第38話 元刑事
指定の喫茶店は、小さな田舎駅の前にあった。
古びた木製のドアを押し、僕と庭さんは中に足を踏み入れた。
コーヒーとタバコの混じった香りが僕たちを包み込む。店内には、かすかにクラシック音楽が流れていた。
薄暗い店内の壁には、色褪せた風景写真が飾られていた。窓の外では、ポツリポツリと灯り始めた街灯の光が、静かな田舎の夜の訪れを告げている。
奥まったカテーブル席の端に、壁を背にして一人の男が腰掛けていた。
他に客はいなかった。
「ああ、いたいた」庭さんが手を挙げる。
男がすっと立ち上がる。彼が待ち合わせの人物らしい。
四十代か五十代ぐらいだろうか。スーツをきっちりと着こなしたその姿が、田舎町からどこか浮いていた。
男はやや薄くなりかけた頭髪を横に撫でつけ、そのまま深々と一礼した。
「庭林さん、お久しぶりです」
僕と庭さんは男の前の椅子に腰掛ける。
注文を取りに来た初老のマスターにホットコーヒーを二つ注文し、彼が去るのを待って話を始めた。
「山崎さん、どうもすいません、お呼び立てしてしまって」
山崎と呼ばれた男は「いやいやいや、とんでもないです」と控え目に手を振る。
庭さんからは「元刑事」とだけ聞いていたため、勝手に屈強な大男を想像していた。しかし、彼は刑事というよりも、研究者かセールスマンのような柔和な雰囲気を漂わせていた。
「直接会うのは随分ぶりですね」と庭さん。
「ええ……。四年ぶりぐらいでしょうか。しばらくお会いしていませんでしたが、お元気そうで何よりです」低く落ち着いた声だった。男の言葉遣いに四国のなまりはなかった。
「何だかすみません。頼み事をたくさん聞いてもらって」
「お安い御用ですよ。庭林さんの頼みなら」
「ああ、そうだ、山崎さん、こちらは……」と庭さんが僕を紹介しようとする。
「存じ上げてます。森沢聡さんですよね?」
男はこちらを向くと、
「この度はご友人のご逝去、心よりお悔やみ申し上げます」
キヨのことも知っているようだった。
初対面で、しかも自分の父親ぐらいの年齢の男性に頭を下げられて、僕は慌てて「ご丁寧にありがとうございます」とテーブルに手をついた。
「山崎さんには、これまで黒木の情報を教えてもらってたんです」
そういえば庭さんは以前、警察のOBやらそういう知り合いがいると話していたが、どうやら彼がその人物のようだった。
「山崎さん、それにしても、よく黒木の情報を得られましたね」
男は、なあにと笑う。
「東京で刑事をやっていた頃に目をかけてやった部下がいましてね、その関係の人間が今県警にいるんですよ。まぁ、情報源は主にそういったところです」
「恩に着ます。山崎さん、今は確か香川住まいでしたか?」
「そうです。しがない定食屋の親父をやっとります」
「料理が得意だとは知りませんでした。ところで、黒木は今どうしてるか聞いてます?」
「……病院食のデザートをうまそうに食べるそうです。片目を失明したにもかかわらず、妙に上機嫌らしいです」
僕は思わず体を固くした。記憶が蘇る。果物ナイフで黒木の目を刺したあの時の恐怖が。
元刑事はうんざりしたような顔で話を続ける。
「テレビ局のワイドショーだかが、黒木が作った俳句? を取り上げたらしいです。本人はそれがいたく嬉しかったらしい。もう思い残すことはないとまで言ってるそうです。周りも呆れているらしいです」
黒木にもらった札はそのまま家に放置してある。
あの時は大変価値のあるもののように思えたが、それは小人という職業遍路がどこか圧倒的な存在に感じたからだ。俳句自体は思い出せない。
とりあえず、帰ってすぐに焼き捨てようと僕は密かに決意する。
「俳句ねぇ」
庭さんは懐からくしゃくしゃのハイライトを取り出す。三回箱を叩いてから引き抜くと火をつける。
男はしばらく黙ってそれを見ていた。
「ペラペラよく喋る黒木ですが、自分の父親を殺した理由だけは頑なに訳を話さんそうです」
庭さんはゆっくりと煙を吐き、テーブルに乗ったガラスの灰皿に灰を落とす。
「黒木は……、自らを『
「ふぅん。ずいぶん皮肉な通名を名乗っていたもんですな」
「とても自虐的な名前ですよね。彼がどうして父親を殺したのかは知る由もありませんが、まるで父親に対するアンチテーゼのように感じられませんか?」
なるほど、と元刑事が頷く。
「父に対する反発でしょうかね。
元刑事は、隣に置いてあった電話帳ほどの大きさの茶封筒を掴んで、
「これ、頼まれてたものです」
庭さんがそれを受け取る。
「結論から言うと、高知の洞場沢妙子ですが、間違いなくあの幼児誘拐事件のホシだった女です」
『ホシ』。その言葉を聞いた瞬間、僕は少しだけ興奮した。刑事ドラマでしか聞いたことのない用語を、まさか生で聞けるとは思わなかった。
「ずいぶん前の事件ですな」と元刑事。
「十六年前の事件です」
「私がまだ東京にいた時分に、こっちで起こった事件です。全国区で報道されていましたし、変わった名前のホシだったのでよく覚えとります」
庭さんが封筒から書類を取り出す。
覗き込むと、どうやら洞場沢妙子に関する資料のようだった。
元刑事は庭さんの資料を指差しながら言う。
「ホシの出所は、平成7年。だから……、えーっと、西暦1995年ですな。その年の冬に出所してます。今から一年半前ですな」
つまり彼女は十四年間服役したということだ。
偶然住宅地図から見つけた『洞場沢』姓の女。
彼女は、本当に幼児誘拐殺人事件の犯人だった。そのことに対して、僕はそれほど驚かなかった。
この繋がりはもはや必然のように思えた。
庭さんが取り出した資料の中には、妙子の写真も含まれていた。
「ああ、その写真は、当時週刊誌に掲載されていたものだそうです」
それは集合写真の切り抜きのようだった。会社の慰安旅行か何からしい。
一人を除いて、他すべてには黒い目線が入っている。
洞場沢妙子は穏やかな笑みを浮かべていた。
僕はその微笑に目が離せなくなった。それは間違いなく、遍路Xの微笑だった。
「噂によると、彼女、出所する頃には、もうずいぶんと精神を病んでいたそうです」
「精神を、病んでいた……?」
「ええ。なかなか受け答えも難しいようです……」
庭さんの隣で、僕は身を乗り出すようにして、彼女の写真を穴が開くほどじっと凝視した。
正確に言えば、若い頃の遍路Xの微笑だった。
事件当時、確か洞場沢妙子は25歳だった。生きているなら今は41歳。
写真の中の洞場沢妙子と、あの夜、遍路道で見た遍路Xの姿が、頭の中で重なり合う。
高い背丈、痩せた体つき、長い黒髪、無言のままに歩き続けるその後ろ姿──。
そして微笑。
写真に映る彼女の口元に浮かぶ控えめな微笑は、記憶に焼きついた遍路Xの微笑そのものだった。
僕は思い返す。キヨの伯父さんが最初に聞いたであろう遍路Xの噂話を。
彼は、缶詰工場の従業員である時子お婆さんからその話を聞いたという。
時子お婆さんが遍路Xを目撃したのが1995年の冬。洞場沢妙子の出所時期とピッタリ一致する。
僕の中の疑念はいよいよ確信へと変わった。
遍路Xの正体。それは紛れもなく、かつて凶悪な誘拐殺人事件を起こした犯人、洞場沢妙子だったのだ。
キヨは彼女を目撃したに違いなかった。
僕の中で、すべてが一つに繋がった瞬間だった。
分からないのは、彼女が何のために、夜な夜な遍路の姿で歩いているのだろうということだ。
「庭林さん……」元刑事は、怪訝と心配が入り混じったような表情をしていた。「一体、何を調べてるんです? 誘拐事件はもう解決してるんでしょう? ああいえ、詮索しているわけではないんですが……」
「ご迷惑をおかけします。確かに事件は終わりました。これは、彼――、森沢くんの亡くなった友人と、それから僕らの未来のため、とだけ言っておきます」
元刑事は、そうですか、と首をひねりながらも、それ以上は詮索してこなかった。
代わりに「私にできることなら何でも仰ってください」と言って、庭さんと僕を交互に見た。
「本当に色々とすいません」と頭を下げる庭さんに、いやいや、と手を振る。
「他でもないあなたの頼みです。断れるはずもない」
「ありがとうございます、山崎さん。今度お店に食べに行きます」
「お待ちしていますよ」
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