幕間「とある村の牧師」

 200年前、この世界が誕生して300年が経過しようとしていた頃、とある村に心優しい牧師がいた。名をゼアスという。


 少し気が弱く、臆病な性格ではあったが、信仰心に篤く、勤勉で模範的な神官であったため、村の皆んなから「先生」と呼ばれ、親しまれていた。


 平凡だが、緩やかで優しい毎日。彼の心は満ち足りていた。


 しかし、その幸福もそう長くは続かなかった。


 ある日、村は100匹を超える魔猿の群れに襲われ、いとも簡単に占拠された。男たちが狩りに出かけている間を狙った襲撃だった。


 群れのボスは魔猿の中でも特殊な個体だった。長い時を生き、卓越した知恵と力を身に付けた正真正銘の化け物、魔猿たちの英雄とも呼ぶべき存在。彼は土魔法を操り、堀と外壁で村を囲み、難攻不落の砦を作り上げた。

 

 さらに彼は、村に残っていた少数の男たちと女たちとを分け、別々の部屋に監禁した。


 魔猿は他の生物の雌と交配し、子をなすことができる。村の女たちに起こった悲劇は、村が魔猿たちの群れに占拠された時点で既に確定した事実であった。

 

 村に残っていた男たちは、遠くから微かに聞こえる女たちの悲鳴に耳塞ぎ、嗚咽した。どうか、どうかその声が自分の妻や娘、恋人のものではありませんように、誰もがそう願った。


 人間は魔物と違って不死身だ。


 女たちは永遠に犯され、男たちは殺されることも許されず、ただただ愛する者たちの悲鳴を聞き続ける。村を絶望が支配していた。


 その中でたった1人、たった1人だけ、心の折れぬ者がいた。


 ゼアスである。彼は部屋の隅でひとり神に祈り続けた。糞尿を垂れ流しながら、一睡もする事なく、超人的な集中力で祈り続けた。否、集中ともまた違う。彼の精神は既に体を離れ、唯一神アーラムとの対話に成功していた。平凡な村の牧師であるゼアスには本来不可能なはずのその偉業を、この絶望的な状況が『ゼアスの精神を著しく老成させる』という形で可能にしていた。


 本来、神に何かを願うことは許されない。祈ることと願うことは違う。


 それでも彼は願った。


 より強い自分を。


 魔猿たちに、そして弱い己に打ち勝ち、圧倒できる程の強い自分を。


 3週間に及ぶ極限とも言える瞑想の末、ついにゼアスはアーラムから力を授かった。


 それは正しく、もう1人の“強い自分”だった。


◇◇◇


 ゼアスが授かった恩恵、その名は『影の病』。己のおよそ2倍の強さを持つ分身を意のままに操る能力である。


 力は勿論、戦いの技術、知恵、そして精神力まで使用者の2倍である。ゼアスは今まで喧嘩すらしたことのない戦いの素人であったが、一般的な成人男性程の力を持っている。その倍の力を持つ『影の病』の強さは想像を絶するものだった。


 『影の病』は魔猿たちを次々と打ち倒し、遂には彼らのボスを討ち取った。3週間もの間、攻め入ることができず、村を外から囲んでいた男衆や、彼らが雇った冒険者たちは、村内部の異変に気付くと、すぐ様突撃を開始した。


 やがて魔猿の残党は1匹残らず駆逐され、村に平和が戻った。


 しかし、女たちの心の傷は何年経っても癒えなかった。


 ゼアスは苦悩した。『影の病』は強い。しかし、これは借り物であり、自分の力ではない。強くなければ愛する人々を守れない。分身などではなく、己自身が強くならなければ。


 ゼアスは己の分身に嫉妬した。これを超えたい。皆を守れるように。私は弱い自分も、そして“強い自分”も超越しなければならないのだ。


 ゼアスの執念は病的な程に強力。


 正しく、『影の病』と呼ぶに相応しい物だった。


◇◇◇


 それからゼアスは分身に「己を殺せ」という命令を与え、ひたすら自分と戦い続けた。


 心臓を刺されても、首が取れても死ぬことはない。血反吐を吐き、もがき苦しみながらも、何度でも立ち上がり、彼は己に立ち向かい続けた。戦いの中でゼアスが成長すれば、分身はさらにその倍強くなる。能力の性質上、絶対に、絶対に勝つことはできない。それでも彼は戦うことをやめなかった。


 ゼアスの精神力は超常的だった。この世界の小さなバグとも言える。だが、その小さな綻びが少しずつ、少しずつ神さえ無視できぬほどの強大な『何か』に変わりつつあった。


 己と戦い始めて142回目の冬、ゼアスはついに分身の頭を己の拳で打ち抜いた。


 『影の病』はゼアスの執念が齎した勝利を祝福するように淡い光となって消え去った。


 偶然であったのかもしれない、何か能力に綻びがあったのかも知れない。それでも確かにゼアスは“強い自分”に打ち勝った。


 永遠に続くと思われた自分との鬼ごっこに終止符を打ったのだ。


 そして、ゼアスは人類最強となった


◇◇◇

  

 時は現在。


 この世界に“死”が生まれてすぐ、世界中の教会に信託があったが、とある村の小さな教会においてもそれは同様だった。


 1人の牧師が祭壇の前に跪き、神の言葉に耳を傾ける。



 “死”を殺せ。


 “死”は死から最も近い存在。


 “死”は自らの死から逃れられない。



 牧師は悦びに打ち震えていた。勿論、自分の力は皆を守るためにある。それは変わらない。


 しかし、それでも、それでも武人として互いの命を懸けた戦いには並々ならぬ憧れがあった。この世界では人は死なない。自分の愚かな願いなど永遠に叶わぬものと思っていた。


 それが、最高の形で果たされる。


 どちらかが生きて、どちらかが死ぬ。そんな、夢のような戦いに身を投じることができる。


 牧師の煌々とした魔力が高まる。


 教会が、いや、村全体の空気が彼の魔力を受けて揺らめいた。


 その時は近い。


 恐らく、この戦いは自分の全力を以ってしても、勝利できるか分からぬほど、過酷なものになるだろう。


 相手にとって不足は無い。


「“死”よ。すぐに行く。それまで死ぬなよ」


 牧師――ゼアスは最初で最後の宿敵に思いを馳せ、その機会を与えた神に感謝するよう、静かに聖印を切った。

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