第9話「痛み」
忘れていた。
いや、忘れたふりをしていた。
俺は人間ではない。
俺は“死”だ。
“死”は恋をしない。
否、してはならない。
俺はただこの世に“終わり”を撒き散らす存在。
人と交われるはずもない。
俺は俺の原罪から逃れられない。
告げねばならない。
俺にはその責任がある。
例え憎悪されようとも、糾弾されようとも、俺は告げなければならない。
「ガウル、ゴレムはもうこの世にはいないんだ」
俺はその言葉を口にした。
◇◇◇
「いい夜だね」
月の明かりに照らされ、ローゼが儚げに笑う。
“人は自分で自分の髪を切ってはいけない”
“人は人の長靴を履いてはいけない”
“人は過去の言葉を学んではいけない”
“いつか、その意味を知るでしょう”
“ 夢の終わりを知るでしょう”
“誰もが等しく人形を愛するように、誰もが等しく焚き火を囲むように”
“人は心を知るでしょう”
“人は愛を知るでしょう”
ローゼの歌声はどこまでも澄んでいる。
◇◇◇
「……この世にいない?変な冗談はよせよ……そもそもいないってなんだよ。意味分かんねえ」
ガウルが困惑したように笑う。
「冗談じゃない。俺が殺した」
「殺した?余計意味分かんねえって」
「教会でアーラムから信託があったと聞いているだろう。この世界に“死”が生まれたと。即刻、排除すべき危険な存在だと。それが俺だ。俺は俺の力でゴレムを殺した。お前はもうゴレムと会うことはできない」
「だから冗談は……」
「お前は“死”というのがどんなものか知っているか?」
「は……?」
「ある人が言った。人は死ねば考えることも、神に祈ることもできなくなる。勿論、大切な人と会うことも。死ぬということは真に独りになるということ。俺がゴレムをそうさせた。俺がゴレムを独りにさせたんだ」
「え?……え?え?だって人は不死身で。この世に死なんてなくて……」
「ゴレムは死んだんだ。果てしない苦痛と共に」
瞬間、ガウルが飛び掛かってきて、馬乗りになり、俺の首を両手で締め上げた。
俺は抵抗せずにそれを受け入れた。
「嘘だよな……?冗談なんだよな……?シロ、お前がゴレムを殺すわけないよな……?」
「嘘でも冗談でもない。お前も俺も、もう2度とゴレムと会うことはできない。ぐッ……!」
ガウルの両手に込められた力が強くなる。
「なんで!?どうして!?どうしてゴレムを殺す必要があった!?ゴレムが何をした!?」
「な、何も、して、いない、さ」
「……は?」
ガウルの力が一瞬緩んだ。その隙に俺は話し始める。
「けほッ、ゴレムはスラムでただ必死に生きていただけだ。小悪党ではあったが、恐らく人道に大きく外れたことはしていなかった。子分たちからも慕われていて、それなりに悪くない日々を送っていたはずだ」
「じゃあなんで……!?」
「俺が“死”だからだ。理由より先に存在がある。俺は“死”として生まれてきた。だから殺すんだ。お前に近付いたのだって、ローゼの気を引くためだ。決してお前のことが好きだからなどではない。俺はお前を利用していただけだ。最初からお前は騙されていたんだよ」
ガウルは酷くショックを受けたように顔を歪ませると、呆然としたように下を向いた。ガウルの首にかかっていた首飾りが彼女の体から離れ、俺の胸の上に垂れた。
「……シロ、お前は俺が好きか……?」
「いいや」
「お前はゴレムを殺した時、どう思った……?」
「美しいと、そう思ったよ」
「そうか……もう、もういい」
ガウルは再び俺の首を締め上げる。
「シロ、俺はお前が好きだったよ。お前と共にありたかった。今もきっとそれは変わらない。でも、もうその心は憎しみに蝕まれ始めている。それは嫌なんだ。お前を憎んでしまえば、もうこの世界にいる意味がなくなる。だから死んでくれ、シロ……俺のために、俺の最愛の弟、ゴレムのために」
涙に濡れた彼女の顔はゾッとする程綺麗だった。俺への恋心が彼女をここまでの美人に変えたのだ。
彼女の嗚咽の音だけが部屋に響いている。
俺の心の中は何故か冷静だった。
己の死を、“罰”を受け入れ始めている。
“死”は最も死から近い存在。
俺は不死身じゃない。ガウルに殺されることが、俺の償いだ。
それだけが俺にできること。
段々と意識が薄れていく。
夢と現実の間でうたた寝をするような気持ちのいい感覚。
ああ、やっと終わるのか。
俺は許されるのだろうか。
……俺はこれで人になれるのだろうか。
俺が意識を手放そうとしたその時、ふとガウルの力が弱まった気がした。
意識が一気に覚醒する。
どうしたのだろう。
俺を殺さないのか。
俺は、許されたのか……?
……いや、違う。
ガウルの表情を見る。
彼女は力を弱めてなんかいない。
今でも全力の力を両手に込め、俺を殺さんとしている。
ああ、クソ。
分かった。
分かったよ。
俺は彼女の“痛み”、そして己の“痛み”を受け、死としてもう1つ上の段階に成長したのだ。
単純に肉体としての強度が上がった。
それだけ。
首を絞められている息苦しさも、苦痛も完全に消え去っていた。
俺は呆気に取られる。
……ああ、なんて、なんて滑稽なのだろう。
彼女の途方も無い“痛み”が、嘆きが、逆に俺を彼女の復讐から遠ざけた。
頼んでもいないのに、俺の体は強く生まれ変わった。
俺はもう、彼女に殺されることも、彼女に許されることもできない。
こんな悲劇があるだろうか。
こんな喜劇があるだろうか。
「は、はは……!ははははは!!!!」
「……シロ……?ぐっ」
俺はガウルの鳩尾に拳を入れ、彼女の意識を奪った。
もういい。やはり俺は人になれない。
何も求めない。
何もいらない。
ベッドに倒れ込むガウルを見る。
「……恋とは時間が証明していくもの。時間が価値を持たせるもの。そう思っていた。しかし、俺はきっと、きっと初めて会った時からガウル、お前に惹かれていた。だからお前を利用することを選んだ。“一目惚れ”、今ならその言葉の意味を理解できる気がする。好きだったよ、ガウル。……本当に」
俺はガウルに口付けした。
彼女は頬を紅潮させることも、瞳を蕩けさせることもない。眠ったままだ。
その時、俺は完成した。
本当の痛みを知り、“死” として完全な物になった。
もう誰も俺を止められない。
俺は終わりをもたらす存在、赦しを与える存在。
だが、俺が、俺自身が赦されることは永遠に無い。
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