んで、言う。
「それが、わかんない」
そして立ち上がり、マイクに向かって、
「でも、やってみよっかな! あたし!」
晴乃井先輩は叫び、満面の笑みを見せた。
種ヶ崎さんの方を向く。すると、彼女は大きな溜息をついた。
「予定と違う。
といったあとで、口角を小さく吊り上げた。
「けど、晴乃井さんがやるって言うなら、反対する理由はないかな」
◇
つまるところ、僕が持ち込んだ代替作戦は、晴乃井先輩に見事承認されたってわけだ。
あのあと、作戦会議とやらは事実上の流れになって、二時間のカラオケタイムに突入した。最初はひたすら晴乃井先輩が歌って、たまに僕と種ヶ崎さんも歌って、正直学校一の美人の前で歌声を披露するのは恥ずかしかったけど、慣れてくれば楽しくもあった。
少しだけ驚いたのは、晴乃井さんの歌い方だ。先輩は喉を嗄らすほどに、全力で歌っていた。音程なんて気にしないみたいに泥臭く、声を張り上げて、楽しそうに歌った。
カラオケボックスを出ると、日が暮れかかっていた。
三人で川沿いの道を歩いていると、向こうに河川敷へ下りる階段が見えた。それでテンションが上がったのか、晴乃井先輩がおもむろに駆け出した。
晴乃井先輩の背中越しに空のオレンジが映えて、美しい。
「なんか、晴乃井さん楽しそうで嬉しい」
隣を歩く種ヶ崎さんが呟いた。彼女はどこか、保護者みたいな暖かい眼差しを、晴乃井先輩に向けていた。愛情に満ちた目だ。
種ヶ崎さんは晴乃井先輩のことが好きだと言った。キスしたいくらい。なるほど、彼女の表情を見ていれば、その言葉がどこまで本気かが伝わってくる。
「種ヶ崎さんは、よかったの?」
「なにが」
「替魂受験、しないことになったけど」
それで僕は、たぶん訊かない方がよかったことを口にしてしまった。
種ヶ崎さんは、呆れたように小さく嘆息した。
「それ、新室くんが言う?」と言ったあとで、「今後の君の活躍次第かな。大切なのは目的を達成することだよ。だから責任もって、予定通りの成果をあげてよね」
目的、ね。分かってますよ。
「うん。ちゃんと、晴乃井先輩に高得点を取らせてみせる」
すると種ヶ崎さんは、大きく首を振った。
「そうじゃない。晴乃井さんを完全無欠の最強女子高生にすること。そして、楽しい青春を送ってもらうこと、だよ」
そのセリフが心に引っ掛かった。
楽しい青春を送ってもらうこと──そういえば再会の時にも言われた気がする。
遠くを見れば、河川敷へ下りる階段の前で晴乃井先輩が大きく手を振っていた。はやくおいでよ、という具合に、僕たちを手招くように。楽しそうに。
そうだよ。充分、先輩は楽しそうじゃないか。
「ねぇ、種ヶ崎さん──」
と呼びかけたとき、彼女はもう晴乃井先輩の元へ駆け出していた。質問のタイミングを見失った僕は、諦めて早歩きを始めた。
晴乃井先輩に追いつくと、彼女は川沿いまで下り始めた。僕らも後に続く。
「今日はとってもいい日だった気がするな」
「ええ、ですね。カラオケって、悪くないです」
僕が介入するまでは二人きりの秘密を共有していた、仲のいい先輩と後輩の会話を、僕は数歩後ろで見守っていた。二人には、二人だけで分かち合う心の空間みたいなのがあるように見えて、それが羨ましかった。
だから、ちょっとだけ欲求が芽生えたのだろう。
「やっぱ人と過ごすっていいわ。一緒にいて安心できる相手だと、よけいにね」
そう話す晴乃井先輩に近づいて、僕は話しかけた。
「仕事場ではどうなんです。いないんですか、そういう人」
他愛もない世間話を振った、そのつもりだった。
先輩は芸能活動に忙しいと聞いている。それであまり学校にこないとも。とすれば、主に属するコミュニティは芸能界で、仕事場だと思った。そのことについて、軽く尋ねてみようと思っただけなのだ。
もちろん、悪気なんてなかった。
だから、まさかその発言が────
「え、っと。天才クン、なんの……」
「新室くん、ちょっと」
────先輩を傷つけることになるだなんて、思わなかった。
己の愚かさに気づくのは、もう少し後だ。予兆はあって、まずは種ヶ崎さんの表情が強張ったこと。次に、先輩が俯いて、
「あーね。……そっか、あなたには話してなかったっけか」
と言葉を零したこと。
日が落ちていく。オレンジ色が薄闇に染まっていく。あたりの空気は重たくなって、その隙間に、ぽとり落とすようなボリュームの声で、
「天才クン、さ」晴乃井先輩は言う。「あなたは、あたしのこと誤解しないで欲しいんだ」
先輩がこちらを向いた。気丈に振る舞うような、作り物の笑顔を張り付けているように見えて、僕は混乱した。
「誤解、って……」
「あなたさ。あたしのこと、もとから完璧な印象だ、って言ってたじゃない?」
「あっ、ええ。はい」
「うん、だよね。よく言われる」
よく言われる、だなんて普通は冗談か嫌味のどちらかになる返答だ。でも、発言者が晴乃井るるじゃ、心から同意するほかない。
けど……その同意が、彼女の口角を歪めた。
寂しげな表情。どこか、そう見えた。
「それがね、ちょっと、嫌なの」
それが……嫌?
わからないな、と思った。周囲から、無条件で好印象を抱かれるなんて、羨ましいことじゃないか……とそこまで考えて、僕はハッとする。
まさかこの人も──同じなのだろうか。
「あたしの歌、どうだった? カラオケで聞いてくれたでしょ? 感想、正直に言ってよ」
「いや、普通によかったです、けど」
本当のことを言ったつもりだった。
でも、先輩が求めている答えは少し違う気がした。もっと心の奥から曝け出すような、忌憚のない意見。たとえば、質問者が晴乃井るるじゃなかったら、という前提での感想を欲しがっているような目。
「じゃあさ。上手いか、下手かで答えて」
ならば、と僕は答える。
「そりゃ、上手いかどうかって話なら……まあ、普通──」
「でしょっ⁉」
急に、晴乃井先輩の表情が柔いだ。その言葉を待っていました、と言わんばかりに。
「そうなんだよ。あたし、歌べつに上手くないんだよ。でもさ、あたしのビジュアルでいったらさ、上手くなくちゃダメじゃない?」
「……。それ、どういう類の自虐ネタなんですか」
「自虐じゃなくて……」
そこまで言いかけて、先輩は向こう岸を見やった。その表情は、またしても陰る。
「マジで、上手くなくちゃ納得してくれないの。みんな」
その声色が、表情が、僕の胸を貫いた。
川のせせらぎ、雑草が揺れる音、そばを歩く人々の談笑、それらの音が一気に消え去っていく感覚に襲われた。晴乃井先輩の呼吸音しか聞こえないような、先輩の顔しか視界に入らないような、世界から彼女の存在だけが切り抜かれたような錯覚に陥った。
「勉強もそう。スポーツもそう。冗談言うときもそうだし、クラス会のときとかもやけにあたしの意見って注目される。晴乃井るるは期待を超えてくる、ってなぜか確信されちゃうんだよね。自分で言うのもなんだけど、このルックスのせい。美人だなんだ担ぎ上げられて、学校一のビジュだって持て囃されて……どうしてか、内面まで学校一だって期待される」
「…………」
「それがあたしには、結構しんどい」
言い切ったあとで、晴乃井先輩は川の方へと歩き出した。
「まーでも? 人間見た目が大事とか、第一印象がどうとかよく言うじゃない? だからみんながそう思うのも分かるんだ。そこで発想の転換よ。だったら、本当にそうなっちゃえばいいじゃん、ってさ。外見も内面も、学校一になっちゃえって。『完全無欠の最強女子高生』になっちゃえば、全員納得してくれるじゃん、ってね。ひらめいたわけなんだな」
晴乃井先輩が、離れていく。距離にして数メートル。それでも彼女の後姿は儚げで、いまにも消え去ってしまいそうに見えた。
隣で、種ヶ崎さんの呼吸音が鳴った。
「わかった? 君の罪」
罪、だなんて大袈裟な、という防衛本能が働きそうになって、グッとこらえる。いいや、これはまぎれもない罪だ。
僕は何も知らなかったのだ。先輩の苦悩も、この計画の本懐も。
種ヶ崎さんが、告げる。
「晴乃井さんはね、苦しいの。だって、みんなが期待するから。それに応えようと必死に生きてる。でも、そんなに完璧にはなれない。人間だもん。なのに、周りは勝手に完璧だって思い込んで、あろうことか存在しない事実まででっちあげる」
そして、僕の顔を見て、
「晴乃井さんが芸能活動しているなんてウソ、誰が言いだしたんだろうね」
僕の愚かな思い込みを、一直線に貫いた。
「新室くん、違うんだよ。晴乃井さんが学校に行かない理由はそうじゃないの。もっと複雑で、普遍的で……つまりね、晴乃井さんは」
私服姿の晴乃井先輩が、川沿いに佇んでいる。
晴乃井るる、という女生徒が高校一の美人と名高く、学年学級問わずにモテまくっている、というのはよく聞く話だし、僕もそれぐらいのことなら知っていたが、彼女があんな表情をするなんてことは、いま、この場で目撃するまで知るよしもなかった。
知ろうともしていなかったんだ。
「たくさん人がいる空間が、学校が、怖いの」
春風が、先輩の長い髪を撫でた。
【Case.01 替魂受験(後編)へ続く】
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