第10話「愛しています」

 眠るガウルを置いて俺は部屋を出た。もうこの店にはいられない。


 目が覚めた思いだった。


 俺はまだ自分というものを理解していなかった。まだ“足りて”いなかった。


 心のどこかで、自分は誰かを愛せるのではないか、人のように生きられるのではないかと思っていた。


 だが、それは間違いだった。


 俺は“死”。


 その意味を俺は今一度考えなくてはならない。


 その意味から逃げてはならない。


 ……ガウルは生きている。


 本来なら殺さねばならなかった。それが俺の存在理由だから。ガウルを殺し、過去の自分を断ち切ることで己の存在を証明しなければならなかった。


 だが、できなかった。ガウルを傷付けることがどうしてもできなかったのだ。


 死ぬということは、“死”そのものである俺と一緒になるということ。死んだからといって心が離れてしまうことは決してない。むしろ死という儀式を経ることで俺と彼女の絆はより強固な物になるだろう。


 それでもできなかった。


 単純に彼女の肌に刃を突き入れることができなかった。彼女の血を見たくなかった。


 ただそれだけのことで俺は俺の存在を否定した。


 俺はまだ弱い。


 身体も、そして精神も。


 いつか、いつか俺はガウルを殺す。


 そして本当の意味で心を交わし、永遠に共にあり続ける。


 その時、俺の本当の望みは果たされるだろう。


 その望みが何なのか、今はそれすら分からない。


 だが予感がある。


 俺はきっとそのために生まれてきたのだ。


◇◇◇


 外に出ると冷たい風が俺の肌を撫でた。夏が終わり、少しずつ季節が冬に近付いているのを感じる。


 ふと後ろを見ると、見慣れた煌びやかな建物がこちらを見下ろしていた。


 ここに来てから様々なことがあった。


 下男として毎日懸命に働き、ガウルを一流の女にするため試行錯誤を繰り返した。


 今思えば愉快な日々だった。


 それももう終わりだ。


 俺はもう手段を選ばない。


 “死”として己を証明するために行動を開始する。


 今までのような甘さはいらない。


 俺は前に向き直り、歩き出そうとする。


「行くのかい」


 突然、声が掛けられた。振り向くと『赤い月』の一室の窓に見慣れた姿があった。


「……ローゼ」


 彼女ははいつかのように月の光に照らされて、その美しい容貌を儚げに瞬かせていた。


「哀れだね、シロ」


 俺は内心驚いていた。「哀れ」という言葉に対してではない。彼女が俺の名前を呼んだことにだ。ローゼは今まで一度だって俺の名を呼んだことがなかったのだ。


「シロ、お前は私を殺害するためにガウルに近付き、彼女を籠絡し、利用しようとした。しかし、結局はお前が逆に彼女に絆され、私という本来の目的を見失い、堕落した」


「な、何を……!」


 なぜ知っている。


 このことは誰にも話したことがない。俺の頭の中にだけ存在する事実だ。


 それをどうやって彼女は言い当てた?


 俺の体を得体の知れない怖気が駆け巡る。


 この女は何者だ?


 分からない。


 分からないが、この女は危険だ。


 俺は何があってもすぐに行動が取れるよう、身構えた。


「シロ、結局、お前は中途半端だったんだよ。彼女を殺すことも、愛することもできない」


 ローゼは歌うように言葉を紡いでいく。

 

「いつか、いつかお前は選ばなければならない。愛することと殺すこと、その2つは絶対に交わらないんだ。答えはもうお前の中にある。シロ、いや“死”よ、その時までお前は苦しみ続けるんだ」


「黙れッ!!お前は何者だ!なぜ俺の正体を知って……!ッ!?」

 

 息を呑む。


 ローゼは泣いていた。


 まるで初めて会ったあの時のように。月に寄り添い、慰めていたあの時のように、美しい頬を涙で濡らしていた。


「ローゼ……お前は……」

 

 瞬間、ローゼの雰囲気が変わる。


「行きなさい、シロ。私はお前をずっと見ている。お前が何を見て、何を選んで、何を為すのか、それをずっと見ているよ。懸命に生きなさい。お前は“死”だ。人を害し、終わりを齎す存在。だからこそ、お前は誰よりも懸命に生きるんだ。その責任が、お前にはある」


「なんなんだ……なんなんだよお前は……!」


 俺は恐怖していた。


 1秒でも早くここから逃げ出さなくては。


 俺は脇目も振らず駆け出した。足をもつれされながらも、一心不乱に走り続ける。


 彼女が恐ろしくて堪らない。


 きっと人間が自分に対して、“死”に対して抱く恐怖とはこのような物なのだろう。

  

 人が持つ本能的な恐怖。


 それから逃れるように俺は走り続けた。


◇◇◇


「行ってしまったか」


 ローゼは誰もいなくなった通りを物憂げな表情で眺めていた。


「きっと、きっとお前は後悔することになる。どの選択をしてもだ。お前はそのように作られている。それでも、それでも、そこに至るまでの道のりが、人生が、お前にとって少しでも幸せな物になりますように。私はそう願っているよ」


 ローゼは月を見つめる。その先にある、長い長い、彼の人生を憂いているように。


「シロ、私はお前を……いや、“貴方”を愛しています。それだけはどうか忘れないで」


 ローゼの涙がまた地面を濡らした。


————————————————————


【後書き】


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