第6話「片鱗」

 それから『赤い月』での日々は目まぐるしく過ぎていった。


 俺とガウルは結託し、彼女の女性としての魅力を高めるために何でもやった。肌に良いと噂される泥を山奥から取ってきたり、とある植物系の魔物の頭部からのみ採取できる果実から油を作成し、肌の保湿に使った。


 勿論、彼女の娼婦としての人気が急激に上がることはない。しかし、髪を短く整え、生活習慣の見直しやスキンケアを行った今の彼女は、以前とは比べるべくもない大きな魅力を放っていた。


 だが


「ダメだ、このペースでは到底ローゼを超えることなんてできない」


 俺はガウルの私室で頭を抱えていた。


「なんでだよ。いい調子じゃねえか。見てみろよこの肌。ツルツルだぜ?それにこれ、客から貰ったんだ」


 ガウルは機嫌が良さそうに、如何にも高級そうな箱に入った焼き菓子を摘んでいた。


 俺は椅子から立ち上がり、ガウルのもとに歩み寄る。


「なんだ?お前も食いてえのか?ほれ」


 俺はガウルが差し出してきた焼き菓子の箱を思い切りひったくってゴミ箱に投げ捨てた。


「ちょ!何すんだてめえ!」


「言っただろ?今のペースじゃローゼに追いつけない。焼き菓子は糖質の塊、もっての外だ。それに……」


「それに?」


「気に入った娼婦へのプレゼントにたかが焼き菓子だなんて……そんな物を貰って一々喜ぶな」

 

「なんだよ、偉そうに……ってもしかして嫉妬か?」


「は?」


 思わず呆けた声を漏らしてしまう。


「そうか!お前、俺が客にモテて妬いてんだろ!そうだよな!お前、俺のこと好きなんだもんな!なんだよ!案外可愛いとこあんじゃねえか!」


 ガウルが俺に抱き付き、ぐりぐりと拳を俺の頭部に押し付ける。すごい力だ。俺はどうにか彼女の腕の中から脱けだすと、彼女の大きな尻を思い切り蹴り上げた。


「痛えッ!てめえ!何しやがる!」


「こっちの台詞だ。お前は娼婦で相手は客だ。誰が嫉妬なんかするか。だが、確かに少しでも客から人気が出始めているのはいい傾向だ。その調子で頑張れ」


「……毎回思うが、お前本当に俺のこと好きなんだよな?」


「勿論だ」


「そうかよ……」


「でもやはり今のままでは足りない。ローゼに追いつくにはこれまで以上に気を引き締め、生活習慣などの見直しを行うべきだ」


「ああ、分かった」


 ガウルが居住まいを正し、真剣な顔で頷く。その時、遠慮がちにドアを叩く音がした。


「誰だ?」


 ガウルがどこか不機嫌そうに声を上げる。


「ガ、ガウルさん……お客さんです……」


 下男の1人であるマルクが顔を覗かせ、オドオドした様子で言った。


 ガウルは粗暴で不器用な女だ。下男下女からは悪鬼のように恐れられている。


「そうか、すぐ行く。シロ、悪いな。話はまた後だ」


「ああ、分かった」


 2人でガウルの私室を出る。


「そこの2人、待ちな」


 反対の方向に別れようとする俺とガウルに、突然声がかけられる。


 そこには思わぬ顔があった。


「ローゼ……」


 ガウルが犬歯を剥き出しにし、威嚇するように低い声で呟いた。 


 ローゼ、やはり美しい女だ。その白い肌と濡れ羽色の髪、まるで空に浮かぶ月のようだ。彼女は本当にこの世の人間なのだろうか。神が俺の心を惑わせるために遣わした天使なのではないだろうか。そんなことを思ってしまう。


「最近、2人でコソコソと何か企んでるみたいだね」


 ローゼが探りを入れるように言った。

 

 意外だ。俺は思う。


 ローゼは今まで、俺たちの行いに対して静観の姿勢を貫いてきた。


 メリッサなど、ローゼ派の娼婦たちは、俺がガウルと関わり出すと途端に近付いてこなくなったが、それでも邪魔をしてきたり、探りを入れてきたりすることはなかった。


 それがまさか、ローゼが直接俺たちのもとにやってこようとは。

 

「なんだっていいだろ。話しかけてくんな!」


 ガウルが怒鳴る。


「ふん。やはり下品な女だね。流石は

“半獣人”。誰もお前の存在を望んじゃいないよ」


「……なんだと……?もう1回言ってみろ……」


「何度でも言ってやるさ。半獣人の呪われた子め。お前たちがやってるのは無駄な努力というものさ。どう足掻いても私には勝てない。というかさ、お前は生まれた時点で負けてるんだよ、ガウル」


「殺す!」


「おい!待て!」


 ガウルがローゼに襲い掛かろうとするのを、慌てて後ろから羽交い絞め にする。


 クソ!本当になんて力だ!ゴレムの痛みを食って成長した俺の腕力をものともしない!


「マルク!お前も手伝え!」


「あ、ああ!分かった!」


 マルクと協力してどうにかガウルを押さえつける。


「離せ!シロ!こいつは俺だけじゃなく、俺の“血”も馬鹿にしたんだ!邪魔するならお前でもぶっ殺すぞ!」


 クソ、今ローゼとガウルをぶつけるのは下策も下策だが、だからと言って俺がガウルに嫌われたのでは本末転倒だ。


 ……やむを得まい

 

 俺は突然、ガウルを腕の中から解放した。すると彼女は勢い余って前のめりに地面に倒れ込む。


 俺は天井に向かって突き出されたガウルの大きな尻を思いっきり蹴り上げた。


「キャン!」


 ガウルが子犬のような悲鳴をあげる。その隙に俺はガウルの前に回り込み、彼女と視線を合わせるように腰を落とした。


「シロ!テメェ!何しやが……んむっ!」


 俺はガウルの口を自分の唇で塞いだ。


 激しく抵抗するガウルの身体を、俺は全身全霊の力で押さえつける。


 前にもこんなことがあった気がするが、今はどうでもいい。


 やがて彼女の身体からは力が抜け、糸が切れたように大人しくなった。


 そこでやっと俺は彼女を解放した。


「落ち着いたか?」


 問いかけると、彼女はコクリと呟いた。


 彼女は頬をリンゴのように真っ赤にさせており、瞳をトロンと蕩けさせ、下を向いている。


「じゃあ、行くぞ。客が待ってる」


 俺はガウルの手を掴みそこから立ち去ろうとする。


 ……待て。大事なことを言うのを忘れていた。


 俺は足を止め、ローゼの方に向き直る。


「ローゼ、お前は確かにいい女だ。今のガウルより遥かにな」


 ローゼは続きを促すように俺の瞳を見つめている。


「だが、それは娼婦としての話だ。俺の前でのガウルは、お前よりも、誰よりもいい女だ。それを忘れるな」


 ガウルが俺の手を微かに握り返す感触がした。


「……ふん。子供のくせにキザな奴だよ……だけどいいよ、覚えておいてやる」 


「それならいい。じゃあな、ローゼ」


 俺とガウルはその場から立ち去った。


◇◇◇


「てめえ!さっきはよくもやってくれたな!」


 ガウルから拳骨を貰う。


「悪かったな。尻を蹴ったりして」


「キスのことだよ!もう2回目だぞ!?子供が簡単にああいうことをするな!」


 ガウルが肩を怒らせながら言う。確かに俺はやり過ぎた。自分でもどうしてあんな行動を取ったのか分からない。だが、今のガウルの態度を見る限り、あながち間違いではなかったようだが。


「……でも、助かったよ」


「ん?」


「助かったって言ったんだ!あのままじゃきっと俺はローゼをぶちのめしてた。そうしたらもうここに居られなくなる」


 この世に人間の“死”は存在しない。「殺す」というのが比喩的な表現だとしても、この店の一番人気であるローゼを攻撃したら、確かにガウルはここを追い出されてしまうだろう。


「ああ、気にするな」


「でもキスはやめろ!さっきも言ったが、お前はまだ子供だ!まだそういうのは早い!」


「分かった分かった」


「てめえ!本気で分かってるのか!?大体お前はだな!」


 ガウルの説教を聞き流しながら俺は考える。今までのガウルやメリッサの話を聞く限り、ローゼはそもそもガウルに対して少しの興味も持っていなかった。ガウル派とローゼ派の対立構造も、ガウルや、それぞれの取り巻きである娼婦たちの感情によるものに過ぎない。そこにローゼの意志は介入していなかった。


 だが、今回のローゼのガウルを侮辱するような一言。


 俺たちの行動によって、ローゼの心に何かしらの変化が生じていると考えて間違い無いだろう。


 目の前のガウルに目を向ける。


 まだ恋心とはいかないが、俺に対して好意の片鱗のような物を見せ始めている。


 全ては順調だ。


 俺は腕を組んで怒鳴りつけてくるガウルの耳がぴこぴこと楽しそうに揺れているのを見逃さなかった。


 

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