第32話 コンビニ本

 狭いビジネスホテルの一室。くすんだ色合いの壁紙が剥がれかけている。


 僕は窓際の小さな机に向かい、ノートを広げる。

 薄暗い部屋の中、デスクライトだけが手元を照らしていた。置き時計は21時を示していた。


 頭の中を、今日の出来事がぐるぐると巡っていた。

 温泉保養センターでのあの女性との会話。そして、キヨが言及したという誘拐殺人事件。

 一体どういう意味だろう。

 考えれば考えるほど、霧の中を手探りで進むような不安ともどかしさが募る。


 その日、温泉保養センターでの聞き込みを終えた僕と庭さんは、格安ビジネスホテルにチェックインすると、一階にある質素な食堂で夕食を済ませたあと、それぞれの部屋に戻った。


 僕はシャワーを浴び、湿った髪をタオルで拭きながら机に向かった。

 ノートに物語を書き連ねる。


「人はなぜ、過去の罪を隠すのか」自然と頭に浮かんだフレーズを書き込んだ。


 ペンを握る手に力が入る。架空の探偵が、架空の事件を追う。


「誘拐殺人事件……」僕は呟く。


 現実の謎が、フィクションの世界に侵入してくる。

 キヨは誰かを見つけたのだろうか。


「ハンニンミッケ……、ハンニンミッケ……、ハンニンミッケ……」僕は同じ言葉を呪文のように繰り返す。


 書いては消し、消しては書く。

 考えがまとまらず、ノートに書いた言葉がどんどん空回りしていくような感覚に囚われた。焦燥感だけが募り、物語がまったく進展しない。


 胸が詰まるような息苦しさを感じ、僕は思わず立ち上がった。


 部屋の空気が重く、淀んでいるように感じた。

 少し外の空気を吸おうと思い、僕は部屋を出た。


 外に出ると、嫌な匂いがした。

 ホテルの裏手にドブ川が流れている。その匂いだろう。


 夜の田舎町は静まり返っていた。歩道を歩く人はいない。時折、通り過ぎる車のヘッドライトだけが、闇を裂いていく。

 気づけば、キヨの歩く姿を探している気がする。

 ぼんやりと視線をさまよわせる。


 目に入ったのは、道路の向こうで煌々と光るコンビニの明かりだった。


 自動ドアが静かに開き、店内の明るい光が僕を包む。

 気だるそうな若い店員が僕を一瞥した。

 何をするでもなく、店内を一周し、冷蔵ケースからペットボトルの水を取り出し、レジへ向かう。

 その刹那、入口近くの書籍コーナーに目がいった。


 週刊誌やファッション誌が並ぶ棚の脇に、コンビニ本が置かれていた。


『宇宙の大疑問』

『アニメ・マンガの衝撃裏設定!』

『人体の不思議・ミステリー』

『武士道の世界徹底検証』

『恐怖のスーパー都市伝説』


 一冊の背表紙を見た時僕は「あっ」と小さな声を上げた。

 近付いて、本棚からその一冊を抜き取る。


『昭和平成残酷犯罪史』


 おどろおどろしい文字が表紙に躍っていた。

「ショウワ、ヘイセイ、ザンコク、ハンザイシ……」タイトルを区切って読んでみて、僕は頷く。


「そうか、この本か……」


 拾ったレシートに記されていた『ショウワヘイセイザンコクハ』は、この本のタイトルが途中で切れていたものらしい。


 本をひっくり返す。

 値段は税込みで412円。やはりレシートに記載された金額と同じだ。


 指先に伝わるざらついた紙の感触を確かめながら、ページをめくっていく。

 どうやら、昭和と平成の時代に起こった凶悪事件をダイジェスト形式でまとめたもののようだ。


 キヨは一体どういう目的でこの本を買ったのだろう。ただの暇つぶしだろうか。

 それとも――。


 僕は、彼が意図を持って手に入れた気がしていた。


 購入した本を小脇に抱えてコンビニを出ると、急いで来た道を引き返した。

 部屋に戻って電話をかけた。

 幸いキヨの父はすぐに出た。


「……ああ、森沢くんですか」キヨの父は少し眠そうな声だった。「どうかしましたか?」


「急にすいません。どうしても、あのう……、聞きたいことがありまして……」僕は息を整える。


「キヨの遺品の中に本が含まれていませんでしたか?」


「……本ですか?」


「はい」


 僕がタイトルを伝えると、


「そういえばそんな本がありましたね。ちょっと待ってください」


 通話が一旦保留になり、一分後「ああもしもし」と父の声が戻ってきた。


「ありましたよ。これですね。えーっと『昭和平成残酷犯罪史』って言いましたね? 確かにありますよ」


 予感は的中した。胸の鼓動が一気に早まる。

 やはりキヨが購入した本に違いなかった。

 キヨの父に丁寧に礼を述べて電話を切ろうとした時、「この本、折り目がついているページが一つありますよ」父がそう言った。


「えっ、どこですか!?」


「155ページ目です」


 僕は受話器を肩で挟み急いで本のページをめくる。見出しに思わず息を呑んだ。


『香川幼児誘拐殺人事件』


 僕は礼を述べて電話を切ると、指先に力が入るのを感じながら、本文に目を走らせた。


――1981年(昭和56年)7月13日午前9時。香川県丸亀市にある大型スーパー『マツカワ』にて幼児誘拐事件が発生した。

 被害者はY夫妻の長女理恵ちゃん。生後半年。

 駐車場でベビーカーから目を離したわずかな隙に、理恵ちゃんは姿を消した。


 当時、防犯カメラはあまり普及しておらず、スーパーには店の前から駐車場を映す一台が設置されているだけだった。


 カメラには、女が赤ん坊を抱いたまま駐車場を横切る姿が映っており、それが犯人だと見なされたが、映像の画質は粗く、長髪で大柄の女という特徴は捉えられているものの、人物の特定は難しかった。


 事件は難航すると思われたが、急転直下の解決をみる。

 誘拐があった翌日、洞場沢どうじょうざわ妙子たえこ(25)があっさり警察に自首してきた。自らが誘拐犯であることを認めた。


 警察はすぐに彼女を逮捕。妙子は、理恵ちゃんを誘拐した上で殺害し、遺体を焼却したと供述した。Y夫妻のもとに戻ってきたのは焼けた骨の一部だけだった。

 両親に対して謝罪の言葉を述べたものの、その後は一貫して黙秘を貫いた。


 動機は不明だった。だが妙子は職場でのストレスや人間関係の軋轢に悩まされ、酷いノイローゼ陥っていたという噂があった。


 妙子は殺人罪、死体損壊罪などで起訴され、懲役十五年の実刑判決を受ける。

 週刊誌がセンセーショナルに名付けた『赤ん坊焼却魔』や『焼き殺しの女巨人』という呼び名は彼女の代名詞となり、焼け尽くすような憎悪と批判が彼女に集中した。


 僕は本から顔を上げる。

 キヨは多分、この事件に関心を持っていたのだ。

 果たして、本当に『ハンニン ミッケ』と関係があるのだろうか。


「洞場沢、妙子……」


 僕はページをもう一度見返す。

 そこには二枚の写真が掲載されていた。

 一枚は事件当時のスーパーの外観。

 もう一枚は、防犯カメラの映像から切り取られたスナップショットだった。

 僕はそれを食い入るように見つめる。

 長髪の女が何かを抱いて歩いている姿が辛うじて読み取れる。だが、あまりに粗い画質で、顔の輪郭はおろか、着ている服さえも不明瞭だった。

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