第4話「狼」

 次の日から、俺の『赤い月』での生活が幕を開けた。 

 

 『赤い月』は俗に言う売春宿の形式を取っており、短時間の利用も可能だが、基本的には宿泊を前提とした利用を推奨している。


 そこで働く下男、下女の仕事は多岐に渡る。宿泊客の朝食の用意に始まり、館内の清掃、客の案内、衣装の洗濯、延いては娼婦たちの話し相手まで。


 現在、俺は客が帰った後の部屋を清掃していた。いくら店主のお気に入りと言えど、中途半端な仕事は許されない。少しの汚れも残らないように、念入りに床を磨いていく。


 それにしても豪奢な部屋だ。壁に飾られた絵画を始めたとした調度品の1つ1つにザバスの並外れた感性の鋭さを感じる。そのどれもが高級品に違いないが、ただ華美なだけでなく、娼婦と客の一時の逢瀬の邪魔にならないような奥ゆかしさも同時に感じることができた。


 その時、突然何者かに後ろから体を抱きしめられる。振り返るとそこには、ここで働く娼婦の1人、メリッサの姿があった。


「シロ〜」


 メリッサが甘えるように俺の頬に自分の頬を寄せてくる。彼女は一目見た時から俺のことを気に入ったようで、何かにつけて俺の側にいたがった。


「メリッサさん、どうかしましたか」


 このままでは仕事を続けることができない。鬱陶しく思う気持ちをなるべく顔に出さないよう気を付けながら問いかける。

 

「どうかしないと話しかけちゃダメ?」


「そういうわけではありませんが……」


「そ!なら一緒にいよう!」


 尚更強くメリッサが抱き付いてくる。


 面倒だ。


 勿論、人に好かれること自体は悪い気はしないが、それも俺の人間離れした容姿によるものだと思えば、気持ちも冷めてしまう。


 優れた容姿を持つ者に好意を抱くというのは人間の本能だ。それを悪だと糾弾するほどの思想も理屈も俺は持ち合わせていない。


 だが、容姿などに捉われず、自分の心根を評価して欲しいと思うのも、また人の本能である。


 前者を仮に『体の本能』と呼称するならば、後者は『心の本能』とでも呼ぶべきか。


 そして人は普通、その『心の本能』こそ重要視すべきだと唱える。


 俺は”死”である前に1人の人間だ。


 否、人間でありたいと思っている。


 俺はメリッサの好意を嬉しく思うと同時に悲しくも思った。それが、それこそが人間らしい感情だと思ったから。


「テメェら、仕事もほっぽって何してやがる」


 密着する俺たちに突然声がかけられる。振り向くと、これまたこの店で働く娼婦の1人、ガウルがこちらを睨みつけていた。


 燃えるような赤い長髪に、尖った狼の耳、ギラギラと光る緑色の瞳。顔中そばかすだらけで凶暴な顔つきはとても娼婦には見えない。


 彼女の左右には山猫と牛の獣人の女が1人ずつ腕を組んでこちらを見下ろし、立っていた。


「ガウル……」


 メリッサが忌々しげに呟く。


「はん!ここに来て1日も経たない新人にベッタリとは、これじゃあどっちが娼婦だか分かったもんじゃねえな!」


 ガウルの一言に取り巻きの女たちがゲラゲラ笑う。

 

 下品な連中だ。


 しかし、彼女たちも自分のテリトリーを守るために必死なのだ。そう思えば腹が立つこともない。


 ガウルはこの娼館を二分する勢力の1つのリーダーだ。彼女は獣人、もしくは獣人の血を引く娼婦たちを纏め上げ、己の支配下に置いた。


 そして、もう片方の勢力を纏めるのは他でもない、俺が狙う女、ローゼだ。


 メリッサはローゼの派閥に属しており、そのメリッサに気に入られた俺も、事実上、ローゼの派閥に身を寄せたことになる。


 くだらない、と俺は思う。


 剣も持たない娼婦たちが歪みあって、その先に何があるというのか。ただ己の居場所を確保するのに必死になり、大事な物を見失う。これでは獣と一緒ではないか。


「そうだ!シロと言ったか?お前に俺の客をやるよ!女みてえな顔したお前には、娼婦はお似合いの職業さ。もしかしたら俺より客を満足させられるかも知れねえぜ?」


 ガウルが笑う。


 メリッサが悔しそうに顔を歪ませ、俺の体を強く抱きしめる。


 本来は怒るべきところなのだろう。


 しかし俺は今、別のことで頭がいっぱいだった。


 今こいつは何と言った?


『もしかしたら自分より客を満足させられるかも知れない』


 彼女なら、ローゼなら死んでもこんなことは言わない。


 彼女たちは高級娼婦だ。そして、少なからずそのことに誇りを持って生きている。


 ガウルはたった今、その誇りを投げ出した。しかも、自分ではその事実に気付いていない。それだけ、彼女の心には卑屈さが染み付いている。誇りを投げ出すことに慣れ過ぎている。


 こいつはただ自分を強く見せているだけのボンクラだ。


 その中身は空っぽ。


 戦っているように見えて、とっくに戦意を喪失させている。



 ーーこれは使える



 俺は思った。


 娼婦たちの陣取りゲームなど、全くもって興味が無かったが、ローゼに近付くには利用できるものは利用しておきたい。


 現在、ローゼは俺に対して糞程の興味も示していない。


 まずは彼女に、俺が彼女の精神を揺るがすに足る人物だということを示さねばならない。


 話はそれからだ。


 月を手に入れるために、まずは狼に媚を売る。


 狼は月下で、俺の思うがままに踊ってくれるはずだ。


 それを側から眺めるのはさぞ愉快なことだろう。


 俺は立ち上がると、ガウルの元まで歩いていく。


「な、なんだよ……」


 ガウルがたじろいだように僅かに体を震わせた。


 やはり、お前はボンクラだ。


 恐れるな。隙を見せるな。


 それがお前の覚悟を鈍らせている。


 俺は彼女を思い切り突き飛ばし、壁に追い込んだ。突然のことに彼女は驚き、へなへなと地面に座り込む。

 

 俺は間髪を入れず、彼女に口付けした。


「ん!んむむっ!」


 あまりのことに、その場にいた全員が息を呑んだ。


「……テメェ!何すんだ!」


 ガウルが俺の体を蹴り飛ばす。遅れて、ガウルの元に取り巻きの女たちが心配するように駆け寄った。


「ガウル、お前は魅力的な女だ」


「何を……!」


 ガウルが右手で口を拭いながら俺を睨み付ける。その頬は僅かに紅潮していた。


 俺は自分の容姿も、使えるものは全て使う。


「だが、お前は自分の魅力を引き立てる術を知らない。お前のような原石は磨けば今の何倍も、何十倍も輝くことが可能だろう」

 

 ガウルは俺の言ってることの意味を図りあぐねているようだ。こちらを睨みつけながらも、俺の次の言葉を待っている。


 ここが運命の分かれ道。


 お前はいつか、この瞬間を後悔することになる。


 最早、俺の勝利は確定したも同然だ。


「ローゼを超えたくはないか?」


「なッ」


 彼女のコンプレックスを的確に刺激する。ガウルがこの娼館において一定の地位を獲得できた理由はその腕っぷしと根性にある。


 決して容姿が優れてる訳でも特別客から人気がある訳でもない。


 だが、彼女とて女だ。必ずローゼなど、女性的な魅力の溢れる娼婦たちへの嫉妬心が存在する。


 その証拠にガウルは動揺したように視線を右に左にと彷徨わせている。


 俺は再びガウルの元に歩み寄る。


 取り巻き共に囲まれるが、気にせず2人を突き飛ばし、間をすり抜ける。


 俺は狼狽したように下を向くガウルの顎に手をやり、無理矢理視線を合わせた。


 ガウルが今にも泣きそうな顔でこちらを見ている。



ーーここだ。



「ガウル、お前こそこの娼館の女王に相応しい」


 彼女の瞳が驚愕に染まる。


 俺は留めの言葉を放った。


「俺がお前をプロデュースしてやろう」

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