第45話 虎と狸

**シーン:慶長3年(1598年)8月、徳川家康の陣営**


 徳川家康は、秀吉の死去が間近であることを知り、自らの動向について考えていた。彼の幕下には、さまざまな家臣が集まり、これからの政局についての意見が交わされていた。


**家康:** 「秀吉が死去するという話が伝わってきた。この動きがどう影響するか、よく考えねばならん」


 家康の忠実な家臣である井伊直政が近づく。


**井伊直政:** 「家康公、この時期においては慎重に動かねばなりません。秀吉の後継者問題が浮上する中、我々の立ち位置を確立することが重要です」


**家康:** 「うむ、その通りだ。秀吉の死は避けられぬが、これを機に我々の勢力を強化せねばならん」


 その時、藤堂高虎が陣営に入ってきた。家康は彼を見て微笑む。


**家康:** 「高虎殿、よく来られた。これからの情勢についてお話を聞かせてほしい」


**高虎:** 「家康公、秀吉の死は予想通りです。これからの政局がどう動くか見極めるために、私は家康公の側に立つ決心をしました」


**家康:** 「ありがたい。高虎殿の助力があれば、我々の計画もスムーズに進むだろう。これからが勝負だ」


 家康は高虎との会話を終え、静かに自身の過去を振り返る。彼の頭の中には、これまでの数々の出来事が次々と蘇ってきた。


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**シーン:家康の回想**


 家康は静かに座り込み、自分の人生を思い返す。


**家康(心の声):** 「私が幼い頃、家族と共に数々の戦を経験し、数多くの試練に直面した。武田信玄との戦い、上杉謙信との抗争…それらはすべて私を鍛え、成長させた」


 彼の心の中に、若き日の家康と、その後の数々の戦闘の映像が映し出される。天文11年(1542年)12月26日、岡崎城主松平広忠の嫡男として岡崎城において生まれる。生母は緒川城主水野忠政の娘・大子(伝通院)。幼名は竹千代。胞刀の役は酒井政家、蟇目の役は石川清兼が務めた。


 3歳のころ、水野忠政没後に水野氏当主となった水野信元(大子の兄)が尾張国の織田氏と同盟する。織田氏と敵対する駿河国の今川氏に庇護されている広忠は大子を離縁。竹千代は3歳にして母と生き別れになる。


 天文16年(1547年)8月2日、竹千代は数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られることとなる。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田信秀へ送られた。だが広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として2年間尾張国熱田の加藤順盛の屋敷に留め置かれた。


 2年後に広忠が死去する。今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代(朝比奈泰能や山田景隆など)により支配された。墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入った。


 なお、安城松平家の家督は、広忠が亡くなった時点で竹千代が継承していたと考えられている。そのことが今川家中において、既に領主となっていた竹千代に対する人質として扱いが領主の子に対する通常の人質の例とは異なった理由として考えられる。また、今川氏が家臣の集住政策を進めており、傘下の国衆に対しても例外ではなかったとする説もある。その場合、竹千代(元信・元康)の人質期間と家臣としての駿府滞在期間が混在していたことになる。


 永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで先鋒を任され、大高城の鵜殿長照が城中の兵糧が足りないことを義元に訴えたため、義元から兵糧の補給を命じられた。しかし織田軍は大高城を包囲しており、兵糧を運び込むには包囲を突破する必要があった。そこで5月18日、鷲津砦と丸根砦の間を突破して、小荷駄を城中に送り込み、全軍無事に引上げた。5月19日、丸根の砦を攻め落とし、朝比奈泰朝は鷲津の砦を攻め落とした。


 5月19日昼頃、今川義元は織田信長に討たれた。織田方の武将の水野信元は、甥の元康のもとへ、浅井道忠を使者として遣わした。同日夕方、道忠は、元康が守っていた大高城に到着し、義元戦死の報を伝えた。織田勢が来襲する前に退却するようとの勧めに対し、元康はいったん物見を出して桶狭間敗戦を確認した。同日夜半に退城。岡崎城内には今川の残兵がいたため、これを避けて翌20日、菩提寺の大樹寺に入った。ほどなくして今川軍は岡崎城を退去。23日、元康は「捨城ならば拾はん」と言って岡崎城に入城した。岡崎城に入る際、大樹寺住職の登誉天室と相談の上、独自の軍事行動をとり、今川からの独立を果たそうとしたとされる。また桶狭間の戦いの直後から、元康は今川・織田両氏に対して軍事行動を行う両面作戦を行ったとする説もある。さらに近年の新説として、桶狭間での勝利に乗じた織田軍の三河侵攻を警戒した今川氏真がこれに備えるために元康の岡崎城帰還を許したとする説も出されている。


 天正6年(1578年)、越後上杉氏で急死した上杉謙信の後継者を争う御館の乱が発生し、武田勝頼は北信濃に出兵し乱に介入する。謙信の養子である上杉景勝(謙信の甥)が勝頼と結んで乱を制し、同じく養子の上杉景虎(謙信の姪婿で後北条氏出身)を敗死させたことで武田・北条間の甲相同盟は破綻した。翌天正7年(1579年)9月に北条氏は家康と同盟を結ぶ。この間に家康は横須賀城などを築き、多数の付城によって高天神城への締め付けを強化した。


 また同じころ、信長から正室・築山殿と嫡男・松平信康に対して武田氏への内通疑惑がかけられたとされる。家康は酒井忠次を使者として信長と談判させたが、信長からの詰問を忠次は概ね認めたために信康の切腹が通達され、家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、築山殿を殺害し、信康を切腹させたという。だが、この通説には疑問点も多く、より信頼性の高い史料では信長は「信康を殺せ」とは言っておらず「家康の思い通りにせよ」と言っており、近年では築山殿の殺害と信康の切腹は家康・信康父子の対立が原因とする説や、築山殿や信康は実際に武田氏に内通して家康への謀反を企んだとする説も出されている。なお家康本人は堀秀政宛に「今度左衛門尉(酒井忠次)をもって申し上げ候処、種々御懇ろ之儀、其の段お取りなし故に候。忝き意存に候。よって三郎不覚悟に付いて、去る四日岡崎を追い出し申し候。猶其の趣小栗大六・成瀬藤八(国次)申し入るべきに候。恐々謹言」としている。


 岩村城の戦い以降に織田氏と武田氏は大規模な抗争をしておらず、後北条氏との対立をも抱えることにもなった勝頼は人質にしていた信長の五男・勝長を返還するなど織田氏との和睦(甲江和与)を模索している。しかし、信長はこれを黙殺し、天正9年(1581年)、降伏・開城を封じた上での総攻撃によって家康は高天神城を奪回する(高天神城の戦い)。高天神城落城、しかも後詰を送らず見殺しにしたことは武田氏の威信を致命的に失墜させ、国人衆は大きく動揺した。

**家康(心の声):** 「私が信長の下で仕官し、豊臣秀吉と連携した時代。それらの経験が私に多くを教えてくれた。今、秀吉の死去という新たな局面を迎え、我々の進むべき道が見えてきた」


 家康は立ち上がり、窓の外に広がる景色を見つめる。


**家康(心の声):** 「この道を進むことで、私が望む未来を築くことができるだろう。過去の経験を活かし、新たな時代を切り開くのだ」


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**キャスト案**


- **徳川家康:** 阿部寛

- **井伊直政:** 窪塚洋介

- **藤堂高虎:** 真田広之


このシーンでは、家康が高虎との会話を通じて、将来の計画を確認しつつ、自身の過去を振り返り、今後の指導力をさらに高める姿が描かれています。

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