005 脅迫はファーストキスに入りますか?

「ッ……! な、なんっ」


 指が、動く。僕の……違う、晴乃井はれのいるるの皮膚の上を伝って、それはゆっくりと布の下へ、下へと入り込んでいく。これ、マズいんじゃないか。この子、いったい何をする気だ……助けを呼んだ方が──という僕の思考を先回りしたのか、種ヶ崎たねがさきさんは左手の人差し指を唇の上で立てた。


「しー、ダメだよ。誰か来たら、マズいよ」と言って彼女は、床に転がる方の僕に目をやった。「新室にいむろくんの身体、見つかっちゃう」


 ハッとした。そっちの僕は仮死状態にある。確かに、これが見つかるのは避けたい。


 でも、いやしかし……!


「種ヶ崎さんッ、君はいったい──」


 と抵抗の声をあげるべく動かした唇に────やわらかいものが、触れた。


「……!」


 咄嗟に目をつぶった。だから、この身になにが起きているかを判断するための情報は、感触以外にない。その前提で回答しよう。


 種ヶ崎さんが、僕にキスをしたのだ。


 長い、長いキスだった。下唇を食むように優しく動く種ヶ崎さんの唇に、身体が火照る。んっ、という種ヶ崎さんの声が漏れて、後ろに重心が倒れた。後ろ手を床に着く。すると両頬に冷たい体温を感じた。見なくともわかる、種ヶ崎さんの手のひらだ。


「っはぁッ……」


 体感では二十四分よりも長く感じたそれが終わり、僕は目を開けた。そのまま後ずさり、種ヶ崎さんの顔を見る。


 彼女は、恍惚とした表情を浮かべて、目線を斜め下へ落とし、


「ふふっ、」左手の指で、前髪をいじっていた。「晴乃井さんと……しちゃった」

「た、種ヶ崎……さんっ」

「新室くん、ご協力ありがとう」

「な、なにがッ……なにを、君、いま、自分がなにをしたか分かって……」

「もちろんだよ」言って、種ヶ崎さんはこちらを向いた。「私の、本気度の証明」

「本気度……?」

「そう。青春を攻略する計画、新室くんに手伝って欲しいって言ったでしょ。私ね、晴乃井さんが高校生活を楽しめるような環境を、本気で作ってあげたいの。でも、言葉で言っても陳腐になると思って、だから態度で示したの」


 種ヶ崎さんが、ぱんぱんっ、と両手を叩いた。


「ほら、新室くんを誘っただけで任務完了、って風にはなりたくないし、思われたくないでしょ。もし君が協力してくれるなら、私も精一杯頑張るから。頑張れるから、っていうことの証明」


 混乱が解けない。キスがなんの証明になるのだ、という疑問が浮かぶ。


 そして種ヶ崎さんは、


「私、晴乃井さんが大好きなの。キスしたいくらい、好きなの」


 スマホの中で、アニメは流れ続けている。砂時計の砂は、まだ残っているらしい。


「だから、晴乃井さんのためならなんだってするの」

「……ははっ」


 笑いが込み上げてきた。こんなの、笑うしかないでしょ。


 種ヶ崎さんが左ひざを抱えた。こちらを見つめて、首を傾げたあとで、言う。


「改めて、学年一天才の君にお願いしたいことがあるの。話していいかな?」


 僕は無言のまま、彼女の言葉に耳を傾けることしかできない。


「晴乃井さんはね、学校一の美人で、才色兼備で、人格者で、誰もが噂する人気者。でも実際は、そんなに完璧な人なんてこの世にはあまりいない。少なくとも、晴乃井さんはそこまでじゃない。けど、皆が期待する通り……ううん、期待以上の成果をあげたがってる。そこで、私は思いついた」


 それから、


「二週間後に、中間テストがあるでしょ? それ、君が代わりに受けて」

「……は?」

「いわゆる、カエダマ受験、ってやつだよ」


 ああ、そういうことかよ。

 僕はようやく、計画に協力して欲しい、という言葉の意味を知った。


「それってもしかして、インストを使って……ってこと、」


 種ヶ崎さんが肯いた。


「晴乃井さんのテストを、君が代理で受ける。普通なら、性別も見た目も全然違う君に替え玉をお願いするのは無謀だけど、晴乃井さんにはインストがある。晴乃井さんの身体で、君の魂が受験するの。私たちにしかできない、絶対にバレない、替受験、だよ」

「それ……僕が呑むと思ってるの?」

「うん、断れないはず」

「どうして」

「だって新室くん、晴乃井さんの身体を使って、私にキスしたでしょ?」

「なっ……!」


 冗談じゃない。


「逆でしょ、種ヶ崎さんから……」

「君と私の言葉、晴乃井さんはどっちを信じると思う? 首席合格者なら、これくらいの問い、簡単でしょ?」


 晴乃井るるのためならなんでもする、と彼女は言ったが、まさかここまでとは……。この子、大人しそうに見えてめちゃくちゃ悪賢い……。


「新室くん。私たち、この二十四分間でしたのは能力の説明と、君の勧誘だけ。そして、君は快く引き受けた。それでいいよね?」


 たしかに、この勧誘に乗れば、僕は晴乃井るるとの交流が持てる。これは大きなメリット。それは、誰もが羨むことだろう。僕だって、そんな青春送りたいさ。


 しかしデメリットがデカい。深く考えるまでもなく天秤は傾いた。答えは、ノーだ。


「種ヶ崎さん。ごめんだけど」


 そして、僕はなるべく真剣な表情で、


「丁重に、お断りしま────」




 意識が、プツン、と途切れた。




「ッすはぁッ……!」


 次に意識を取り戻した時の僕は、新室燦々だった。


 頬にひんやりとした感触があって、自分が地面に寝転がっていることを知る。


 いつのまにやら二十四分が経っていたらしい。インストが解けたのだ。


 上半身を起こし、視線をあげる。晴乃井るると種ヶ崎さんがこちらを見下ろしていた。


「元に戻った。よかった」

「やあ、おかえり。天才クン」


 おかえり。晴乃井るるのセリフで、僕はタイムラグを知った。意識を失ってから取り戻すまで、おそらく少し時間が経っている。でないと、晴乃井るると種ヶ崎さんが二人そろって、僕を見下ろす立ち位置にいるはずがない。


 と、なると、だ。嫌な予感がした。


「天才クン、手伝ってくれるんだって?」

「……っ、え、いや、待ってください」


 なんでだろうな。嫌な予感ってのは、たいてい的中する。今回も例にもれず、らしい。


 晴乃井るるの口ぶりで、僕は、タイムラグの間にあったことを悟った。


 僕が快諾した、という既成事実を、種ヶ崎さんがでっちあげたのだ。


「迷惑かけるけど、ごめんね」


 否定する隙がない。すかさず、種ヶ崎さんが口を挟んだ。


「新室くん、頭いいので楽勝だと思います。なんてったって、首席入学ですから」


 と言ってから、種ヶ崎さんはこちらへ視線を向けて、


「二週間も準備すれば、満点とってくれます。たとえ、二年生のテスト範囲でも」


 そういえば完全に頭から抜け落ちていた、とんでもない現実をつきつけられた。


「ありがとね、天才クンっ!」


 そして、晴乃井るるが、無邪気な笑顔を浮かべる。


 こりゃあ、マズい。


 どうやら僕は、トンデモないことに巻き込まれたらしい。


 どこで間違えたんだ、僕の高校生活。今朝までは平穏そのものだった。すべてが狂った原因は、登校中に晴乃井先輩を見かけたこと、になるだろうな。峰岸曰く、晴乃井るるを一目拝めた日は人生最高の一日になる、とのことらしいが、確信を持って言える。ありゃ嘘だ、真逆だ。あれのせいで僕の人生、詰んだ。しかもファーストキスまで奪われて……ってあれ、さっきのはファーストキスに含まれるのかな。どうなんだろう。って、それどころじゃないか。うん、それどころじゃない。


 こうして、再会の時は幕を閉じた。三度目が来ないことを祈る。しかし、そうもいかないってことは、誰でもない、僕がいちばん知っている。

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