第41話 妹

 翌日の15時頃、僕たちは再び菅根温泉保養センターへと向かった。


 車内にはエクソシストのBGMが流れている。

 これだけ聴かされるとさすがに慣れてくるものだ。しかもこの曲、全体を通して聴くと、意外とおどろおどろしいものではなく、むしろ神秘的な雰囲気を醸し出していることが分かる。ここに至っては落ち着いたリズムがむしろ心地いいと感じる。


 それでも、今の緊張を癒やすには十分ではない。


「大丈夫ですか?」


 庭さんが心配そうに尋ねる。


「本当に一人で会いに行きます?」


「はい。大丈夫です……」そう答えるも緊張のせいで、手のひらにじっとり汗をかいていた。


 こういう場合、結衣子と接触するのは庭さんの方がはるかに向いているだろう。取材経験値がずっと高い。

 色々と聞き出せるかもしれない。


 だけど僕は自分一人で行かせてほしいと頼んだ。

 一見軟弱そうな僕一人で行った方が警戒心が薄まる気がしたのだ。

 それに、自分勝手かもしれないが、キヨの死の真相を、自分自身の力でたぐり寄せたいという強い思いもあった。


 夕暮れの空が赤く染まり始める頃、センターの裏口から出てくる結衣子の姿を見つけた。僕の心臓は高鳴った。

 彼女は、従業員スペースに停まった青い軽自動車の方に向かって歩いていく。


 僕は大きく息を吸い込む。

 これからの出来事が、全ての謎を解き明かす鍵になるかもしれない。もしくは、新たな迷宮へ僕たちを導く可能性もある。


 僕は車から降り、彼女に近づいた。


「あのう……」


 大股でスタスタ歩く彼女に追いすがるように声をかけた。


 彼女はやや速度を緩めてキョロキョロとあたりを見渡す。


「あのう、すみません!」少し声を張ると、彼女はようやく僕を認めた。


「はい」と言って少しだけ微笑んだように見えたのは、多分まだ業務の仮面を外し終わってないからだ。

 その落ち着いた態度は、ベテランの仲居を彷彿とさせる。

 だがその目には、わずかな戸惑いが浮かんでいるように見えた。

 ひょっとして、僕のことを覚えているだろうか。


 風が彼女の短い髪を揺らす。痩せた体は、吹けば飛んでしまいそうなほどに儚く見えた。


「僕は森沢聡と言います。遍路をやっていた者です。……覚えていらっしゃいますか。あのう、前にここに、聞き込みで訪れたのですが……」


 彼女は考え込むように目を細めたが、やがて諦めたように「ああ……」と頷いた。


「……私に何かご用ですか?」


 表面上は丁寧な態度だが、声に警戒が滲んでいた。

 身体はいまだ自分の車が置いてある方角を向いている。会話が途切れたらそのまま彼女は車に引き寄せられるだろう。


 僕は急いでキヨの写真を取り出す。


「すいません、もう一度お伺いしますが、この男を保養センターで見かけませんでしたか?」


 彼女は、上半身だけわずかに前に出して写真を見る。


「ごめんなさい。ちょっと分からないです」前と同じ答えだった。


 作為的な様子は感じない。


「そうですか……」


「お客さんひとりひとりは覚えているわけではないので……。人探しですか?」


 意外にも彼女から質問が返ってきた。


「いえ、そういうわけではないんです……。実は、彼はすでに亡くなっているんです」


 結衣子は少し驚いた顔をした。


「僕は彼の友人なのですが、彼の足跡を辿るためにこうして色々と聞いて回っているわけです」


 そう言うと、彼女は少しだけ同情的な表情になった。


「ごめんなさい。でも力になれそうもないわ」


 彼女は踵を返し「じゃあ頑張ってくださいね」と言って立ち去ろうとする。


 ここで終わるわけにはいかない。僕は賭けに出た。


「お名前は、重村結衣子さんですか?」


 彼女は弾かれたように振り向いた。

 従業員の制服に名札はついていない。どこで自分の名前を知ったのか、という戸惑いの表情を浮かべていた。

 

 彼女は頭の中で、イエスかノーか、どう返事をするかおそらく天秤にかけたと思う。

 それでも結局は「……はい」と小さく返事をした。

 ひょっとすると「はい?」と聞き直すトーンだったのかもしれない。

 僕はそのまま質問を続けた。


「失礼ですが……、洞場沢妙子さんの妹さんでしょうか?」


 結衣子は浮かべていた困惑の表情を、みるみる内に恐れのそれに変えていった。

 持っていた手提げバッグを抱くようにして一歩後ずさった。


「記者さん、ですか……?」


 その一言は、僕の心のみぞおちをえぐった。

 彼女がこれまで社会からどんな仕打ちを受けてきたのかを如実に物語っていた。


 彼女は、立場的には、赤ん坊を焼き殺した殺人鬼の妹だった。

 当時の週刊誌がそれをそっと見守るだろうか。考えられない。

 マスコミ関係者に追い回され、社会から激しい批判に晒されたことは想像に難くない。


「いえ、記者ではありません。僕は本当にただの遍路です……」


「それなら、どうして洞場沢なんて名前が出るんですか……?」


「それは……」


 僕は覚悟を決めた。


「今、香川幼児誘拐殺人事件のことを調べています。偶然にも、その事件のことを最初に知ったのは、この場所で聞き込みをした時でした。あなたもいましたね」


 結衣子の顔から血の気が引いていくのが分かった。


「誘拐事件があったスーパーの防犯ビデオを見ました。赤ん坊を抱いて走る犯人と思しき女性が写っています」


 結衣子は青い顔をしたまま黙っている。


「あの映像の人物は、洞場沢妙子さんではなく、妹のあなたではないですか?」


 彼女はその場から一歩後ずさった。

 その瞳がカッと大きく見開かれている。肉食の鳥を連想させた。


「なんですか……。いきなり……」


「それに気づいたのが、この亡くなった男なのです」僕はもう一度写真を掲げる。


「あなたの罪を、妙子さんが背負ったのではないですか? キヨは――、亡き友人は、それに気づいたのです。この誘拐殺人事件について、少しお話を伺えませんか?」


「どうしてそんなことを言うのですか……? 憶測ですか……?」


 憶測かと言われれば、そうですと答えるしかない。

 キヨの特殊能力のことは説明できない。

 相手が理解を示してくれるとは思えない。


 彼女は悲しげに僕を睨み、そのまま立ち去ろうとする。

 僕にはまだ知りたいことがあった。

 下を向いて拳を握りしめる。


「……深夜、お遍路の格好をしたお姉さんの姿を見ました!」


 女がビクリと動きを止めこちらを見た。奇妙に顔がゆがんでいる。


「あれは何をしているんです?」


「あ、あとつけたんですか……? 私たちの!」目の周りの筋肉はぶるぶると小さく痙攣していた。


 僕は黙っていた。


「あなた、一体……、一体……!」


 突然彼女はバランスを欠いて、その場に崩れ落ちそうになった。

 僕は咄嗟に腕を掴んで支えた。彼女の体から力が抜けていくのを感じる。


「離してください……」


「すいません……」


「もう……もういいです」結衣子は震える声で言った。


「この間あなたが聞き込みに来た時から、砂時計の最後の一粒が落ちたような気がしていました」


「どういう意味です……?」


「どうせ……、いつかは分かってしまうんでしょう」


 諦めと疲労が混ざったような目をしていた。

 僕は、彼女の言葉の意味を測りかねていた。


「姉が……妙子が、『遍路X』などと馬鹿げた名前で呼ばれていることは知っています……」結衣子はか細い声で言った。


 その告白は、まるで風に乗って消えてしまいそうなほどに弱々しかった。全身から、言葉にできない悲しみが滲み出ていた。

 胸がズキンと痛んだ。遍路Xというオカルトを追って四国を訪れた自分のことが、急に軽率に思えてきた。


「三日後は満月です……」


「……え?」


「夜、あなた方が『遍路X』を目撃したという場所まで、来てください……」


 結衣子は踵を返すと、車に向かって歩きだした。


「あの、重村さん!」慌てて声をかける。


 だが彼女が振り向くことはなかった。

 その痩せた背中は、夕暮れの中、陽炎のように消えて溶けてしまうそうに見えた。

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