004 すっごくいい気分の代償はスカートの中へ

   2


 インスト。直球に、『ール』の略称だろう。


 僕の意識は晴乃井はれのいるるの力によって、彼女の身体にインストールされたらしい。


 種ヶ崎たねがさきさんはインストを特別な事象ではないといった具合に、すべて承知しているみたいに、淡々とした口調で説明を始めた。


 インストとは、晴乃井るるに備わった力であること。いつ、なにがキッカケで出来るようになったかは分からないということ。抱き合って、額を密着させて、意識を集中することで、晴乃井るるの身体に意識が流れ込むということ。意識が抜けた僕の身体は、一時的に仮死状態のようになるが、元に戻らないなどの問題は起こらないこと(本当か?)。このことを知っているのは、種ヶ崎さんと晴乃井るるの二人だけだった、ということ。


 そして、種ヶ崎さんは、何度もインストを経験しているということ。


「たとえば、今朝」と、種ヶ崎さんは口を開く。「新室にいむろくんが目撃した晴乃井さんは、私」


 理解は追いついている。けど混乱する言い回しだ、と思った。


「今日ね、晴乃井さん久々に登校する予定だったの。だから、私が送り届けましょうか? って提案したの。送り届けるってのは、つまり、インストで」


 前半の内容は、噂通りの話だった。晴乃井るるはあまり高校に来ないらしい。それで、たまの登校日に……なぜかインストを使って登校した、と。よくわからないが、おそらく二人で共有している都合があるのだろう。そこは深く追求せずに、確かめたいことだけ尋ねる。


「その……ってことは、川に飛び込んだのは晴乃井さん本人ではなく、インストした種ヶ崎さんだったってこと……?」


 種ヶ崎さんが、無言で肯いた。


「だから、僕の名前を知ってたんだね」

「そういうこと。というか、当然だよね。晴乃井さんが君を知っているはずがない」少しトゲがある言い方だったけど、反論の余地がないので黙ることにした。「でもね、だからこそ焦ったの。晴乃井さんの身体で君の名前を呼んでしまった。これ、おかしなことになるって、すぐに分かった。私は賢いから」

「賢いなら、最初からミスしないんじゃ……」

「なにか?」

「いえ、なんでもないです。続けてください」


 一瞬、刺すような鋭い眼差しがこちらへ向いたが、種ヶ崎さんはすぐに、左手に持ったスマホへと視線を戻した。スマホには、今季放送中のアニメの映像が流れている。種ヶ崎さんはなぜか、説明と並行してアニメ視聴をしていた。


「それで、インストが解けたあとで晴乃井さんに謝ったの。そこで君のことを話した。そしたら晴乃井さん、君に興味を持っちゃって」


 種ヶ崎さんは無表情のままで、右手の人差し指で床を指し示した。


「現在に至る。どう、納得?」


 納得? と訊かれても、答えはノーだった。納得できるわけない。インスト、という摩訶不思議な現象については特に。


 それでも現実は、いまの僕が晴乃井るるであり、今朝の辻褄もすべて符号してしまうのだからどうしようもない。心が拒絶しても、頭が肯定してしまう。論理を前に、感情や常識は当てにならない。


 すなわち、僕は納得した。するしかないだろ。


 そのうえで、残る疑問もある。


「じゃあ、川に飛び込んだとき、猫を抱えていたのは、なんで?」


 僕は尋ねた。すると、種ヶ崎さんは、


「それは……………」


 と言いかけて、急に黙り込んだ。しばらく沈黙が続いた。種ヶ崎さんのスマホからはアニメの壮大な劇伴が鳴っていて、静寂が緩和される。


 種ヶ崎さんが回答をくれたのは、沈黙からだいたい二十秒後のことだ。観念したようにスマホから目線をあげて、口を開いた。


「……………………猫って、可愛いから」


 Q&Aが成立してねえ、と思った。


「……新室くん。晴乃井さんには誤魔化したんだから、これから言うことは黙っててね」

「え、あ。はい」


 種ヶ崎さんは、言葉を選ぶような間をとってから、


「……登校中にあの猫を見つけて、追いかけまわしてたら、つい」


 想像以上にバカバカしい真相を述べた。


「はい?」

「えっと、だから……。本当は一直線で高校に行くつもりだったの。でも猫の可愛さには抗えなくて、というか、猫以外、見えてなくて。気づいたら川の中にいただけ、っていうさ……分かるでしょ? 新室くんは、猫の誘惑に打ち勝てる? 私は無理。っていうか、そんな人間いないと思う。だから、私の失敗は、しょうがないことなの」

「なるほど」


 これ以上、深堀りはやめよう。ここを掘っても、なにも出てこない。


「じゃあ、別の質問をしていいかな?」


 と訊くと、種ヶ崎さんは肯いた。彼女が手に持ったスマホの画面を指さした。


「なんで、いまアニメ観てるの?」

「砂時計」


 種ヶ崎さんが即答した。どういう意味かは、サッパリわからん。


「だいじょうぶ。新室くんに興味が無いから観てるんじゃないよ。これは砂時計なの」

「二度言われても、釈然としないフレーズなんだけど」

「ちゃんと説明するから安心してね」と言いながらも、彼女の視線は画面に落ちたたままだった。「インストの持続時間は、約二十四分間なの」


 二十四分という時間と、アニメ。……ああ、そういうこと。共通点には、すぐ気づいた。


 テレビアニメ一話分の尺は、だいたい二十四分前後。種ヶ崎さんの説明によれば「インストの持続時間」も二十四分間。なるほど。一致する。


「アニメを一話分観たらインストが解ける……砂時計ってそういう意味か」


 言うと、種ヶ崎さんはこちらを見て、小声で「おお」と発した。


「すごいね、理解が早くて助かる。そういうことなの。ちなみに、それがインストの解除条件。制限時間を迎えること以外に方法は無いの」


 いちどインストしてしまうと、そこから二十四分間は晴乃井るるでいることが確定する、ということか。なんていうか、確かに少年マンガ的にいえば特殊能力に違いないのだが、ずいぶん使い勝手が悪いんだな。


「じゃあ、もうひとつ質問いいかな。晴乃井さんの意識は?」

「インスト中の晴乃井さんは、寝ているときみたいな感じ、って言ったらいいかな」

「つまり、意識がないってこと?」

「うん。インストするとね、身体の所有権、っていうか、操縦権っていうか……そういうのを完全に明け渡すことになるんだって。いま身体を動かすことができるのは新室くんだけで、晴乃井さんには無理。だし、この約二十四分間で起きた出来事を、晴乃井さんは感知できないんだ」


 それって怖くないのかな、と思う。自分だったらすごく怖い。身体を乗っ取られる、ってことじゃないか。


 まあとにかく、だいたい分かってきたな。インストのこと。


「……だからね、新室くん。私が猫を追いかけまわしてたってさっき白状したけど、晴乃井さんには聞こえてないから。二人だけの秘密だからね。絶対、内緒」

「わかった、わかった。絶対、言わない」


 あと、種ヶ崎さんが無類の猫好きってことも分かりました。


「すごいね、新室くん。こんな不思議な話も、一発で納得しちゃうんだ。頭いいからかな」

「頭いいとか関係なくて……信じるしかないでしょ」

「そりゃそっか。私たちも、信じてもらうために体験させたんだし」


 とそこで、種ヶ崎さんがスマホを床に置いた。それは、さっきまで続けていたアニメ視聴を突然放棄したみたいな、投げやりな置き方だった。


「じゃあ説明はこれで終わり」そのとき、画面の中でアニメのアイキャッチが流れた。「ここからはBパートだ」

「え?」


 要領を得ない言い回しだった。


 まるでここまでは前座ですという具合で、ともすれば本題はここからです、とでも言いたいのだろうか。たしかに、僕がいま受けたのは能力の説明だけだ。まだ何も核心の部分は聞かされていない気がする。では、これから話してくれるのだろうか。


 と期待したがしかし、そういうわけでもなさそうだった。彼女の口角が、先ほどまでと打って変わって、吊り上がっていたのだ。


 無表情がトレードマークのような種ヶ崎さんが初めて見せる笑顔。

 不穏な、と付け加えるべきかもしれない。


 それから種ヶ崎さんは、


「新室くん、晴乃井さんに抱きしめられたでしょ?」


 四つん這いになって、僕の顔を覗き込むように見た。


 その表情に、違和感を覚える。


 種ヶ崎さんが、僕に近づく。距離が縮まる。


「ちょ、ちょっと。なに……、」


 嫌な気配がして、床に座ったまま後ずさった。しかし種ヶ崎さんは動きを止めない。


「いいなあ、ズルいなあ。嫉妬しちゃうな。すっごくいい気分だったでしょ。だって、晴乃井さんだよ? 夢みたいだったでしょ。あんな最高の思いをしたら断れないよね、私たちの計画。言うこときかなきゃだよね。だから──」


 そして、種ヶ崎さんの右手が僕の……いや、晴乃井るるの太ももに乗った。ひんやりとした手だった。ふいに声を上げそうになったのを、ぐっと堪えた。種ヶ崎さんの手を見て、すぐに目線を上げると、彼女の顔がすぐそこまで迫っているのに気付いた。


 ちょっと待て。種ヶ崎さん、君はなにを……と尋ねようとしたけれど、喉が閉じる。彼女の手は、太ももを優しく撫でるように動いて、そのまま、


「──ついでに、私のお願いも叶えてみない?」


 種ヶ崎さんの指が、スカートの中に潜り込んだ。

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