夜明けのひみつ

少女との出会い

反射的に、誰かに見つかったかもしれないと、顔が強張る。けれど、その声は妙に高くて、心臓を掴まれたかのような錯覚に陥る。

その声を探るべく、徐に振り返った。

「っ」

思わずその姿に息を呑んだ。

声の方向には、少女がいたのだ。

けれど、その少女の顔は、見ているだけで心臓が凍てつき、ゾッとしてしまうほど歪んでいる。その双眸は赤く濁っていて、ホラー映画に出演していてもおかしくはない。更に、身に纏った白いワンピースからはポタポタと雫が落ちている。

一言で表すのなら、不気味だった。

死んでいるのか、幽霊なのか。

ただ一つだけ確証がある。それはこの世の者ではないということ。

ワンピースから覗くはずの足が何処にも見当たらないのだ。

今までの僕であれば思わず叫び倒していただろう。昔からこの類のものは苦手で、妻によく笑われていた。

けれど、今日で僕の人生は最期だ。

何も驚くことがない。

僕は少女の方を向き、質問に答える。

「死のうと思ってるんだよ。」

僕の返答に今度は少女の赤い双眸が見開いた。

「へぇ。驚かないんだ。私を見ても。他の人は私を見るなり、幽霊だとかなんとか言って逃げていったのに。」

僕の返答には触れず、少女はスカートを広げながら、不思議そうに言い放つ。

確かに、少女の言い分は理解できる。こんなに色々あった人生の中で、こんなにもゾッとしたのは初めてと言っても過言ではない。

今日ではない何処かで出会ったのなら、僕だって一目散に逃げるだろう。

「そうかな。でも僕はー」

そう言おうとした時だった。

「これから死ぬから？」

僕がこれから言うことを汲み取ったかのように、ニヤッと口角を上げる。

「そうだよ。だから君に構っている暇はないんだ。」

この少女の体は非常に興味深いものであるのは確かだ。

けれど、もう夜明けも近い。人に見つかってしまっては大変だ。

そう体を翻した時だった。

後ろにいたはずの少女が、僕と海を遮るようにして、階段の一段下に現れたのだ。

瞬間移動、とでも言わないと説明がつかないくらいの、一瞬の出来事だった。

けれど、今の僕には、それすらも煩わしい。

「どいてくれないか。」

そう告げて、少女を振り払おうとした時だった。またもや不気味に高い声が響き渡る。

「どうして死ぬの？」

「死にたいからに決まっているだろう。」

「じゃあ、どうして、おじさんは死にたいの？」

まるで分からないというように年相応の純粋な瞳で問いかけられる。

その瞳が、あの子と重なってしまったのだろうか。

僕は自分の弱みを誰かに伝えることが出来ない。けれど、この時だけは何故か流れるように口から溢れていた。

「妻には不倫され、会社からはパワハラを受け、娘は死んだんだ。こんな人生、終わらせる以外にないだろう。」

改めて口から出すと、本当にろくでもない人生だったな、と思わず自嘲気味になる。

それでも、そんな毎日を五年くらい耐えていたのだ。自分を褒め称えてやりたいとさえ思ってしまう。

チラリと少女を見ると、少女は悲しそうにするわけでもなく、ただ無表情で僕を見つめていた。

僕のこんな悩みなんて聞いても、少女は分からないのだろう。

何かがあるかもしれないと、不覚にも期待してしまった自分を恨みながら、再び階段を降りた時だった。

「なんで？」

本心から口を開いたのか、または皮肉なのか、少女が呟く。

「なんでってなんだい。」

「それだけで、本当に死にたいの？」

その言葉に少女相手でも、何かが蠢く感覚がした。表情にこそ出さないものの、腹わたが煮えくり返る音がする。

それだけ、で。

その言葉が僕の中をぐるぐる巡っていく。

けれど、僕は大人だ。

どんなに理不尽な理由で殴りかかってきた上司よりかは、まだマシだ。

感情の制御は慣れている。こんな少女に怒鳴りかかるような大人ではない。

「ああ。だからここにいるんだろう。」

「けど、おじさん。おじさんは本当に死にたいの？生きたいって思っていないの？一ミリも？」

僕の目を見据えて、少女が呟く。

その真っ直ぐで綺麗な瞳に何も言えなくなってしまった。

生きたいとは決して思っていない。ただ、僕はこの人生を終わりにするしか、方法がないのだ。

「ああ。当たり前だろう。」

僕も同様に少女の目を見据えながら、言った。

「それは無いと思うよ。じゃないと、私のことなんて見えないもん。」

「それは、どういうことだ。」

少女の言葉に衝撃が走る。

「そのままの意味。本当に死にたいって思ってる人は、私のことなんて見えない。反対にどんなに小さくても、生きたいって思ってる人だけにしか見えない。

だって、私は自殺する人間を止めるために存在しているからね。」

「…それは、本当なのか。」

息を呑んだ。

そんなはずがない。

僕はもう生きたくないのだ。これ以上生きていて、同じように宝物が出来て、また失うことが怖い。

それなら、最初から全てを手放した方がいいに決まっている。

けれど、どうしてなのだろう。

その純粋に真っ直ぐな目が、僕を裸にして、目を離させてはくれない。

「本当よ。だって私の服装、おかしいでしょ。こんな人現実では存在しない。コスプレでも通すのは無理がある。」

「コ、コスプレ？」

突然降りかかる意味が分からないその単語に思わず聞き返してしまう。

すると少女はやってられない、とでも言うように頭を抱えて、ため息をついた。

「はあ。これだからおじさんは。何かのキャラクターになりきることよ。」

その返答に僕は無性に懐かしさが込み上げてきていた。あの子にもよく、どうして知らないの、と怒られたものだ。

「そうか。」

私は人生最期の日に、コスプレという単語を学んだ。この世にはまだまだ知らないものだらけだったらしい。

妙に納得している僕を見て、少女は、

「とにかく！」

と手を叩いた。

「娘さんのことは仕方ないけれど、不倫されることも、パワハラを受けるのも、もう限界だったら逃げればいいんじゃない？離婚して、退職すればいいじゃん。その地獄みたいな日々に耐える必要なんかない。」

その言葉に、僕はハッと息を呑む。

考えたことも、頭をよぎったこともない発想。逃げることと、死ぬことがイコールで結びついている僕は、頭を鉄棒で殴られた気分に陥る。

僕はその世界に生きているからこそ、僕であり、妻のいない僕なんて僕じゃないと、そう思っていた。

「けどよお嬢ちゃん。大人はそんなに簡単に逃げられないんだ。」

胸の奥深くから湧いてくる何かを押さえつけながら、少女を揶揄うように放つ。

「大人なんて関係ないじゃん。」

けれど、少女は僕の言葉を一蹴した。まるで当たり前のことを話すように、ワンピースを靡かせながら口を開いた。

「子供だから逃げられる。大人だから逃げられない。そんな世界なんてないよ。

それに、逃げられないかなんて、やってみないと分からない。

この世の中には、いろんな人がいるんだよ。おじさんをいじめる人もいるし、苦しめる人もいる。けれど、そんなおじさんに同情して、助けてくれる人がいるかもしれないって、考えたことはないの？耐えるか、死ぬかの二択なんて、おかしいと思わないの？

それをおじさんみたいな狭い世界に居る人が、逃げられないって、そう断言できるのかな？」

その赤い瞳は小さく揺れながら、まるで僕を嘲笑うかのようにフンと鼻を鳴らす。

言い返したいのに、言葉が喉の奥に詰まって取り出せない。

図星だった。

少女の言葉は小さな刃となって、僕の心臓に突き刺していく。

次第に視界がいびつに歪んで、瞼が灼けつくように熱を帯びる。

その時、ある日の記憶が蘇った。

　「寧々は世界一可愛いな。」

首からかけたタオルで、額から滴る汗を拭いながら、僕はあの子の後ろに座っていた。暑くならないように、絡まらないように、神経を注いでいたドライヤーをあの子の頭から離す。

そしてふわふわの髪を撫でながら、愛しい愛娘に僕はそう微笑みかけた。

けれど、あの子は喜びも笑いもしなかった。笑ってくれるだろうと踏んでいた僕の口角は次第に枯れていく。

そして僕の手を徐に振り解きながら、あの子は確か、こう言ったのだ。

「パパみたいな狭い世界に居る人が、世界一可愛いなんて断言できるのかな？」

あの時は返答に行き詰まったことをよく覚えている。

反抗期かなんて思ったりもしたが、今思えばその言葉は正論だった。

久しぶりに思い出したあの子の笑顔と記憶。そして少女の言葉が重なって、次第にしわくちゃなシャツにいびつな楕円のシミを落としていく。

「…うっ」

何年ぶりだろうか、この液体を見たのは。

五年間、一度もこの液体が頬を流れることはなかった。

「確かに…」

震える声で少女に微笑みかける。

「確かに、そうかもしれないな。」

少女はその言葉を聞いた途端、顔色を変え、嬉しそうに、眩しい笑顔で笑った。

「でしょう？」

その時、夜明けが来た。

少女の背後から、大きくて、眩しくて、明るい太陽が顔を見せた。

太陽のまだ柔らかな光が、背後の海に反射して、規則性もなしに水面が歌うように輝き出す。

長方形に切り取られた頭上に広がる空も、深く、青く色づき始めた。

僕はその美しさに思わず見惚れてしまう。

瞳の中に雫が残っているからか、僅かに屈折して、空一面に虹がかかっていた。手を伸ばしてしまえば届いてしまいそうだ、などと柄にもなく思ってしまう。

もう自分の中に抱え込んでいた希死念慮なんて、何処かへ消えていた。

久しぶりにまじまじと太陽を見る。ずっと逸らし続けていた太陽は、大きくて、綺麗で、美しかった。

「じゃあ、おじさん。」

少女は太陽を見ると、寂しそうに、そして苦しそうに眉を寄せた。

そして僕の顔を見て、静かに笑った。

その顔は不気味であるのに、反射的に年相応で可愛いとさえ思ってしまう。

「私は行かないとかな。悔しいけれど、私は夜明けまでしか存在出来ないの。そして、もう会わないと思うから、一つだけ。寧々の分まで頑張れ。」

「…どうして」

どうして、娘の名を。

そう問わせては貰えなかった。

そして、裏路地に太陽の光が差し込んだ時。

階段の一段一段、太陽の光に縁取られていき、その眩さに思わず目を細めた。

その眩い光に、息が詰まるほど輝く潮風に、溶けていくように、少女は儚げながら姿を消した。

「…うっ」

僕は足に力が入らなくなって、地面に座り込む。

正体不明の液体が、頬を流れ落ちる。

そんな頬の上を、少女を惜しむような柔らかい潮風が撫でていく。

そして僕は呟いた。

「そうだ。僕は死ぬことが怖かったんだ。」

その声は誰の耳にも入ることなく、少女と同様、静寂に消えて無くなっていた。僕はポケットからスマートフォンを取り出す。

僕の指紋を認証すると、最後に開いていた画面が表示された。

『心霊体験：海で自○しようとする人の元に現れる、謎の不気味な少女。その正体はー。』

僕はその画面を親指で撫でる。

そして不気味ながらも、優しく笑った少女に僕はそっと祈りを込めた。