第1章「娼館編」

第2話「福音」

  その日、世界中の教会に唯一神アーラムから信託がなされた。


 世界に“死”が誕生した。“死”の力は今は弱いが、いずれ必ず世界の脅威となる。危険の少ないこの世界で武芸を磨かせたのは全てこの時のため。即刻、打倒すべし。


“死”は死から最も近い存在。


“死”は自らの死から逃れられない。


◇◇◇


 俺はいつものように、できるだけ人目を避けるようスラム街を歩いていた。時折、地面に腰を掛けて何事かを呟く人々に視線を投げられるが、気にせず歩いていく。


 俺の現在の容姿はそれ程目立つものではない。


 真っ白な髪や肌も泥を塗りこみ、今は灰色だ。身に纏っているボロ布もスラムのゴミ捨て場からくすねてきた物だ。


 ふと周りを見渡す。


 あちらこちらにゴミが散乱し、どこからか腐った卵のような不快な臭いが漂ってくる。


 この街は、この世界は歪だ。


 人間は死ぬことがない。だから世界は平和で、大きな争いも無い。


“見かけ上は”


 個人に目を向けると違う。大きく道を誤った者、そして、何かしらの欠陥を持って生まれてきた者。


“生”が救いにならない者たち。


 彼らが最後に辿りつく場所がここだ。真っ当に生きることも、そして死ぬこともできず、ひたすら毎日を消費し続けるだけの日々。


 うんざりする。


 死は救いでもない、罰でもない。


 ただ、そこに存在するべきもの。


 誰もが平等に享受すべきもの。


 “俺”はそのために産まれてきた。


「おい、シロ」


突然後ろから声を掛けられ、振り向くと、そこには見知った顔があった。


 スラムでは珍しい太った体に、高圧的で鋭い眼差し、この辺りを縄張りにしている少年たちのボス、ゴレムだ。彼の左右には取り巻きの少年が1人ずついる。


 俺はこのスラムに来てまだ日が浅いが、彼の手下と一度だけ軽い諍いを起こしたことがあった。どうやらそれで目を付けられてしまったらしい。何かに付けてしつこく絡んでくるのだ。


「シロ、お前、今日の炊き出しで貰ったパン、まだ食ってないだろ。寄越せ。俺の手下が腹を空かせているんだ」


  ゴレムの左の少年を見ると、頬が痩せこけており、確かに栄養が足りていないのは明白である。この世界では、栄養失調でも死ぬことはないが、怪我や病気と違って自然回復は望めない。


「悪いな。もうさっき食っちまったんだ」


 嘘じゃない。確かに教会の炊き出しがあってすぐには食べなかったが、丁度さっき腹が減って食べてしまった。


「嘘だ!炊き出しの時、そのポケットに入れたのを見たぜ」


「だからもう無いって」


「うるさい!いいから出せ!」


 突然、ゴレムが殴りかかってくる。俺は避けようと動くが、体のわりに俊敏な彼の動きに付いていけず、右の頬を打ち据えられる。


「くっ」


 俺はあまりの衝撃に地面に倒れこんでしまう。


「ジーク!やれ!」


 ゴレムの声を受けて、取り巻きの少年の1人が倒れた俺にのしかかってくる。


 反射的に両腕で顔面を隠したのは正解だった。ジークと呼ばれた少年が馬乗りになって俺を殴り付けてくる。俺は猛攻に耐えながら腕の隙間から彼の血走った瞳を見た。


 そこには憎しみの色だけがあった。


 俺は彼にそこまで憎まれることをした覚えがない。


 そこで気が付いた。


 彼は自分を守っているのだ。このクソみたいな毎日の原因がまるで俺にあるかのように自分を錯覚させることで、俺を殴る理由を作っている。


 そうしなければ俺を殴れない程、彼は弱い。


 そう考えると彼が途端にに哀れに思えてくる。


「ッお前!今、俺を嗤ったな!?」


 ジークの瞳に憎しみの色が増す。


「笑ってなんか……」


「シロ……!お前ごときが俺を嗤うな……!嘲るなああああ!!」


 両手で首を掴まれる。


 少しずつ、少しずつ頭の中が真っ白になっていく。


 ああ、なんだか熱いお湯に漬かってるような。


 このままどこかへ行ってしまいたい。


 ああ。


 ああ、いい気持ち。


◇◇◇

 

  目を覚ますとゴレムたちの姿は消えていた。俺は立ち上がると体中の痛みに耐えながら再び歩き出す。


 5分もすると目的の建物が見えてくる。


 中に入る。


  等間隔に設置された長椅子には、まばらに人が座っており、どの人も静かに瞳を閉じて祈りを捧げているようだった。


  俺もそれに倣い、長椅子に腰かけ、瞳を閉じた。


 この教会に来るようになったきっかけは些細なことだった。


 炊き出しの時、とあるシスターに誘われたのだ。神を信じれば救われるだの、なんだの最初は正直、鬱陶しく思ったが、毎日のように根気よく話し掛けてくるシスターについに俺も折れてしまった。


 それに気になることもあった。


 曰く、毎日祈りを欠かさずに行えば、神から力を与えられると。


 どんな能力が与えられるかは本人の資質に寄るようだが、もし手に入れられれば今後のための大きな力になるだろう。


 しかし、俺は神にとって少々イレギュラーな存在だ。


 力を与えられることはおそらくないと思う。


 でも、それでもいい。


 俺は神に祈りを捧げるこの時間に不思議な心地よさを感じていた。


 勿論、俺に信仰心など欠片もない。


 しかし、瞳を閉じ、頭を空っぽにすると、まるで自分の存在が許されているような気持ちになってくる。


 鼻から入ってくるこの匂いもいい。埃っぽいようで、どこか懐かしい。


 どんどん自分から余計な物が無くなって、世界と一体化していくような感覚。


 今、この瞬間のために生きているような気さえする。


 その瞬間、胸の中に何か温かなものが入ってきた。


 それは一瞬だけ体内で盾の形を象り、体全体に溶けて消えていった。


「これは、神から与えられし力……?」


 まさかと思うが、この感覚は、そうとしか考えられない。


 こうして、俺は神の気まぐれか、新たな力、ホーリーシールドを手に入れた。


 皮肉なものだ、この世界の唯一神、アーラム。彼は本来“生”を司る神とされている。その神から“死”そのものである俺に自分を守るための力が与えられるとは。


◇◇◇


「神から恩恵を授かったようですね」


 突然声を掛けられ、深く潜っていた意識が浮上する。そこには俺を教会に誘ったシスター、マリーの姿があった。彼女はどこか満足そうに俺を見ていた。


「みたいですね」


「感心なことです。神は自らを信じ、祈りを捧げる者には平等に力を授けてくださります。その力はあなたが毎日真面目に祈りを捧げた証拠でもあります。これからもその調子で励むことです」


 マリーはにっこりと笑い、俺の頭を撫でた。


「それはそうと、シロ君」


 マリーの表情が真面目なものに変わる。シロというのはゴレムたちに勝手に付けられた蔑称のようなものだが、マリーは気にした様子も無く俺をそう呼んだ。


「この世界に“死”が誕生したようです。あなたも気を付けてください」


「“死”ですか」


「ええ。今はまだ力が強くないようですが、彼が成長すればこの世に大きな影響を及ぼすことは間違いありません。“死”は恐ろしいものです」


「どう恐ろしいのですか?」


「あなたはまだ小さいので“死”というものをよく理解できないかも知れませんが、人は死ねば二度と考えることが出来なくなります。考えることができないということは神に祈りを捧げることもできないということ。それに大切な人にも会えなくなります。それは真の意味で独りになるということです」


「それは……確かに恐ろしいですね、ただ、俺には最初から大切な人なんていません」


 俺が言うと、マリーは少し驚いた顔をした後、両腕で俺を抱きしめた。


「そうですか……それなら、私があなたの大切な人になれるよう、あなたが適切に“死”を恐れられるよう、努力しなければなりませんね」


 マリーの体は毛布のように温かかった。


◇◇◇


 寝床に帰ってきた。俺の寝床は入り組んだ路地の見つけにくい場所にある。藁を敷き詰めただけの簡素なものだが、ただ寝るだけなら困らない。


 仰向けになり、星空を眺める。


 綺麗だ。好き勝手に星と星を繋ぎ、様々な生き物の形を作る。こうしていると胸を渦巻く様々な想いも幾分かはマシになるような気がした。


 俺はこの世に“死”として生まれてきた。


 その使命は唯一神アーラムを殺し、この世界に“死”を蔓延させること。


 しかし、この使命は誰の命によるものなのだろう。


 そもそも、そんなことは許されるものなのか。


 マリーは言った。“死”とは孤独だと。


 人は死ねば独り。ならば、その孤独は俺が1人で引き受ければよい物なのではないだろうか。そうすれば誰も苦しい思いをせずに済むのではないだろうか。


 そうすれば俺も……


『駄目よ』


  声が響く。


『確かに“死”は孤独よ。現に私は今、とても寂しいもの。でも、だったらみんな殺してしまえばいいじゃない。そうすればみーんな一緒。寂しくないわ』


 確かに、それは悪くない。


『そうでしょう?』


「おい!」


突然の怒声に飛び起きると、そこには右手に松明を握ったゴレムの姿があった。


「お前……女みてえな声出して……1人で何やってんだ……?」


 どうしてゴレムがこんなところにいるんだろう。そもそも「女みたいな声」ってどういうことだ?それに1人……?俺の隣にはミザリーがいるだろう?


 不思議に思っていると、ゴレムは焦ったような顔で捲し立てる。


「お前!気持ち悪いんだよッ!ジークの奴もお前がここに来てから様子が変だし、お前といると、なんか余計なことばっか頭に浮かんで、脳みそがはち切れそうになる!この毎日が全部無駄なように思えてきて……ああ、そうだ!こんな風に自分の喉にナイフを突き立てたくなるんだ!」


 ゴレムは懐からナイフを取り出すとそれを自分の喉元まで持っていく。


「やめろ!」


 反射的に彼の右手を掴むが、強靭な膂力で振りほどかれる。


「お前、なんなんだよ!なんでここに来た!俺たちをどうするつもりなんだよ!」


「どうするって……」


「もう!俺には何も分からねえんだよおお!!」


 ゴレムが半狂乱になり、ナイフを振り上げ、襲い掛かってくる。


「ホーリーシー……!」


『駄目よ』


 反射的に、障壁魔法、ホーリーシールドを展開させるために構えた腕を隣から掴まれる。


『そんなものに頼らないで。それに見て、あのナイフ。とても濃厚な“死”の香り。ゾクゾクするでしょ?』


 腹部にナイフが突き刺さる。ああ、ああ確かにこれは……


 心地よい。


 神の力なんていらない。


 そもそも、俺には最初から祈りなんて必要なかった。いや、祈りを捧げるべき相手が違う。


 アーラムなんかじゃない。


 俺が祈るべきなのは俺の胸に指名を刻み込んだ人物。


 この世に“死”の雨を降らせろと、俺に命じた人物。


 それは、俺自身。


 思い出した。


 俺は“死”そのもの。存在そのものが“生”を許さない。


 俺は俺の意志で人を殺すのだ。


 理屈じゃない。


 そういうものとして生まれてきたのだ。


 存在が、使命が、理由より先にある。


 腹部から血が流れる。ああ、痛い。“死”が、俺自身が俺を呼んでいる。


 俺は噛みしめるように瞳を閉じる。


 俺が信仰するのは俺自身。



 祈ろう。


 ただ己に。


 己の為に。


 瞬間、腹部の傷口から冷たい何かが体の中に入ってきた。


 これは“痛み”。


『分かった?“生”とは痛み。あなたはこの先、痛みを感じれば感じるほど“生”を理解する。そしてそれは“死”を、あなた自身を理解することに等しい』


 ミザリーが俺の肩に抱き着いてくる。


「そうか。つまり、俺は痛みを受ければ受けるほど力が増すということか」


「な、なんなんだよお前は!」


腹を刺されても落ち着きを保っている俺に、ゴレムは怯えたような表情を作る。


「もういいよ、お前は」


 俺は一瞬で距離を詰めると、ゴレムの右の首筋に嚙みついた。


「確かに顎の力も増している気がする。パンを齧るかのようだ」


俺はゴレムの肉片を吐き出し、右腕で口元を拭った。


 遅れてゴレムが倒れる。


 やはり“死”は美しい。どんなに下種な人間であっても最期は平等に尊いものだ。


 何者でもない者が、何かになれる。それが“死”だ。


 俺はまた、祈りを捧げた。

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