メランコリック・ハートビート

おしゃべりマドレーヌ

メランコリック・ハートビート

「お前、またやらかしたのか」

 不躾にもノックもなく入ってきた声に起こされて、ベッドから身体を起こす。聞きなれた兄の声は、いささか呆れた声をしていた。

「…………ゲオルク」

 一年前に使っていた、年代もののアンティーク家具が揃った私室は、もう使っていないのにそれでも忘れられずに手入れがされているようだった。

 久しぶりに訪れた城で、居所がなくて、私室に籠って、ベッドに突っ伏しているエレノアを見つけたのは、実の兄ゲオルク・ブラウンシュヴァイクだ。

 緑色の瞳が呆れたようにこちらを見ている。

 綺麗にまとめられて、乱れ一つない金髪は、ゲオルクの気真面目さを表しているようだった。

「エレノア、いい加減にしないと捨てられるぞ」

「…………わかってるってば」

 そんなのは、自分が一番わかってる。

(わかってるけど、上手く行かないから、こうなってんだろ)

 ベッドから身体を起こして、乱れた黒髪を直して立ち上がると、目元を隠すほど伸びた前髪が気になったのか、ゲオルクがエレノアの前髪を掬って丁寧に耳にかけてくれた。

 相変わらずエレノアに甘い。兄と同じ緑色の瞳は、エレノアの方が少し明るくてペリドットに似た光を帯びている。その瞳で怪訝な表情を作って、睨みつけるように見上げると苦笑された。そのまま頭を撫でられて、まるで子ども扱いだ。

 コンコン、と部屋の扉がノックされて、ゲオルクの執事が声を掛けてくる。どうやらもう仕事の時間らしい。

「ほら、仕事してくれ。エレノア、お前が頼りだ」

「……うん」

 そっと背中を柔らかく押されて、エレノアは立ち上がる。

 重厚な扉がゆっくりと開けられて、空気の重い廊下へ進むようにと視線で誘導される。 ため息をつきながらその視線に従って、廊下へ向かって歩き始める。早く家に帰りたい、と思うのと同時に、帰りたくない、とも思う。

 きっと家に帰ったって、エレノアはあの男を相手に上手く振舞えない。

「エレノア様、こちらでございます」

 深々と頭を下げた執事に従って、長い廊下を進んでいく。

 ゲオルクに呼ばれて、久しぶりに訪れたのは、昔エレノアが住んでいた王城だ。

 エレノアは、もう百年も続くのだという嘘みたいに歴史の長い王族の、第二王子だ。

 王位を継ぐ王太子がゲオルクで、ちょうど昨年その事が民に発表された。王位継承権だけは、ゲオルクに何か会った時の為に残されて第二位となっているが、それは形式的なものだ。ゲオルクに子どもが出来ればお役御免になる。

 エレノアが王位を継がないことは随分と前から決まっていたし、自身が王位に向いていないことは、幼い頃からわかっていた。

 涼しい秋の風が廊下の開いた窓から吹きこんで来る。 

 黒い髪がさらさらと首筋を撫でる。エレノアの白い肌に黒い髪は、この国では異質だ。 母親が遠くの東の国出身だったらしい。瞳だけは父親の緑色を継いだようだが、それにしては少し明るい。

 光を多く採り入れる性質の瞳は母譲りだ。母親はエレノアを産んですぐに亡くなってしまったので、実質育て親となったのはゲオルクの母親だった。


「おや、エレノア様もご同席されるのですか? 本日の議題は我が国にとっても重要で難題となるものですので、かなり時間が掛かりますし、それより庭の鑑賞でもされていた方がよほど有意義かと……」

「重要で難題で、我らの手に余るからエレノアを呼んでいる。始めるぞ」

 執務室を開けた途端、エレノアを部屋に入らせまいと出てきた大臣は、古い時代から父王に仕えてきた腹心だと言う事だが、未だに何故この男が国の中心にいるのかわからない。重そうな腹をこれでもかというほど突き出して、偉そうな態度を取る男は、いつだって見苦しい。大臣という肩書きに縋って、権力を振りかざし、顔にも態度にもその浅ましさが表れていて、昔から関わり合いたくない相手だった。

 ゲオルクの一言で押し退けられた大臣は、慌てて自席へと戻ったが、それでもまだ何かを言いたげだった。

(…………俺だって、別にこんなところに来たいわけじゃない)

 

 エレノア・ブラウンシュヴァイクは、幼き頃より天才だった。


 幼い頃から誰よりも早く文字を、言葉を理解して、学生過程は通常9年で卒業となるところを、5年で卒業した。一を教えられれば、五十を理解し、自身の考えで百にすることが出来るような、そんな人間だった。

 そのせいで同世代とは会話がかみ合わず、大人と話しても、誰もエレノアの説明を理解できなかった。大人がなぜエレノアの話を理解できないのかがわからなくて、苛立って、そのうちコミュニケーションを諦めてしまった。

 話す事を、理解して貰う事を諦めて、最低限の言葉で会話するようになってしまったのが悪かった。

 兄ゲオルクは、エレノアほど頭が良い人間では無かったが、賢い人間で、人の話をよく聞き、人が理解できるまで説明ができる人だった。

 王の素質がある人間を体現したような人物で、誰からも信頼され、誰からも愛されて、誰をも従えることが出来た。

 一方で弟のエレノアはと言えば、人と接する度に相手を怒らせるような有様だった。

 エレノアの考えを誰もが理解出来ず、エレノア自身も伝えようとしなかったせいで、その亀裂は深まるばかりで、随分と家族に心配をさせている。

 幸いなことに父王も、兄も、養母も、エレノアの賢さをよく理解してくれている。

 理解のある家族のおかげで、何とかやれているが、正直なところエレノアを理解出来る人間はごく少数だった。理解出来ない、と離れていく人間の方が多い。

 それでもこの国で、エレノアほど、知識があり、頭の良い人間はいなかった。

 そのおかげで、ここ数年はこの国の行く末を決める会議には、必ずエレノアの見解を求められるようになていた。議会で進んでいた話をエレノアに聞かせて、エレノアが論点を整理して、その議案を進めるべきかどうか、『個人的な見解』を述べるのだ。

 それを参考に国の重要議題の行く末が判断される。

 その事が、中央議会のメンバーにとってはそれはそれは気に食わないらしい。

(…………ああ、ダメだ)

 席に案内されて、配布された資料に記載された議題のテーマを見た瞬間に思わず顔を顰めてしまった。ぱらり、と数ページめくって、思わずため息が出た。

 きっと時間を掛けて議論されただろう議案だと理解しているが、あまりに目の前の、その場だけの問題に向き合いすぎていて、全体を見られていない。

「では、始め……」

「ゲオルク、この議案は進められない。解決していない問題が多すぎる」

「……申してみよ」

 始めよう、と言われる前に、エレノアはゲオルクを見上げた。

「子どもたちの貧困を解決、というテーマに対して解決策が記載されていない。ここに記載されているのは目先の一時的な対策だ。これではただの選挙対策で、解決したとしても数日、数週間、程度のことだろう。根本的な解決にはならない。まずは子どもたちの貧困をどの程度解決したいのか教えてくれ、それから貧困層にいて掬い上げるべき子どもたちの正確な数、そこに充てられる予算、なぜ彼らが貧困層にいるのかの調査、貧困層の根本的な課題、それらが無いのにこの議論は進められない。この資料からは子どもたちが貧困で困っている事はわかるが具体的ではない。貴族の妻らが配給を定期的にする事、一時的なまとまった資金を教会へ与えることで、ではそれが何名子どもを助けて、どれだけ大人にさせることが出来て、将来的にどれだけ労働力にできるのかが伝わってこない。議論のそもそものデータが無い状態では、ただ感想を言い合うだけの場となって効果のない議論になる」

 そこまで一息で言い切ったあとで、ふと顔をあげると、テーブルについている十名の大人の顔が歪んでいた。みんな一様にエレノアを睨んでいる。

(ああ、まただ……)

 これだから、自身は王位を継ぐのに向いていない。

 王の血が流れているとは思えない、ゲオルクと似ても似つかない、と言われるのだ。

「…………話は終わりだ。あとは好きにしてくれ。私の意見は聞かなかった事にしてくれても問題はない」

「いや、エレノアの意見はもっともだ。データを揃えさせるから、それからもう一度、議論をゼロから始めよう。確かに、この資料では我々は施しをやった気分になるだけで、現実的な効果を算出する事が難しい。ヘルゲ、エレノアからもう一度議論に必要なポイントを聞いて書き留めておいてくれ」

「承知しました」

 ヘルゲ、と名乗る青年はゆくゆくはこの国の宰相になると言われている男だ。

 軽やかな栗毛色の髪は、パーマが掛かっていて、ヘーゼルの瞳は丸く、愛嬌がある。 人当たりの良さそうな顔をしている。気真面目で、リーダーシップのある王の隣で、数々の調整をこなす有能な人物だ。

「エレノア様、行きましょう」

 この場の空気を察してか、部屋を出るように促されて、ホッとする。ヘルゲについて部屋を出ると、重すぎた空気が突然軽くなったかのように感じた。

「みなさん怒ってましたね」

「…………ヘルゲ、ならもう俺を呼ばないで」

「ははっ、そんな訳にはいかないのも貴方ならわかってるでしょ」

「…………」

 ヘルゲは幼馴染みのようなものだった。現宰相の息子と言う事もあって、顔を会わせることも多かったし、ゲオルクか、エレノアが王位を継いだ時に側にいる者として、近い関係で信頼を築くことを期待されていた。

「俺は、エレノアが王でも良かったと思ってるよ」

「嘘だろ、やめろ」

 隣で笑っているヘルゲの足を蹴飛ばして一歩前を歩く。

 王として率いる器が無い事は誰よりもエレノアがわかってる。理解してる。

「すぐに家に帰るんだろ、アベル様と仲良くしろよ」

「…………わかってる」

 ゲオルクと同じ事をいう幼馴染みに悪態をついて、それからヘルゲと別れる。 

 案内係に連れられて馬車に乗ると、一度大きく揺れた馬車は、その後は安定してゆっくりとエレノアの住む邸宅への道を進み始めた。

(…………憂鬱だ)

 ゲオルクのように、愛想がよく人の話をよく聞いて、相手を喜ばせられるような事を言える人間だったら良かった。そうでなくとも、ヘルゲのように何事も当たり障りなくこなせるだけの、身のこなしがあれば良かった。

「……サイアク」

 頭なんて良くなくて良かった。

 この世界の何もかもをわかった気になんて、なれなくて良かった。それよりももっと、人ととして大事なものが、もっと自分に備わっていれば良かったのに。

(……アイツは、俺の何が良かったんだろう)


 エレノアは、昨年アベル・グランクヴィスと結婚をした。

 アベルは若くして騎士団長を務める男だった。

 ゲオルクが王位を継ぐと発表したと同時に、アベルとエレノアの結婚が発表された。

 王家には代々、王位を継ぐ男が決まれば、それ以外の男兄弟は生涯結婚をしないか、それとも子を遺さない男との結婚のみが許される。

 馬鹿げたしきたりだが、争いを産まない為のもので、それで百年も続く王家が出来たのであればそれが正解なのだろう。

 エレノアは生涯独身でいるつもりだった。

 ゲオルクの跡継ぎがいない場合、もしくは産まれた子どもがまだ幼い場合、ゲオルクが病に倒れたり、何かある場合に、一時的に王を務める為のスペアとして生きるつもりでいたのだ。

 ゲオルクとエレノアの下には妹たちが四人もいる。けれど彼女たちはいずれ他家へ嫁ぐし、この家はゲオルグとエレノアで支えていくのだと思っていた。

 



『王様、それでは、褒章として、我が伴侶にエレノア様をください!』


 あの男が、アベルが、そんな事を言わなければ、エレノアは生涯ひとりで過ごすつもりだったのだ。誰にも迷惑をかけずに、ちゃんとわきまえて暮らすつもりだったのに。





「エレノア様……!」

 自宅に馬車が到着すると、御者が手を差し伸べるよりも先に、アベルが家から走ってきてエレノアを馬車から降ろして、抱え上げた。太陽の光がアベルの金色の髪を照らして、眩しくて目を眇めてしまう。キラキラと陽の光を十分に取り込んだエメラルドグリーンは、いつもより色鮮やかに輝いている。

 柔らかいアベルの髪が風で揺れている。

「……アベルッ……」

 急に抱き上げられてバランスを崩したので、慌ててアベルの肩に両手をつく。

「おかえりなさい、エレノア様。今回は早く帰れました!」

 とても自分よりも二つ年が上の二十七歳の男の行動とは思えない。

 騎士団で若き団長を務める男は体力が有り余っているのか、そのままエレノアを腕で抱えて家に入って行こうとしたので、すぐに身体を引き離すように手でアベルの胸を押し返した。

「アベル、降ろせ」

「部屋までお連れしますよ」

「嫌だ……!」

 もうすでに御者と出迎えの執事に生温かい笑顔で見守られている。

 これから家の扉をくぐればもっと大勢の使用人たちに見られてしまうだろう。それだけは何としても避けたかった。

「では今日の夕食はご一緒して頂けますか」

「……断ったって、一緒になるだろ」

 一緒に食べてくれるなら降ろします、と頑(かたく)なに言うので、ため息をつきながら「わかった」と言えば、すぐに地面へと降ろされた。どうせ食事なんか使用人たちの手間を考えれば家にいる主人はふたりで一緒に食べたほうがいいのだ。

 断るような理由もないのに、毎度毎度聞かれて、その度に仕方なく頷くエレノアを見て、アベルが嬉しそうにする。

 アベルはずっとこんな調子だった。

 ずっと、エレノアを見つければ一目散に側に来て、あのエメラルドグリーンの瞳がまるで輝く星くらい煌めいて、心からエレノアといるのが嬉しい、喜んでいる、と伝えてくるのだ。

「ゲオルク様はお元気でしたか」

「兄様はいつも通り、お変わりなかった」

 家に入ればエレノアの一歩後ろにアベルが下がってついてくる。

 この家の主人はアベルだし、エレノアはこの国の第二王子とは言え、アベルのもとに降嫁したのだから、立場としては同じであるはずなのに、未だに敬語は直らない。

 まるで夫ではなく、側に仕える騎士のようだった。

(『遠くまでの遠征、疲れただろう』『遠征、お疲れさま』……いや、違う、そうじゃなくて、もっと、こう……)

「では、私は一度部屋へ戻りますね」

「…………ああ」

 部屋の前まで送り届けられて、エレノアは私室へと入って扉を閉じる。

 そのままベッドまでまっすぐ行って、身体ごと倒れ込んだ。

「……………………やっぱり無理だった」

 アベルはずっと優しい。ずっとエレノアを好きで、結婚してからだってずっと大事にしてくれている。だから、エレノアも少しくらい、優しくしてやりたいと思っている。

 せめて、遠征を労うことくらいはしたかったのに、結局うまい言葉が出てこなかった。 王族として貴族を労うような言葉じゃなくて、もっと、優しく労うようなことを言ってやりたかったのに。

 城に住んでいた頃は、父と兄と、養母は優しかったが、それ以外の人間は皆等しく、エレノアに冷たかった。そうなった理由が自分にある事もわかっている。

 言葉を尽くしてもどうせわかって貰えないなら、最低限の単語を話して、それで理解出来ないやつは突き放せばいいと、思いあがったせいだ。

 そうやって周りを突き放して、家族を心配させて、そんなエレノアを奇特にも伴侶として迎えたいと言ったアベルを、周りは可哀想だという目で見ていた。


『いい加減にしないと捨てられるぞ』


 兄の言葉は的を得ている。あれは、エレノアがいつまで経っても、アベルに素直になれずに、不遜な態度を取ってる事を言っているのだ。

 誰からも腫れものに触るような扱いをされている自分を、引き取ってくれたのだから、せめて優しくしてやりたいと思うのに、結婚して一年も経つのに、未だにうまく出来ていない。

(……本当に、いい加減にしないと)


 アベルに初めて会ったのは、アベルが父に連れられて城に来た時だった。

 エレノアはまだ8歳で、王に挨拶に来たアベルの父の横で、やたらでかい声で挨拶する子どもがいる、と思ったのが初対面だ。

 それからアベルが12歳になって、社交界デビューをしたときに、退屈で庭にいたエレノアを見つけて話しかけてきたのが次の再会だ。

 俺も退屈で逃げて来たから一緒に話そう、と言われて、面倒で断ろうとしたのに腕を引かれて有無を言わさずにベンチに座らさせられたのだ。その時すでに、自分が他人よりも頭が良くて、自分の言う言葉を他人はすぐに理解できないのだとわかり始めていた頃で、他人と話すことに抵抗があったのに、アベルはそんなエレノアを無視して勝手に色々と話し始めた。

 最近学校であったこと、父親に言われて嬉しかったこと、兄を見習って騎士団に入って活躍することにした事、それから身体を鍛える事にした事。

『強くなったら、エレノア様をお護りしますね』

 そう言ってにっこり笑う少年を見て、酷く腹が立ったのを覚えている。

 無邪気にそんな勝手な事を言って、どうせそのうちエレノアの本性を知って離れていくくせに、と思ったのだ。それに騎士団に入って強くなるなんて、騎士団がどんなことをしているかも知らないくせに、と、世間知らずなおぼっちゃんにイライラしたのだ。

『アベルは人を殺すのか?』

 そう聞いたら、アベルは驚いた顔をしていた。

『……いや、……』

『お前が強くなって、誰かを護るって事は、襲ってくる相手を殺すと言う事もあるんだぞ。その相手には家族もいて、お前みたいに護りたい相手もいるけど、それでもお前は相手から命を奪う覚悟があって、騎士になるのか?』

 意地の悪い言い方をした、と、言い終わってから思ったけれどもう取り消せない。

 どうせすぐに自分から離れていくなら、今、ここで、離れて行けばいいと、突き放すように睨みつける。怯んで目の前から逃げていくのかと思ったのに、アベルは、驚いた顔もせず、ただエレノアをじっと見つめていた。

『…………エレノア様は、人を殺さずに人を護れると思いますか?』

 十分に時間を置いてから、アベルがそんな事を聞いてきたから、逆にこちらが驚かされたのをまるで昨日のように覚えている。大抵エレノアが強い言葉で、相手を突き放すようなことを言えば、みんな離れていくのに、アベルだけが、エレノアの言葉を繋いだのだ。

『……………………そうだな、お前がよく戦術を学んで、情報を取れたらあるいは』

『なるほど』

 そのまま話をしなくなったアベルは、その日父親が庭に迎えに来るまで、何かを考えたままずっと地面を見つめていた。

 会話をしても無駄だ、と誰かと会話をする事すら億劫に思っていた、あの頃。

 唯一、アベルだけが話し相手だった。話し相手だと言っても、アベルは城に住んでいるわけではなかったから、社交パーティーで城に来た時に、少し話すくらいのものだ。

『エレノア様』

 いつだってパーティーが始まると同時に、会場から姿を消すエレノアを追って、アベルは毎回話しかけてきた。エレノアの言葉を理解していない癖に、何度も繰り返し質問をしてきて、何度もこれはこういう意味かと聞いてくるせいで、まるで会話が成立しているようだった。

 いつアベルを突き放したって良かったし、質問に答えなければそれで会話は終わるのに、あの頃の自分はたぶん、周りの人間に見放されて少し寂しかったのかもしれない。

 ふたりきりの秘密の会は、社交パーティーのたびに、ひっそりと城の庭で開催されて、アベルが騎士団に入る頃までそれは続いた。

 いつだったかアベルに言った『人を殺さずに人を護る方法』というのが、おおよそのテーマだったおかげで、その数年の間にエレノアはありとあらゆる過去の軍法書を読むことになってしまった。アベルが次々質問をしてくるので、それに答えられない自分に腹が立って、こっそり勉強をしていたのだ。

 この国の兵士として戦うと言う事は、他国との戦争や、武装勢力との抗争などもあり得る話だった。戦いは情報戦だ。相手がどこにいるかがわかれば、先手を取って有利になるし、相手よりも戦略を持っていれば、相手の計画を潰すことが出来る。

 相手を知るためには周辺国の歴史や、地理、価値観を知る事も大事だし、武器の知識や身体を鍛えること以外にも色々あると説明してやったのが、アベルを刺激したらしい。

 その話をして以来、毎回次に会う時までに、アベルはこんな本を読んだとか、この場合だとエレノアはどう判断するだとか、この国はこういう国だと書いてあるが本当か、など、まるで物を覚えたての子どものように、何もかもを質問するようになっていた。

 最初はアベルの聞いてくる質問なんて、鼻で笑って答えられるような物ばかりだったのに、結局最後の方はエレノアがアベルの質問に答える為に必死で勉強をしていた。

『エレノア様、騎士団に入る事になりました』

 16歳になって、これでしばらく会えることが無くなると言うことで、初めて社交パーティーの日以外の、昼の時間帯にアベルが尋ねてきた。わざわざ執事に予定を聞いて、

空いてる時間に正式に面会依頼をして会いに来たらしい。

 来賓室で騎士団の正装に身を包んだアベルは、まるで別人のようだった。

 いつだって薄暗い、月明りの中で見ていた姿とは違って、昼の陽を浴びてきらきら輝く金色の髪に、透けるようなエメラルドグリーンの瞳はまるで、そう、物語に出てくる王子様のようだった。

『…………そう、頑張って。わざわざ挨拶になんて来なくても……』

 騎士団に入る、と言う事はきっと、もう会えなくなるのだろう。

 次に社交の場に出るアベルを見る時はきっと、隣に婚約者がいるに違いない。婚約者がいるのであれば、今までのように会場から抜け出して、ふたりきりで話すなんて言う事は出来なくなるのだ。

 何だってこんな、わざわざ挨拶なんかしにくるのだろうか。

『それで、あの、騎士団に入ったら、必ず武功をあげるので、……あの、もし、もし、俺が、王にも認められる武勲を頂けたら、……エレノア様を、頂けますか』

『……は?』

『俺の伴侶になって下さいませんか』




◇◇◇




(あの日言われた言葉が本当になるだなんて思ってなかったのに)

 貴族は大抵20歳になる前には婚約者を決めてしまう。実際に結婚して、一緒に住むようになるのは色々な事が整ってからになるが、貴族の結婚と言えばどちらかと言えば、家同士の結びつきや、政治情勢を考えて決められる事が多い。

 伯爵家の次男である、アベルだって当然にそうなるはずだった。

 けれどいつまで経っても、アベルは婚約相手を発表しなかった。グランクヴィスト家は伯爵家で、次男と言えどその婚約者は、家にとって重要な相手であるはずだ。

 様々な貴族の御令嬢が名乗りをあげたとも噂で聞いている。

 けれど20歳を過ぎても、25歳を過ぎても、相手を決めないアベルは、貴族の社交界で注目の的だった。変わった性癖をしていて、人に言えない相手と夜な夜な遊んでいるのだとそんな噂が流れるほどだった。

 26歳になって、アベルが武功をあげた、というニュースが飛び込んできたとき、エレノアの胸が跳ねた。

 そんなわけがない、と思うのに、思い出すのは、あの日のアベルの言葉だ。

(そんな、ばかな)

 あの日、アベルが会いに来た日から随分と時間が経ってしまった。

 きっともうあんな約束忘れたに違いない。そう何度も思い直すのに、面会予定の相手にアベル・グランクヴィストの名前がないか、確かめてしまう。

 そんなわけが無いのだ。大人になったアベルの噂はよく聞こえてくる。騎士団の中でも優秀で、貴族の御令嬢にも人気で、優しくて頼りがいがあって、頭の良い知将だと言われていた。

 それに比べて、この数年の間に同じように大人になったはずなのに、エレノアの噂と言えば、良くないものばかりだ。冷酷で冷徹で、無常で非情、感情が無くて、何を考えているのかがわからないと専ら、周りから孤立するようになってしまっていた。

 会話をしても、成り立たないのだから仕方がない。

 都合が良い時に、突然呼ばれてエレニアの知恵を借りたいと、媚びへつらわれる事はあっても、いつだってそれはまるで何かの機械に接するような距離感だった。

 エレノアですらもうこの状況をどうしようもない。王も兄も、エレノアを信頼してくれているが、それはきっと身内だからこそだ。

 周りの貴族からどれだけエレノアが孤立しているかなんて、エレノア自身が一番よくわかっている。

(そんなの貴族の人間なら誰だって知っている。だから、アベルだってきっと)

 あの日、エレノアを伴侶にしたい、と言ったアベルに、何と返事をしたのかなんてもう覚えていない。けれど自分は多分、どうとでも取れるような答えを返した気がする。


 戦争から騎士団が戻って来た日、王が自ら功労者を労う場を用意していた。

 華やかなパーティーで、国中の貴族が集められて、そんな人々に囲まれて、堂々としたアベルが王の前で跪いていた。

『アベルよ、よくやった。誰一人、相手側にも、こちら側にも犠牲者を出さずこの戦争を終わらせたのは、貴公の人生で一番の武功となるだろう。そして、それだけではなく、この歴史に残る武功になる。望むものを言うが良い』

『では、エレノア様を我が伴侶に頂けませんでしょうか』

 嬉々として、そう述べたアベルの発言に、その場がざわついたのは言うまでも無い。


「エレノア様、しばらくは家に居られそうです」

「……そうか」

(ああ、ほら、また)

 アベルを、喜ばせるようなことの一つでも言ってやればいいのに、大人になる過程でまともに人とコミュニケーションを取って来なかった自分は、満足のいく返答もできないのだ。

(しばらく家にいてくれて、嬉しいと言えればいいのに)

 どんなに冷たい態度をとっても、悪い反応を返しても、アベルがエレノアに対する態度を変える事は無い。ずっと、優しい。

 けれどいつまでも人間が同じでいられるわけじゃない事を知っている。だから、兄も心配しているのだ。

 エレノアとて、今のままでいいと思っているわけじゃない。

 アベルを、愛している。エレノアを大切にしてくれている気持ちが嬉しい。最初の頃、確かにこれは愛では無かったと思うが、優しくされて、大事にされて、それをアベルに返したいと、そう思っている。

 だから、本当はアベルが喜ぶようなことを言ってやりたい。

 そう思うのに言葉が出てこない。

 誰よりも知能が高いと言われているはずなのに、アベルを前にすると、途端に言葉が何も出て来なくなる。

 このままではいつか、愛想を尽かされてしまうかもしれないという恐怖が漠然とある。

 そのせいで余計に、言葉が出ない。

 そうして、出てきた言葉と言えば簡素なものばかりだ。

 労う言葉でも、なんでも、アベルにエレノアの気持ちを伝えられる言葉が渡せればいいのにとずっと思っている。

 結婚してもう随分と経つのに、未だにこんな状態ではきっとアベルも内心呆れているのだろう。いつまで経っても上手く出来ない。

 あの頃、話をしてくれて嬉しかったのだと伝えたい。わからない事を諦めないでくれてありがとうと伝えたい。伴侶に選んでくれて嬉しかったと、態度が悪くてごめんと伝えて、本当は、もっと、

(…………アベルに抱きしめられたい)

 一度だけ、あの日、キスをされた後に、抱きしめられて嬉しかったのだ。

 幸せだった。愛されていると感じて、人生で一番幸せだったと言ってしまってもいいくらいに、嬉しかった。

 そうやってこれから、アベルに大切にされて生きるのだと柄にもなく、期待をして、ドキドキして、涙が出そうだった。


 



「エレノア様と、いつ別れるんだろうな」

(…………は?)

 あまりに突拍子もない話題を耳にして、思わず耳を疑ってしまった。

 けれど聞き違いではないらしい。

「もうあそこも終わりだってな。アベル様も、ようやく目が覚めたんだ」

「ああ、フェルゼンシュタイン伯爵の御令嬢だろ。ぴったりじゃないか。ディアナ様と言ったか。領地は遠いが、貴族としては申し分ない相手だろう」

 エレノアが城に呼び出されて、ちょうど兵舎の近くを通った時の事だった。騎士団の兵士たちが揃って立ち話をしている所に遭遇した。

 アベル、と聞き慣れた名前が聞こえきて、気まずくなって、方向転換をして遠回りをしようと思ったときの事だった。

 アベルの伴侶だと知られている以上、例えばアベルの悪口なんかを言っていたのなら、彼らも気まずいだろうとそれくらいの気持ちだった。

 けれど聞き捨てならない話が続けられている。

 立ち聞きするつもりはなかったのに、その場から足が動かない。

「さすがに、戦争で勝って、せっかく武勲を貰えるってのに、第二王子とは言え、あんな不愛想で意味わかんねぇ男が褒賞だとか言われても喜べねぇよな。褒賞だって言いつつ、体(てい)よくアベル様に押し付けただけだろ」


(……ちがう、アベルが、俺を欲しい、って、)


 王が、押し付けたわけではない。

 そんな事はエレノアが一番理解しているはずなのに、それでも身体中が凍り付くような心地だった。指先が冷たい。

 足が竦んで、しゃがみ込んでしまいそうだった。確かに床があるはずなのに、床が崩れ落ちたかのような、不安定な気持ちになる。

「その点、ディアナ様はいいぞ。気立てもいいし、優しくて、頭もいい。アベル様にもぴったりだ。美人だし」

「この間の遠征の時、ふたりきりで部屋で話をしていたそうじゃないか。これはもう、そういうことだろ」

(『そういうこと』って、何だ)

 突然、目の前が真っ暗になったようだった。

 アベルが、エレノアを選んだのだ。エレノアを欲しいと、エレノアがいいと言ったのだ。王が押し付けたわけではない事は、良くわかってる。

 けれど、例えば、王がエレノアに知られないように、裏でアベルに頼んでいたらどうだろうか。アベルはいい人間だから、断れなかったのかもしれない。

 そんなわけが、あるわけがないと、言い切れない。


(……だってそうじゃなきゃ、俺なんか選ばないだろ)


 ぼんやりとしたまま家に帰って、そのまま部屋へと戻った。

 アベルと、エレノアの部屋はそれぞれに私室があって、その間に夫婦の寝室がある。

 当然ながら、アベルも、エレノアも、同じ寝室の同じベッドで寝ている。

 けれど、セックスはした事がなかった。

 この家に来た日、アベルにキスをされた。

 それに驚いて、突き飛ばしてから、アベルはエレノアにそういう意味で触れてこない。

 勢い余って抱きしめられたり、抱え上げられたり、そんな事はあっても、あの日以来、キスですらされることが無い。

(その意味を、わからないほど馬鹿じゃない……)

 こんな事は誰にも相談もできなかった。

 エレノアにはそれほど多く友人がいるわけじゃない。

 ましてや、伴侶との性生活の悩みなど、兄にも、幼馴染みにも、相談できるわけがない。答えなんかわかりきってる。誰かに相談したところで、きっと答えは同じだ。

 アベルに、好かれている事を疑っているわけじゃない。

 きっと、いつからかわからないけれど、エレノアをずっと、大切に想ってくれている。 幼い頃から気にかけて、独りぼっちのエレノアを心配して、話しかけて、どんな態度を取ったって、可哀想なエレノアを見捨てられないのだ。

(…………わかってる)

 いつだったか、アベルの気持ちが恋だった時もあったのかもしれない。

 けれどきっと、今はそうじゃない。せいぜい、弟くらいにしか思えないんじゃないだろうか。それでもアベルは優しいから、言えないんじゃないだろうか。

 例えアベルの気持ちがもう無いのだとしても、王族のエレノアから離縁を言い出す事は出来ない。

 アベルと離縁したいと言えば、今後一生アベルは王族に見放された男となってしまう。

 それにアベルからだって言い出せないはずだ。エレノアは王から与えられた褒賞で、自ら望んだものなのだから、突き返すことなんて出来るはずがない。

(だから、アベルと離縁する事にはならない……)

「…………そんなことで、安心してるなんか馬鹿みたいだ」


 王からの褒賞でなければ、エレノアが王族でなければ、繋ぎとめられる自信も理由も、何もないのだ。




◇◇◇




「え」

「すみません、遠征でしばらく不在になります。あの、何か不便があれば、ローデルヒにお申し付けください」

 騎士団が遠征に行くことはよくある。国境沿いの警備体制の見直しだとか、盗賊との小競り合いを鎮圧しにいくとか、その理由は様々だ。けれど何も、騎士団長が行くほどのものなのだろうか。それほど重大な事態なのだろうか。

 ここの所、急にアベルの遠征が増えていた。

「…………いつまで」

「……一週間、……いや、ひと月は掛かるかもしれません」

 おかしい。

 そんなに騎士団長に遠征が入るはずがない事くらい、知っている。

 と言う事は、わざと遠征に行くようにしているのだ。

(これは……避けられている)

 どことなく気付いていた事だった。

 この間の遠征以来、アベルの距離が遠くなったことに、気付かないフリをしていた。

 それはあの兵舎の前で、騎士団の隊員が言っていた、『ディアナ嬢』と話したというあの遠征以来、家にいない事が増えていることに気付かないフリをしたかった。

 遠征から帰って来れば、仕事から戻れば、いつだって嬉しそうにエレノアを見つけて走って来て抱き上げていたのに、ここ最近は、そんなこともしなくなってしまった。

 声を掛ければ、顔を合わせれば挨拶をするけれど、それだけだ。

 ただいま戻りました、と、気まずそうな顔をして言われるそれに、エレノアが気付かない馬鹿だとでも思われているのだろうか。この距離に気付かないほどの愚か者だと思われているのだろうか、アベルの気持ちがエレノアに向かなくなっても、気が付けないほどの、鈍感だと思われているのだろうか。

「え、うわっ、エレノア様……⁈」

 腹が立って仕方が無かった。

 アベルだけが、アベルが唯一、エレノアを許してくれるのだと信じていた。

 唯一、ずっと愛してくれて、ずっと好いてくれているのだと勘違いしていた。

 例えそれが恋愛の愛情じゃなくても、

(……そんなわけがないのに)

「……黙ってて」

 こんな事をしたいわけじゃない。

 アベルをベッドに押し倒して、馬乗りになった。

 エレノアだって、男なのでそれなりに力は強い。アベルはきっと、簡単に突き飛ばせるだろうに、戸惑っているのか柔らかくエレノアの肩を掴むだけだった。

 こんなことは無意味だとわかっている。肩を触れられるのですら久しぶりで、嬉しくて泣きそうになりそうだなんて、アベルは知らないのだろう。

 きっと、間違っている。間違ってるとわかっている行為を押し通すのは恐ろしくて指先が震えていた。恐ろしくて、吐き気がした。

 けれど、こんな事でもしないと、アベルを繋ぎ止められる自信がない。

「エレノア様……!」

「っ……」

 押し倒して、ひとつも反応していないアベルの下肢に触れて、無理矢理下着を脱がせて、力なく項垂れているペニスに触れる。びくり、とアベルが揺れた。

 ようやくエレノアの意図に気が付いたのだろう。

 エレノアの指先がもう一度ペニスに触れようとした途端、感じた事がないくらいの強い力で、手首を押さえつけられた。力を入れてもびくともしない。

「こんなこと、しなくていいです」

 アベルはどんな顔でこちらを見ているのだろうか。

 顔を合わせられるわけもない。

 おかしい事をしている。間違ったことをしている。そんなのは、エレノアが賢い人間でなくともわかるようなことだった。

 けれどもうエレノアにはどうしていいかわからなかった。

「エレノア様、やめてください」

 聞いた事もない強い口調で言われて、頭が真っ白になった。

 ゆっくりと手を引けば、アベルが寛げたトラウザーズを元に戻していく。明確な拒否だった。触れられたくないと、言われたも同然だった。

「……エレノア様、あの、」

「…………っ、もういい……!」

 そのままアベルの顔も見ずに自室へと戻って扉を閉めた。鍵は閉めなかった。

 アベルが追いかけたいと思えば、追いかけて来れる状態だったけれど、結局アベルはその日、エレノアの部屋を尋ねなかった。

 結局は期待していたのだ。いつものように、甘やかしてもらえると、追いかけて抱き上げて貰えることを期待していた。

 ぼたぼたぼたと、大粒の涙が頬を伝って床へと落ちていく。

(きっともう、嫌われてしまった)

 あんなに冷たいアベルの声は聞いたことが無かった。アベルからすれば、面倒を見てやってた相手に突然、あんな事をされていい迷惑だっただろう。

 せめて、せめて、性的な行為をすれば、繋ぎとめられるかもしれないと、そんな事を思ったのだ。そんなわけがないのに。

 けれどもうどうしようもなかった。

 何を言っても、何をやっても、きっとアベルは、エレノアの元を離れていく。

「………………どうしよう」

 きっと、アベルは、遠征から戻ってきてもエレノアに今までと同じように接するだろう。そういう男だ。そうして今日のエレノアの奇行を無かったことにするに違いない。

 無かった事にされて、今まで通りだ。

 けれどきっと、その頃にはもう、アベルの気持ちは完全にここには無いのだろう。


(もっと、もっと早く、素直になれていたら違ったんだろうか)




◇◇◇




(エレノア様、大丈夫だろうか)

 今回は随分と長い遠征になる旅程だった。

 騎士団ではしばらくの間、若手の訓練を集中してつける事にしていた。戦争が落ち着いて、これから更に戦いが減っていく事が想定される中で、実践で経験を得ることはなかなか難しい。

 騎士団の中でも教えるのが上手い隊員に任せたのだが、指導者になる者と、若手が、訓練をする間、仕事から抜けることでどうしても人手が不足する。

 普段は中央で机にかじりついて作戦を練っている者も総動員で、警戒に当たることになった。その中に騎士団長であるアベルも例外なく入れられたのだ。

 アベルがそうして欲しいと言って実現したことだったが、予想以上に長い遠征の計画となってしまった。

 それを伝えた途端、エレノアの様子がおかしくなった。

 見た事がないくらいに狼狽して、あろうことか、アベルの下肢を寛げて触れようとしてきたので驚いて止めたのだ。

 そんなエレノアは一度も見た事がなかった。

 あのまま、アベルが抵抗しなければどうなっていただろうか。

 エレノアを抱いた事は無い。性器を見せた事もなければ、肌を触れ合わせたこともないのに、突然のエレノアの行動には正直驚いた。

 エレノアの発言は大抵、エレノアの頭の中で組み立てられていて突飛な事が多いが、行動が突飛だと思ったのはあの時が初めてだった。

 触れたくないわけじゃない。触れられて嬉しいとも思う。

 けれどまだ、ダメだ。今のままでは、エレノアには触れられない。

 結局、遠征に行くまでの間の三日間、エレノアは部屋から出てこなかった。

 遠征に行く前に顔を見て話がしたいと思ったのだが、アベルも忙しくて、エレノアの起きている時間に家に戻れなかった。


 エレノアを、好きになったのはもう随分と昔だ。

 生まれつき体格も家柄も良くて、性格も良かったおかげで、周りの人間にモテていた自覚がある。男女ともに、誰もがアベルを好ましいと言った。友人として、片想いの相手として、同級生として、誰もがアベルと仲良くなりたがった。

 誰もが自分を好きになるのだと、思いあがっていた。

 その頃の自分に冷や水を浴びせて、現実を教えてくれたのがエレノアだった。

 あれは十四歳くらいの頃だろうか。いつも城に訪れると、一目散にエレノアの姿を探していた。年下の、いつも一人ぼっちの第二王子。

 その時のアベルは、思いあがっていて、『騎士になって君を護ってあげる』とかなんとか言ったのだ。そうすれば喜ぶだろうと思ったのだ。その言葉に対して、エレノアが怖い顔をして、『人を殺すのか』と言ったのが、未だに忘れられない。

 エレノアは賢い子どもだった。

 誰よりも理解が早くて物知りで、けれどいつでも独りぼっちで。アベルはそうとは意識せずに、たぶん、エレノアを少し見下していた。

 俺が優しくしてやれば、この子は救われるだろう、と、思っていた。

 貴族の大人たちが、エレノアを冷笑している事を知っていて、まるでヒーロー気取りだったのだ。

 エレノアに指摘されるまで、その時点まで自分が人を殺す事になるとは夢にも思っていなかった。けれど考えてみれば当たり前の事だ。

 戦争では死者の数が戦果になる。武功になる。

 そうやって強い騎士とは、人を殺した数で人の上に立つのだ。

(…………護ってるだけじゃない)

 相手にも家族がいる、そうだろう。ならば例えばアベルが人を殺した時、その家族はその瞬間、この世で一番不幸になるのだ。幸せになる人と、不幸になる人が出る。

 その当然のことが、その時までちゃんとわかっていなかった。

 新聞で、戦争で勝ったと言われて純粋に喜んでいた。

 その意味を考えることもなく。

 気が付いたら、いつエレノアと別れたのかも覚えていなかった。

 家に帰ってきて、風呂に入れられて、ベッドに寝かされてようやく、エレノアに聞きたい事がある、と思ったのだ。

 エレノアは人を殺さずに戦争に勝てる方法を知っていると言っていた。

 それからアベルは何かに憑りつかれたかのように勉強をした。

 とにかくエレノアに言われた通りに、人を殺さなくても、不幸な人間を出さなくとも戦争に勝てるように、戦争を終わらせられるように。ここ近年は大きな戦争は起きていない。けれど小競り合いだって、何度もあれば数人は死ぬ。

 人を殺さずに勝つか、戦争を止められれば、どちらかが負けたりしたって、人は死なない。戦勝国は、敗戦国を支配するだろうが、それでも死ぬよりはマシだろう。

 生きていればどうにかなることもある。どうしようもない事もあるかもしれないけれど、けれど死ぬ人間が少ない方がいいに決まっている。

 そう思って、突然勉強に目覚めたアベルを、父親は単純に責任感が出ただけだと思ったのかよく褒めてくれていた。

 それよりもアベルは、とにかくエレノアに会いたかった。

 エレノアが出ると聞いた社交パーティーや夜会には、必ず連れて行ってもらった。

 王族のいる会であれば、エレノアは必ずいる。庭にいたり、テラスの隅っこにいたり、隠れるのが好きなのか、いつだってフロアにはいなかったが、そうやってエレノアを探すのも楽しかった。

 アベルが納得できるまで続けられる質問に、エレノアは何でも答えてくれていた。

 年下に馬鹿にされたくない、と最初は必死で勉強して、エレノアに知ったことを教えようとしていたのに、アベルの知っている何もかもをエレノアは知っていた。

 そうやって質問を繰り返すうちに、エレノアを年下だと見くびる事はなくなっていた。

 家に来ている家庭教師に『戦わずに勝てる方法はあるか』と尋ねたら、家庭教師は苦く笑って、『そんな神さまのような方法はありません。だからお父上も、お兄様も、ご立派に武芸を身につけられているのですよ』と返すだけだった。

 けれどエレノアに聞けば、いくらでも答えが返ってくる。

 シミュレーションで、戦争で発生しそうな窮地を用意して、この場合はさすがに誰かを殺さないと突破できないだろうと、投げかけても、エレノアの手に掛かれば、何十分の一の確率だとしても、どこかに逃げ道を見つけてくれる。

 いくつでも用意された答えが、的確にアベルの疑問を溶かしていく。

 騎士団に入るまでの時間はあっという間だった。そんな勉強が出来るのは、エレノアに遠慮なく会えるのは騎士団に入るまでだと知っていた。

 騎士団に入れば戦わずに勝ちたいだなんて生ぬるい事は、許されるわけがない。

 騎士団に入るまでに、知識を、思考を、ロジックを叩きこんで、実際にその戦術を使って勝つ事で証明しなければならない。

 剣技が無駄だとは思わないから身体を鍛えたし、精神論が必要だと言われれば、それもそうかと思える事もある。

 けれど誰かを殺さなければ訪れない平和は、真の平和では無いだろうと、そこだけはいつの間にか、アベルの中で譲れないものになっていた。

 その『誰も殺さないで得られる平和』への憧れは、間違いなくエレノアとの対話の中で生まれた憧れだった。エレノアに話す度に、夢物語だと思ってたそれが、実現できるんじゃないかとわくわくした。

 騎士団の入団を目前にしたときに、その譲れないものを作ってくれたエレノアに御礼が言いたいと突然思った。けれど王族を訪ねた事なんか一度もなくて、父親に頭を下げて、エレノアとの面会を取り付けてもらった。

 思えばずっと、夜の暗闇でしたエレノアを見た事がなかった。

 幼い頃から、あれだけ何度も会っていたのに、陽の光の元で会ったことが無いだなんてまるでおとぎ話のようだ。

 コンコン、と来賓室の扉をノックをすれば、エレノアの声が返って来た。

「失礼します」

 騎士団の隊服ならば失礼に当たらないだろう、と父親に言われて初めて着てきたせいで、妙な緊張をしている。父親抜きで王族とこんな風に面会するのは初めてで、正しい挨拶が出来るか、失礼な事をしないか、そんな事ばかりを考えていたのに、その考えはすぐに霧散した。

「ふっ、何だ、緊張してるのか。アベル」


 恋に落ちた瞬間がいつだったか、と聞かれれば、この時だと答えるだろう。


 今まで何度も会って、何度もあの暗い庭で、テラスで、議論を交わしてきた相手だというのに、その日、その時まで気が付いていなかった。

(うわ……)

 少しだけ口の端をあげて笑ったエレノアが美しくて、息を呑んだ。

 陽の光が差し込んで、白い肌が透き通る。大きなペリドットの色をした瞳に、目の端に小さなほくろがあるのだと初めて知った。小さい唇だと、急に意識した。

 その後も、エレノアは何だかんだと色々話してくれていたのに、ちっとも頭に入って来ないで、エレノアの手の先の、爪の形が整っていることばかり考えていた。

 何を話していたかも記憶が無い。

 それほど衝撃的だった。恋の衝撃だ。

 緊張と、吐きそうなくらいの気分の高揚と、汗がじっとりと皮膚を覆ってく。動悸がうるさい。全力で走り込んだ後のようだった。

 それを必死で隠すように、唾を飲み込む。面会の終了時間が近づいてきていた。

 エレノアも時計に目をやったので気が付いている。

(あ……)

 このまま、ここで御礼を言って、騎士団に入れば、きっともうこうして二人きりで、エレノアと会うことはない。次に会う時、きっとエレノアの隣には立派な婚約者がいるに違いない。

 アベルの知らない男の隣で笑うエレノアを、見たくないと思ってしまった。


『俺の伴侶になって下さいませんか』


 絞り出した声で、聞きづらかったかもしれない。

 騎士団の制服の下の下着が汗でびしょ濡れだった。

 けれども、あの時、あの瞬間、それ以外の言葉が思い浮かばなかった。エレノアを欲しいと思ったのだ。あの賢くて、聡明で、美しいエレノアに側にいて欲しい。

 アベルの間違った考えを正して、答えがわからないことを二人で言い合いして探して、そう言う風にして隣にいたい。エレノアの考えをもっと聞かせて欲しい。

(エレノア様の隣にいると、世界が新しくなった気分になる)

 欲しくて、欲しくてしょうがなくて、子どものように強請ってしまった。


『…………奇特な奴だな。結婚を申し込むことは許してやる、応えるかはわからん』


 呆れたように言われたその言葉すら、希望になるほど心酔していた。

 約束通り、武功を挙げて、エレノアに結婚を申し込むつもりだった。家柄としては申し分ないとは言え、父親に言えばあまりに無礼だと言われるような事だった。

 アベルは長男では無いし、王族を長男ではない男の元へ嫁がせるというのは前代未聞だろう。けれど、結婚を申し込むことは許してやる、とエレノアから言われている。

 断られたって、粘るつもりでいた。あの頃のように、話をたくさんして、口説いて、どれだけアベルがエレノアを欲しいと思っているかを伝えようと思っていたのだ。


『それでは、エレノア様との婚姻の手続きを進めますね』


 結婚はエレノアの意思の確認もなしに、あっさりと承認された。

 アベルはしばらく戦争に参戦していて、国に帰っていなかった。数年帰っていなかったし、たまに戻ったとしても、社交の場に顔を出す余裕があるわけもない。

 数年ぶりに戻ると、貴族の社交の場で、エレノアは明確に孤立していた。

 誰もが彼を見ない。エレノアが何か言えばひそひそと何かを話して、冷ややかに笑う。誰もそれを咎めない。エレノアもそれに何も言わない。

(……何だ、これは)

 褒賞として、彼が欲しいと言ったらフロアがざわついた。

 その意味を正しく理解していなかった。てっきり、次男の立場で身分不相応な、と、そういうざわつきだと思っていたのだ。

 正しく理解したのは兵舎裏を通りがかった時だった。

『アベルも馬鹿だよな~、せっかく武功を挙げて褒賞貰えるってのに。金にしとけばいいのにさ、それか領土か。あれ、王様に言われたんだろうな。可哀想な奴。じゃなきゃ、あんな、面倒な第二王子様なんて褒賞でだって欲しがるかよ』

(…………は?)

 巷の噂をかき集めると、もっぱらアベルは、王様に頼まれて腫れものだった第二王子を伴侶にしたと、そんな事を言われているらしい。確かにエレノアの言葉は、元より、多少物言いがストレートで歯に衣着せぬものだったが、こんなにも嫌われるほどではなかったはずだ。

 婚姻の手続きはトントン拍子に進み、すぐに顔合わせの場が用意されて、結婚指輪が用意されて、結婚式用の衣装も用意された。

 顔合わせの場で、エレノアは「久しぶり」と小さな声で言って、少し笑っただけだった。王と、アベルの父親がずっと話していて、家族はそれに合わせて笑っているだけだった。なんとか食事会の後に、エレノアとふたりきりの時間を作れないかと思ったのに、それもエレノアが分刻みのスケジュールが組まれていて叶わなかった。

 結婚式はそれから三か月後にひっそりと行われた。

 王族の結婚式は、本来であれば一年以上前からお触れを出して、各国から招待客を呼んで盛大に祝うものだが、戦時下だという理由で、両家の親族だけを少し集めた小さな結婚式だった。

 けれど戦時下、と言われるほど、この国は今戦争をしていない。

 アベルが片付けた戦争が最後の戦争だ。ここのところは牽制することはあっても、実働部隊が動くような事態にはなっていない。ここ数年で、比較的平和な時だと言えるというのに。

『悪かったな』

 家にアベルを迎えたその日、最初に言われた言葉がそれだった。

 その言葉に込められた意味を、アベルは聞かなかった。それよりもあの頃よりも随分と、元気の無さそうな様子が気になった。

 両手でエレノアの頬を包んで顔を上げると、あの頃と同じ綺麗な瞳に、小さなほくろ。

けれどあの頃にはなかった影が、目元に落ちていた。少し痩せただろうか。

 何も変わっていないのに、アベルがいない数年で、誰が、どうして、この人をここまで傷つけたのだと腹が立った。

『……俺が、貴方を幸せにします』

 月並みな言葉しか言えない自分がもどかしかった。

 それを誓うようにキスをしたら、驚いたらしいエレノアに突き飛ばされた。

 もっと、この人を笑わせて、あの頃のように遠慮なく何だって言えるようにしてやりたい。本当はこの人が、意外とおしゃべりなんだと知っている。

 話をするのが好きなのだ。

 それでアベルが話を続けてやると、どんな質問をしたって喜んでいた。

 幸せにしてやりたい、と言ったら、エレノアが少しだけ笑った気がしたが、それはアベルの知っているエレノアの笑顔では無かった。

 結婚したその日、夫婦は同じ部屋で眠るのだと、私室のドアをノックされるまでアベルは忘れていた。

 それよりもこの数年でエレノアがあんなに委縮するようになってしまった事に腹を立てたりとか、この家でどう過ごしてもらうかとか、そんな事に気を回していたら、初夜の事などすっかり忘れていたのだ。

 コンコン、とノックされて、執事に『エレノア様のお支度が整いました』と言われてもまだ意味がわからなかった。

 エレノアを欲しい、という気持ちばかりが先行して、エレノアを手に入れてこの家に入れた喜びで満足して、感情が追いついていなかった。この気持ちが、性欲に繋がらなかったのだ。そもそも、心酔をしていたエレノアに、性的に触れるなんてことを自分がするなんて想像が出来ていなかった。

 けれど初夜から逃げるわけにはいかない。

 促されるままに夫婦の寝室へ行けば、綺麗な寝着を着せられたエレノアがそこにいてめまいがした。ベッドにいなくて、ベッドの側のソファに座っていた。

 ローテーブルにはグラスが置かれている。

「……なんで、お前の方が死にそうな顔してるんだ」

 呆れた声で言われて、アベルは言葉に詰まった。

 エレノアだって、アベルが部屋に入った瞬間、少し緊張していたのに、それを棚にあげて、ふ、と笑って手招きしている。こちらが年上なのだからリードしてやらないといけないはずなのに、いつだってエレノアの方が一枚上手だ。

「飲め、いいやつだって言ってた」

 注がれたグラスには美しいワインが注がれていた。部屋の照明に照らされたボルドーが、怪しく揺れている。

「……エレノア様」

「なに」

「………………俺が相手でいいんですか?」

 エレノアの瞳が揺れたのを見て、ついにこうなる時までエレノアの意向を聞けなかった事に思い至る。こんな事は本来であれば、結婚を申し込んだ時に、それより前に確認をするべきだ。

「今更だろ」

「それでもっ……」

 断れないように、してしまったのではないかと、後から後悔した。

 あの日、王の前で、貴族たちの前で、あんな風に言ってしまったせいで、断れなかったのではないだろうか。

「……お前がいいよ、アベル」

(嘘だ)

 目を伏せて、それからしっかりと目を合わせて言われたその言葉を、嘘ではなく本物だと信じ込ませられるだけの、説得力がエレノアにはある。

 けれど震えた指先が、握りこまれたのを見たら、そんなのは信じられなかった。

「……よかった」

 けれどその場はエレノアの言葉を信じた事にした方がいいだろうと、心にもない返事をしたら、エレノアはほっとしたようだった。

 ワインの程よい酩酊のおかげで、逆にアベルの頭は落ち着いてきた。

「今日はもう寝ましょうか」

「……え」

 ソファに座るエレノアの前に跪く。握り込んだ手に触れてみたかったが、それをする資格は自分にはないだろうと、目線を合わせるだけにする。

 エレノアの物言いはいつだって大人びていて、態度だって王族のそれで、落ち着いている。戸惑っているようなところは見たことが無い。

(ああ、でも)

 側にいてやればわかるようになるだろうか。

 少なくとも、エレノアの気持ちをわかってやれるようになりたい。

 エレノアが、アベルに教えてくれたように、エレノアが本当に求めるものを叶えられるようにしてやりたい。つらいと思っているなら寄り添って、嬉しいと思っているなら供に喜んで。

「一緒に寝ましょう」

「…………お前がそうしたいなら」

 

 あれ以来、隣で寝ることはあってもアベルがエレノアに性的な意味で触れることはない。抱き上げて、子どもに接するようなことはしても、それ以上の関係に踏み込んだことは無い。

 アベルを押し倒したときの切羽詰まったエレノアの顔を思い出す。

 思えば、あんなに感情を乱したエレノアは初めて見た。

(……戻ったら、話をしよう)

 結婚してもうすぐで一年だ。

 話してくれるだろうか、エレノアが何で悩んでいるのか。何故あんな行動に出たのか、何を欲しがっているのか、アベルといて、本当に後悔していないか。

 後悔してると言われたって、王族と結婚した以上、離婚するのは難しい。

 離縁すればそれだけで両家に影響がある。

 そもそもアベルとしては、エレノアを誰かに渡すつもりはない。後悔してると言われないように行動するだけだ。

 パチパチ、と焚火が爆ぜる音がする。暗闇のキャンプで、夜に考え事をしていると感傷的になりすぎて良くない。髪をかき上げて、息をゆっくりと吐く。

(考えてても仕方がない)

 もうすぐ交代の時間になる。明日もそれなりの行程を進んで、次の街へと移動しなければならない。次の街につけば、しばらくはちゃんとした国の宿泊施設で滞在できる。 野営で夜を過ごすのは久しぶりだった。

 交代まで少し時間があるので、資料に目を通そうと、鞄を開けると、資料を取り出したその奥に、見慣れないものが入っていた。

「え」

 見覚えのない白いハンカチが入っている。

 綺麗にアイロンの当てられたそれは、本当に見覚えが無い。試しに手に取ってみて、誰かの荷物が混じってしまったのかもしれないと持ち主を確かめようとしたところで、ハンカチの裏の、隅っこに見覚えのある紋章があるのに気が付いてしまった。

「……エレノア様」

 第二王子の紋章だ。よく知っている。何度も見た紋章だ。

 だとすればこのハンカチは、エレノアが用意したのだろうか。ハンカチの表面ではなく、裏にひっそりと刺繍されたそれは、少し形がいびつだ。

(うわ……)

 まさか、と思うのに期待に胸が高鳴ってしまう。

 そんな殊勝な事をする相手ではない。

 だから期待しないほうがいいと思うのに、そんなことをするはずがないと思うのに、けれど、エレノアがアベルの事を、少なくとも嫌っては無い事を知っている。

 ここ最近はアベルに何か言いたそうにして、結局うまく言葉にできずに落ち込んでいるのを知っている。

 言葉で相手に何かを伝える事を諦めてしまったといつか言っていたエレノアが、アベルに対しては努力して伝えようとしている事を知っている。

 一緒にいて一年、以前はわからなかったエレノアの表情もわかるようになってきた。

 意外と表情が豊かだとわかるようになった。アベルの顔を見ているエレノアを見ていれば、何が言いたいのかはだいたいわかる。

 今だってエレノアは側にいないけれど、どんな表情をしているかは想像がつく。

 きっと遠征に行く前に言い合いになったのを悔やんでるんだろう。

(……可哀想に)

 そんなにも気に病まなくとも、アベルがエレノアを嫌いになることは無いし、何をしたってエレノアを可愛いと思っているのに。

 きっと顔を真っ青にして、落ち込んで、このハンカチを用意したに違いない。

 質の良い生地に、アベルの瞳の色で刺繍がされている。手紙でもなく、ともすればこんな裏面への刺繍では見逃していたかもしれない。

 それでも、たぶん、エレノアはアベルを想っている。

(いじらしい)

 早く帰って抱きしめたい。叶うならそれ以上も。



「エレノア様!」

「……アベル、っ……うわ!」

 アベルが帰って来た、と執事が教えてくれたので、階下へ降りている途中で、アベルが扉を開けて帰って来た。

 あの日の事を、謝ろうと思っていた。

 その前に、帰ってきてくれて嬉しいと伝えようと、練習をしていた。アベルの顔を見て、伝えるべき言葉も考えていた。

 けれどそれよりも先に、突然抱きしめられて驚いた。周りの使用人たちも驚いている。

 エレノアが二階からの階段を降りきる前に、階段を勢いよく駆け上がったアベルが目の前にいた。

 いつものように、子どもを抱えるようなのじゃなくて、しっかりと身体を抱きしめられて、アベルの匂いが鼻をくすぐった。

「…………アベル、ここじゃ……」

「ああ、そうですね。部屋に行きましょう」

 強く腕を引かれて、用意してた言葉を告げる間もなく部屋へと連れ込まれる。

 いつもだったら、遠征先から帰って来たときはエレノアには触れてこない。汚れているからと、着替えてからしか近づいて来ないはずだった。

(……な、何だ……)

 妙にアベルの機嫌が良い。疲れているだろうに、執事たちにしばらく二人きりにしてくれとだけ言って人払いをしていた。アベルの私室へと招かれて、そのまま部屋に入るなり、先ほどと同じように抱きしめられた。

「ア、アベル……」

 抱きしめてくるアベルからは色んな匂いがする。誇りっぽい匂いも、土の匂いも、汗のにおいも、いつもアベルが抱きしめてくる時とは違う匂いがして戸惑う。

「……エレノア様、愛してる」

 続けられた言葉に驚いて、思わず少し身体を離して、アベルの顔を見上げた。

「………………他の女が良くなったんじゃないのか」

「え」

 想像もしていなかった事を言われた、とアベルが驚いた顔をした。

 けれどその反応だけで、あの話が嘘だったのだと言う事がわかって、胸をもやもやとさせていたものが一気に消え去った。

「……騎士団の連中が噂していた。ディアナ嬢と、お前が、ふたりきりでいたって」

 あまりにアベルが困惑した顔をしていたので、あの遠征のときの事だ、と告げてやると、ようやく思い至ったようだった。

「誰が言ってたんですか、それ、ああ、違います。えっと、ふたりで話してはいましたけど、相談されていたんです。彼女、ストーカーに追われていて」

「ストーカー?」

 聞けば、遠征で尋ねた街で、怯えた様子の女性がいたので声をかけたらそれがディアナ嬢だったのだという。あまりに怯えた様子だったから、家まで送り届けたところで、

ストーカーの相談をされたのだという。

 相手は良く知る相手で、父親の取引相手の息子で無下にもできないと言うので相当困っている様子だったらしい。

「それで、『好きでもない人に、好かれてても怖い』って言ってて、そうだよなって、思って、それで、…………貴方を思い出して」

「……なんで」

「…………貴方は、別に俺を好きだったわけじゃないでしょう」

 好きでもない相手に、好かれても、怖いでしょう、と続けられて、一瞬ポカンとしてしまった。どうだっただろうか、と思い出そうとして、思わず顔が熱くなってしまった。

 けれども、顔を逸らせるわけがない。だってアベルは心底、エレノアを心配しているのだ。

「俺が、あの日、皆の前で貴方を欲しいなんて言ってしまったから、断るに断れなかったんじゃないかって、ずっと思ってて、だから、余計に、怖くなりました」

 でも、と、話を続けるアベルが差し出してきたのは、ハンカチだ。

 見覚えのある、ハンカチ。

「……入れてくれたのはエレノア様でしょう?」

「あ……」

 遠征の前日の夜に、こっそりと入れたそれは、願掛けのつもりだった。

 騎士団の兵士を夫に持つ妻たちは、皆送り出すときに、刺繍を入れたハンカチを渡して、額にキスをして送りだす儀式がある。大きな戦であれば街中のあらゆるところで見られるその光景を、知らないわけじゃなかった。

 けれどエレノアは今まで、一度だってそれをした事がなかった。

 単純に恥ずかしかったのと、いきなり、キスもセックスもしていない間柄で、そんなことをすればおかしいだろうと思ったからだ。

 けれど無事を願っていないわけじゃない。早く帰ってくればいいと思っている。

 今回は送り出す時に、儀式どころか、声を掛ける事もできそうになかったから、せめてもと思って、隠すようにして入れたのだ。

「最初は、好きでもない相手に好かれて、迷惑だったかもしれないですけど、でも、今は、これをくれるくらいには、俺の事想ってくれてるって事でいいですか?」

 アベルの顔が近づいてきて、額がぶつかる。視線が近い。

 吐息すら感じられそうなほどの距離に、息を呑んだ。心臓が動きすぎてうるさくて、痛い。熱があがりすぎて、涙が出そうだった。背中を汗が流れていく感触がする。

「……っ……ちがう、」

「え、」

 驚いて身を引こうとしたアベルの首に腕を回して、初めて自分から抱き着いた。

 ずっと考えていたことだった。今日、アベルが帰って来ると聞いてから、帰ってきたら、こうしようと考えていた。

 顔は見られないように、アベルの隊服に埋めてしまう。

「…………俺は、ずっと……お前に、触れられたかった。嫌だなんて、思った事ない、だって、ずっと、っ……お前が、すきだった。お前が、俺を選んでくれて嬉しかった」

 最初から、ずっと、と言う言葉で繋ぐ前に、吐息ごとアベルに奪われた。

 キスをされて、唇を吸われて、離れて、それからまた深く口づけられた。力強い腕で背中を支えられて、身体の体重全部を預けてしまう。アベルの首に回した腕の力だけはゆるく、落ちない程度に入れて、あとは為されるがまま、キスを受け入れる。

「っ、はぁ……、エレノア様、本当に?」

 アベルの唇から伝う唾液が、エレノアの唇を濡らす。

「……お前だけ、だったから」

「……ん?」

「…………俺の話、ちゃんと聞いてくれるの」

 感謝してる、と言えば、そこでようやくアベルが昔のように笑った。

 

「ひっ……」

 ばしゃんっ、と水しぶきがあがった。

 腹に回されたアベルの手が、直接肌を撫でる感触に驚いて、身体を丸めてしまったせいだ。後ろからアベルの笑い声が聞こえてくる。

 一度湯浴みをしてくるとアベルが言うから、それなら部屋に戻る、と言おうとしたら、何故かそのまま手を引かれて、服を脱がされて浴槽へと連れ込まれた。

 いつもなら風呂場には使用人が何人か控えているのに、いつの間に指示したのか二人きりにされている。抵抗する間も与えられずに、連れ込まれて状況が把握できていない。

 戸惑っている間に服を着たまま湯を掛けられて、濡れちゃいましたね、一緒に入りましょうか、なんて強引な手を使うアベルに唖然としてしまう。

「……な、なんでっ……」

「さすがにセックスするのに、汚れてたら嫌でしょ?」

「セッ……‼ ……っ、!、お、前だけ、入ればいいだろ……!」

 服を脱がされて、後ろから抱き込まれて、アベルの肌が密着する。結婚したと言えど、肌を触れ合わせるのはこれが初めてだった。それに、腹を抱えられて、抱きしめられているせいで、尻のあたりに熱いペニスが当たっている。

 どうにかずらそうと身をよじるのに、アベルはその度にエレノアを抱え直すものだから、逃げられない。

「……俺が風呂に入ってる間に、エレノア様の気が変わっても困るんで」

「か、変わるも、何も……」

 エレノアはまだ、了承していない。そう言う事をしそうな雰囲気ではあったが、そうするとも何とも言っていない。ゆっくりと、腹を撫でられて、へその中へ指を入れられたり、太ももを撫でられたりと、されるがままだ。

「エレノア様」

 名前を呼ばれながら、耳を柔らかく噛まれて、居たたまれない。

 

「ア……アベル……っ……」

「怖いですか?」

 ベッドに抱えて連れて行かれて、着るものも無いせいで何もかもをアベルにさらけ出している。いつもなら食事に呼びに来られる時間のはずなのに、呼びに来られる事も無いと言う事は、アベルがそのように手配したのだ。

「…………っ、怖……くない、けど」

「けど?」

「……した事無いからな、こういうの」

 お前が全部やれよ、と言えば、アベルが嬉しそうに「わかった」と笑った。尻尾でもついていればきっとブンブン振っていただろう。

 首筋にキスを落とされて、額にキスを落とされて、怖がっていないか確かめるようにアベルがじっ、とエレノアの瞳を覗き込んで来る。

「……アベル、全部、お前にやるから、……いなくなるなよ」

 少しだけ身体を起こして、アベルの唇へそっと口づける。エレノアが、怖いと思うのは、アベルが側からいなくなることだけだ。それだけは伝えておきたいと、キスをした唇を舌で舐めて、アベルを見上げる。驚いた顔をしているアベルに笑ってしまう。

「本心だよ」

「…………エレノアが、素直になると心臓に悪い」

「忠実な騎士のフリはやめたのか」

「うん、もういい」

 敬語も、敬称も外したアベルは改めてエレノアに口づけた。

 互いのペニスを擦り合わせて、キスをして、荒い呼吸と、動悸で心臓が痛い。

 息が出来ないと言ったら、アベルが少しだけ時間を置いてくれて、呼吸を整える。その間にもぬるぬると、ペニスはゆるく擦りあげられていて、勃起しているペニスが痛い。

 自分でする時はすぐに達して追われるのに、アベルに握られたそれは、エレノアの好きなタイミングでは吐精させてくれない。もっと強い刺激で、すぐにでも射精したくて、あとちょっとの快感が欲しくて、思わず腰を揺すってアベルの手に擦り付けてしまう。

「やらしいな、エレノア」

「ひっ……」

 アベルが手を離すと、エレノアのペニスから糸を引いた精液が、アベルの指先を伝っていた。そのささやかな液体が流れる快感ですら身体が震えてしまう。

「ごめん、ちょっとだけ」

 ちょっとだけ、と言われて、何をするのかと問いかけようとした途端にキスをされて、

キスに夢中になってしまう。

 アベルとのキスは気持ちが良くて、まるで酒に酔っているみたいだった。エレノアが気持ちがいいと思う部分を舐められて、擦られて、ぞくぞくと背筋が震える。

「……気持ちいーな?」

「は……」

 合間に呼吸をして、大きく息を吸ったところで、先ほどまで撫でられていた尻の合間にアベルの指が入り込んだ。思わず肩を揺らして、固まってしまったのだが、それでもアベルはその指を止めることはしない。

「こっちでもそのうち気持ち良くなれるから」

 今日はちょっとだけ、と言ったアベルが、ゆっくりとエレノアの後孔に指を入れていく。ぬるぬると良く滑る指は、エレノアの抵抗を物ともせずに奥へ奥へと飲み込まれていく。

「エレノア」

 何が行われているのかわからなくて、とにかく異物感に耐えるように、アベルにしがみついていたら名前を呼ばれて、キスをされた。それから求めていた通りにペニスを擦りあげられて、わけもわからずに後ろも同じように擦られながら、キスをされて、名前を呼ばれて、射精をしたと思ったらアベルの指を後ろで締め付けてしまって、それがとんでもなく気持ちが良くて、思わず「あーっ……!」と声を出しながら射精した。

 過ぎた快感で身体が敏感になって、どこを触れられても気持ちがいいと、息も絶え絶えに思っていたら、太ももの間にアベルの剛直を挟みこまれて、アベルが達するまで擦りあげられた。アッ、ア、アッ、と声が止まらなくて、アベルに止まって欲しいと、腰を支える手に触れているのに、あとちょっとだからと聞いてももらえない。

 アベルのペニスがエレノアのペニスの裏を擦って、陰嚢を刺激するせいで、またエレノアのペニスも勃起してしまう。

 覆いかぶさられて、耳のすぐそばで荒い呼吸が、エレノアを求めて腰を打ち上げられる仕草が、何もかもがエレノアの性感を刺激する。汗で濡れた肌が、匂いが、セックスをしているのだと実感させられてくらくらする。

「ッ、エレノア……!」

「……ぅあッ……んん――ッ……!」

 アベルが射精するタイミングに合わせて、エレノアのペニスも強く擦られて、一緒に射精をした。普段運動をすることが無いエレノアにとっては過剰な運動で、息をいくら吸っても、整わない。はぁ、はぁ、はぁ、と、ずっと呼吸を乱していると、抱き起こされて、アベルの腕の中で座らされた。

「っ……アベル、」

「さすがにもうしないって」

 苦笑しながら言われて、手に水の入ったコップを渡されたので、それを一気に飲み干してしまう。良く冷えた水は、汗をかいた身体には気持ちが良かった。

「エレノア」

 名前を呼ばれて顔をあげると、そっと唇を押し付けられた。

 性感を呼び起こすようなものじゃなくて、ただ触れるだけのキス。

「……俺が、エレノアから離れることは絶対ないから、安心してて」

「…………どうだか」



 アベルが遠征にばかり行っていたのは、理由があるのだと後から聞かされた。

 遠征先で出会った令嬢とのことも誤解だったことがわかって、そうすると、突然何も、エレノアを脅かすものがなくなってしまった。

 勝手にエレノアがアベルを好きじゃないと誤解していたらしいせいで、距離を取っていたと言ったアベルは、今や遠慮なくエレノアを抱きしめてくる。

「エレノア……!」

「アベル」

 エレノアとて、家にいれば抱きしめられたところで、使用人たちに見られるだけだから許している。使用人たちに見られるのも恥ずかしいが、アベルがそうしたいと言うなら、それくらいなら受け容れてやろうと、そう思っているが、外でとなると別だ。

「……外ではやめろって言ってる」

「ああ、うん、ごめん」

「ひとつも反省してないだろ」

 城に訪れていたエレノアを見つけて走って駆けつけてきたアベルは、会うなりいきなり、家でそうするように抱きしめてきた。

 そのおかげで周りが大いにざわついている。

 それはそうだろう。一般的な人々の認知は「アベルは王に第二王子を押し付けられた可哀想な騎士団長」という認識なのだ。

 いつもなら、離れろ、と言うだけなのだが、その日は貴族の夜会が開かれることもあって、人が多く集まっていた。離れろ、と言っても一向に身体を離さずに、エレノアを腕の中に閉じ込めたままのアベルを見上げる。

「……アベル、キスしてくれたら、今日の夜、好きなだけ付き合ってやる」

「え」

 いい加減鬱陶しいと思っていたのだ。

 いつまでもありもしない噂を立てられて、それでチャンスがあると勝手に思われて、アベルに期待している御令嬢もいると聞いている。

「アベル」

 名前を呼べば、正しくエレノアの意図を理解したのか、アベルが丁寧にエレノアの顎を掬い上げて、キスをした。途端に周りのざわつきが大きくなる。絶叫のような叫び声も聞こえてくるが、どうだっていい。

 アベルはエレノアを好きで、エレノアもアベルが好きなのだから。

 それだけが事実だ。

「……この後、騎士団の兵舎でうるさく聞かれるのは俺なんだけどな」

「はは、いいだろ。教えてやれよ、旦那様。いい伴侶を貰ったって、言ってきて?」

 

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