第1章 1日目 承節「宮本千織という少女。」


「お疲れ様です、先輩。」


 問題集やら、教科書やらが所せましと置かれた4人がけの机。

 その席でおあつらえ向きにぽっかりと空けられている場所に、僕はいつも通り腰掛ける。


「驚きました。今日は、こないと思っていたので。」


 走らせていたペンを止めて、宮本さんがこちらを見る。


「はぁ、どうして?」

「いえ、だって先輩、5限の時に体調悪そうにしていたので。

 ……なので今日はてっきりお迎えか、そうでなくてもそのまま帰ると思っていたんです。」


 あぁ、なるほど。

 そう、納得しかけたところで僕はふと、疑問に思う。

 何事もなく、さも当たり前のように喋る宮本さんだが、どうしてそれを知っているのか。

 

「よく知ってたね。確かに今の今まで保健室にいたのは事実なんだけど、もしかして廊下とかですれ違ったっけ?」


 しかし、その疑問も宮本さんによってすぐに解明される。


「いえ、その時間、体育館の半分を使っていたのは私たちのクラスだったので」


 その言葉に僕は大いに納得する。

 確かにあの時間は半面、違うクラスが使っていた気がする。

 クラスメイトの柏原もなんだか騒いでいた気がすると思ったが、それは女子だったかららしい。


「そう言うことか、それはごめん。いかんせんあの時は本当に頭が痛かったから気づけなかったや」

「いえ、そんな謝罪なんて。それにしても、体調の方はもう大丈夫なんですか?」

「うん。ただの貧血。

 もともとよく貧血は起こしてたし、最近調子が良かっただけだから、そんなに気にしないで大丈夫だよ。」

「そう、ですか。それならいいんですけど、あまり無理はなさらず」


 不安げに瞳を揺らす宮本さん。

 つくづく、性格がいいな、とは思う。

 人は、ここまで無条件に人に優しくできるものなのかというのは、宮本さんをみて思ったことだ。


「うん、ありがとう。それにしても、宮本さんの方も相変わらずすごい量だね。」

「あはは、すいません汚くしちゃって」


 放課後の2人だけの図書室に、僕たちの談笑が小さく響く。

 特に何をするでも、何を話すでもない。

 お互いがお互い、好きなように時間を使うだけ。2人というよりは、1人が2組いるだけの空間。

 宮本さんは、ペンを動かし勉強していて、僕はただ読書に耽るだけ。

 そんないつも通りの放課後が、今日も流れていた。



 大きく、しかし邪魔にならないよう静かに息を吐く。

 視線を落とし、もう1度集中しようとするがうまくいかず、ぼんやりと本越しに目の前に座る後輩を観察する。


 定期的に揺れる長くて綺麗な黒髪のポニーテール。

 小さな顔。

 大きな双眼に浮かぶ黒色の瞳。

 細い肩に、制服から覗くきめ細やかな肌。

 丁寧な言葉遣いや、気品のある仕草からはどことなくお嬢様を連想させるが、風の噂によるとその想像も当たらずとも遠からずらしい。


「先輩?私の顔に何かついていますか?」

「……んや、ごめん、ちょっとぼーっとしてた。」


 気を紛らわせてしまったかと思い、宮本さんに謝罪する。

 しかし、彼女も休憩のタイミングだったらしく、特に気にしていない様子だった。


「……そういえば、気になってたんだけど。」


 2人して休憩に入ると、途端に静寂が気まずく感じて話題を持ち出す。

 そんな僕に、宮本さんは小さく小首を傾げる。


「はい、なんですか?」


 とりあえず口に出した会話の切り出し。

 しかし、特に話題も決めていなかったため脳みそをフル回転させて決める。


「いや大したことじゃないんだけど、宮本さんって将来の夢とかあるのかなぁ、と思って。」


 唐突な質問にシズカさんは少し目を開いて不思議そうにしている。

 それはそうだ。

 僕だっていきなり将来の夢なんて聞かれたら驚きより先に困惑する。


「将来の夢、ですか?」

「そう、将来の夢。

 宮本さんほど勉強している人を僕は見たことがないし、何か将来のためにやってるのかな、と思って。」


 ちょっとした疑問。 

 そのつもりだったのだが宮本さんは少し困ったように眉を潜めてしまった。


「いえいえ、私はそんな大層な理由はないですよ。他に特にやることもないので、なんとなくやってるだけです。」

「な、なんとなく……、それはなんというか、凄いね。」


 宮本さんの勉強理由を聞いて驚愕する。

 僕も別に勉強が嫌いなわけではないが、やることがないから勉強をできるほどではなかったから。


「先輩は何かありますか?」


 驚愕の隙間を塗って宮本さんの声が聞こえる。


「何か?」

「将来の夢、です。私はそういうのあんまり考えたことがなかったんですけど。先輩は何かあるのかな、と。」


 そう言われて初めて、将来の夢というのが聞かれて案外困るものだということに気づく。

 それがなんだかおかしくて、僕は失笑をもらす。


「自分で言っておいてなんだけど、僕もあんまりないかも。」


 でも、それでも。

 ふと、思いついた自分の理想の姿を口に出す。


「……でも、しいて言うなら、なんでもない毎日を送ってたいかな。」

「なんでもない毎日、ですか。」


 僕の答えにシズカさんは小首をかしげる。


「そ。ほら良くいうじゃん。大企業に務めて~とか起業して一攫千金~とか、やりたいことを形にする~とか、そういった所謂凄いこと。」


 僕の言葉がおかしかったのか、宮本さんは左手を口に当てて静かに笑う。


「でも、そういう自分の思いを形にしたいとか、凄い人になりたいとか、偉業をなしとげたいとかそういった欲求はなくてさ……ただ普通に、生きていたい、とは思うかな。」

「普通、先輩の大好きな言葉ですね。」


 普通。

 それは、きっと僕の口癖なのだろう。

 それが見抜かれている気がして、なんだか少し気恥ずかしい。


「このままそこそこ勉強頑張って高校卒業して、

 ぽろぽろと単位を落としながら大学生活謳歌して、

 まぁまぁの企業いって、そこそこの給料で、それなりの生活をする。

 ……強いて言うなら、これが僕の夢。」


 気づけば、長い間自分だけが話してたことに気づいて謝罪する。


「いえいえ、それはすごい……素敵な夢ですね。」

「そう?友だちにはいつもつまらないってい言われるんだけどね。」

「そんなことありません!とてもいいと思います。

 私も、その普通に居られたらどんなに幸せだろうと、思います。」


 それがお世辞なのか、本当にそう思ってくれるのかは分からない。

 しかし強い否定と共に同意してくれるシズカさんに感謝を伝える。

 伝えようとして、その言葉より先に思わず疑問が口に出ていた。


「え?」


 それは、とらえようによって告白にも見えるセリフ。


『そんなことありません!とてもいいと思います。私も、その普通に居られたらどんなに幸せだろうと、思います』


 そのセリフが今1度頭に繰り返される。


『そんなことありません!とてもいいと思います』


 うん。

 ここはいい。


『私も、その普通に居られたらどんなに幸せだろうと、思います。』

『私も、その普通に居られたらどんなに幸せだろうと、思います。』

『私も、その普通に居られたらどんなに幸せだろうと、思います。』


 これは一体、どういう意味か。


 え。

「え?」

 え?


 気づけば、同じセリフが口から漏れていた。

 疑問に視線を前にとばせば


「え、あ、そのこれは、その違くて、言葉のあやと言いますか、なんというか。」


 おそらく気づいたであろう宮本さん。

 その宮本さんが、リンゴのように耳まで真っ赤にさせた宮本さんがそこにはいた。


「と、とにかく違いますから!」


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