夜明けのひみつ
早坂綴
ろくでもない人生
もういいだろう。
僕の気持ちとは裏腹にどこまでも広い空を見上げた。まだ夜明け前だと言うのに、空は青く、大きく連なった雲の峰が頭上を覆っている。
僕が助けを求めた時は、あんなにも曇天で、切り取られたように小さな空だったのに。今日に限って晴天なんて、どんな皮肉なのだろう、と思う。
けれど、最期くらい僕の人生を彩ってくれているのかもしれない。
僕の人生を漫画にした時、最後の一ページくらい輝いているように。
そんな柄でもないことを思いながら、僕はまた一歩、海へと近づく。しばらく経てば、夜明けが来る。
僕は目の前に広がる海を見つめた。
この場所は、海が綺麗なランキングを取り扱ったサイトの中でも、上位に組み込んであることが多いところだ。
夜明けを知らせる太陽がまだ上りきらない中、太陽の残り火が水面に反射して、まるで揺蕩うガラスのように見える。全てを溶かしてくれそうな潮風が、僕の鼻をくすぐる。
静寂を切り裂くように一定の間隔で存在を告げる波の音。
ガラスが散りばめられたように、透明感の一言では表せられない水面。
世界で一番と断言してもいいほど、脆く、儚く、彩られている青色。
そして目の前に広がる水平線。
その全てに心が奪われて、視線を逸らすことが出来ない。
と途端に、僕にもこんな感情があったのかと驚いてしまう。
思い返せば、ろくでもない人生だった。
終わらない暗闇を、ライトも持たず、這いつくばるような、そんな人生。
家に帰ればいやらしい音が耳をついた。
玄関脇には乱雑に広げられた男ものの靴と、妻のヒール。そっと声のする寝室を覗けば、そこには地獄が広がっていた。
僕と妻のものであるはずのベッドで、裸で抱き合っているのだ。その僕のベッドを汚しているのは、妻と、名前も顔も知らない男。
僕と視線が交わっても、妻は気にすることなく、より一層声を響かせる。
リビングにいて、イヤホンを耳に差し込んでいても、憑いてくるその音が、耐えられなかった。
妻は不倫症候群とでも呼びたくなるほど、毎日違う男を呼び込んでは行為をしていた。
結婚当初、こんなに素敵な女性はいないと思った。
全てを忘れてしまうような美しい笑顔に、熱い眼差し。
自分の固い殻に閉じこもっていた僕を、温かい腕で僕を包み込んでくれたのだ。
だからこそ、僕と妻の間には可愛い愛娘が生まれた。その拙い泣き声に、どれだけ愛しいと感じただろうか。僕の人差し指を握ってくれる度に、涙が溢れて止まらなかった。
あの時は幸せだと、心の底から叫ぶことが出来ていた。
けれど、その娘も何処かへ行くように儚く消えていった。
あの子が十五歳だった頃だろうか。友人と海で遊ぶと言ったきり、帰ってこなくなったのだ。
どんなに捜索しても、遺体すら見つからない。
その時、知ったのだ。
大切なものは最も簡単に、僕の指の隙間からするりと落ちていく。あんなに大切に守っていたものでも、その努力を踏み躙るかのように、いなくなってしまうのだ。
あの子としたいことが、たくさんあった。
あの子と話したいことも、たくさんあった。
あの子のいない生活なんて考えられないくらい、あの子中心の生活になっていた。
妻もそうだったのだろう。
あの子がいなくなってから、妻は壊れた。
今までの妻がいなくなってしまった。
けれどそれは僕のせいでもあるのかもしれない。日々悲しみに暮れ、妻の顔を見る機会も減ってしまったのだから。妻の悲しむ顔が余計に辛くて、声すらかけてやれなかった。
そして僕は、二つ目の宝物を失ったのだ。
それからは地獄のような日々だった。会社でもパワハラを受け、それでもブラック企業に骨を埋めた。妻を養うためなら、どんなに痛くたって歯を食いしばった。
けれど、もういいだろう。
そして僕は途方もなく広がる海を見据えた。
もう、疲れたのだ。僕は。
もう、充分やったさ。
そして僕は砂浜から少し離れた裏道の階段を、一段一段、踏みしめるように降りていく。誰かに見つかることのない、裏道から海へ沈んで行こうと思うのだ。
あの子と再び笑い会える世界を夢見て。
あと少しで、海に到達する。その水は綺麗で、僕なんか一瞬にして呑み込んでくれるだろう。
僕は最期に、右手に握りしめたあの子の写真を見つめる。
フィルム越しに目があったあの子を見ると、何故か視界がいびつに歪んで、あの子の笑顔までも薄れていく。
そして、再び握りしめて、階段を降りようとした時だった。
「何してるの?おじさん。」
不意に女の高い声が聞こえて、背筋に怖気が走る。
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