第1章 1日目 起節「黒上シヲリという少年。」
◆1日目。
――厭な、夢を見た。
そんな既に忘れつつある記憶と共に目を開けば、あまりにも見知った天井が視界に入る。
「……。」
鼻につく消毒液の匂いと、仕切られた清潔感のあるカーテン。
ぼんやりとした思考。
けだるい身体。
暖かい布団が二度寝を誘ってくる。
しかし、いつまでもここで寝ているわけにもいかず、仕方なく僕は体を起こすことにした。
「お。おはよう黒上君。体の方はもう大丈夫かな?」
「……はい、おかげさまで。」
白衣に身に包んだ、どこか幸薄そうな瘦せこけた男性。
若くはないだろうが、決して年は感じさせない不思議な雰囲気。
そんな男性と最早テンプレートと化された挨拶を終えて、僕はベッドから降りる。
ベッドの脇にはクラスの誰かが持ってきてくれたのであろう、僕の荷物一式と着替えが、丁寧に籠に入れられていた。
「今、何時ですか?」
「もう16時半だね。」
着替えるのは面倒くさいので、体操服の上から制服に袖を通す。
「もう、授業は終わっちゃいましたか。」
「つい、10分前くらいに6限のチャイムが鳴ったばかりだから、今は帰りのホームルーム中かな?どうする、急ぐ?」
「……いえ。今から行っても最後挨拶をするだけでしょうし、無駄に気を使わせるだけなのでこのまま帰ります。」
なんて。
そんなことを考えながらも、自分はどうして保健室にいるのかを思い出す。
……お昼ご飯を食べて。それで、
それで、どうなんだっけか。
起きてばかりは頭が働かない。
先生が出してくれたコーヒーを口に含んで、鈍い思考回路に必死に電力供給をして時間をさかのぼるも徒労に終わる。
「それにしても、ここに来るのは随分と久しぶりだね。最近は黒上君が来てくれないから、私も随分と暇でね。」
「保健室の先生とは思えない発言ですね。先生は僕に体調を崩せと?」
わざとらしく寂し気に表情を浮かべる先生。
そんな先生に僕は呆れてため息をはく。
「まさか、生徒の健康をサポートするのが私の役目だからね。勿論、冗談半分さ。」
「半分も本気なら、十分すぎますが。」
しかし、確かに言われてみれば保健室にくるのは半年ぶりほどだろうか。
「その半分の本気は、君が健康なことへの嬉しさだとも。
……とと、そんな嫌な顔をしなくとも、これが本心なことは君ならわかるだろう。」
「だからですよ。」
歯が浮くようなセリフを吐く先生に、僕は顔を顰める。
意図のわからない優しさなど、下手な悪意よりたちが悪い。
「全く。相変わらずひねくれているね、君は。」
ひねくれている。
一体それはどの基準からみてですか、というの質問は恐らくその形容の助長にしかならないため口は閉じることにした。
だからそんな、先生の言葉を無視して、僕は最後にベルトを締め、ブレザーを羽織る。
ふと鏡中の人物に焦点が合った。
学校指定の制服に身に包んだ、無印のような男。
……ずれた眼鏡をかけなおす。
しかしその程度で、平易な容姿が変わることは勿論なく。
どころがその無骨な黒縁のメガネが、高校生らしいフレッシュさだとか、明るさだとか、そういったポジティブな要素を綺麗に殺してしまっている。
あえて特筆すべきところと言えば、頭髪検査にぎりぎり引っかかるであろう無造作に伸びた前髪程度な男が、そこにはいた。
「……はぁ。」
というか、僕だった。
残念ながらというべきか、なんというべきか。とにかく、目の前に写るこの無味乾燥した男がどうやら僕こと――黒上シヲリという人間らしい。
◇
「じゃあ、僕はここらへんで。いつもご迷惑をおかけします。」
気づけば、保健室の外の賑やかさは消えていた。
話していれば早いもので、机上の電子時計は既に17時を指している。
「いやいや全然。これが僕の仕事だからね。」
「ありがとうございます。」
僕は元々、そう体が強い方ではない。
だから恐らく近々またお世話になることを見越して僕は頭を下げる。
「あ、黒上君。」
保健室を出る手前。
扉に手をかけたところで呼び止められて振り返る。
「はい、なんですか?」
みれば、不安げにこちらを見る先生の顔。
「またいつでも来てくれ。そういえば、この前いい茶菓子を貰ってのを思い出してね。1人で食べるにも、食べきれないからさ。」
見れば確かに、おあつらえ向きと言わんばかりに僕の好物ばかりが、そのバケットに並んでいた。
「あはは。えぇ、そういうことなら、是非。」
「体調の方は本当に大丈夫かい?よければ家まで送っていくけど。」
「いえ、そこまでじゃないですよ。2時間くらい寝てたわけですし、もうすっかりです。」
「そうかい、それならいいんだけどさ。」
杞憂だろうか。
いつにもまして、心配性な先生に首をかしげる。
「まぁ、それなら今日は真っすぐ帰るんだよ。[l]最近は何かと物騒だからね。」
「お気遣いありがとうございます。……では、さようなら。」
「はい、さようなら。」
そして、僕はそんなありふれた挨拶を最後にこんどこそ保健室を後にした。
――ガン。
保健室の扉が閉まる音。
まだ17時だというのに校内に既に人気は少なく、体育館からわずかに叫び声が響いてくるくらい。
――コツ、コツ。
ローファーが地面をたたく音が廊下に響く。
正面玄関からは鈍色の光が差し込んどおり、保健室とは打って変わり廊下はひどく冷え込んでいた。
今日は、どうやら曇天らしい。
「……さて。」
体調は万全とは言わないがこれくらいなら大丈夫だろうと、僕はそのまま正面玄関をくぐることなく、脇にそれて階段に足をかける。
脳裏に過るのは1人の後輩。
半年ほど前から奇妙な事件から、縁が続いており放課後、図書室で会うことが多くなり、最近になっては毎日だった。
別に約束をしているわけではない。
ただ、何も声をかけずに帰るのはなんとなく、自分的に気がかりだっただけ。
いなければ帰ろう、そう思って図書室の扉をくぐる。
程よい室温と、紙の匂いに心が落ち着く。
中には今日も、人気はない。
自分で言うのもなんだが図書室なんて陰気臭い場所に、青春を謳歌するのに忙しい高校生は用などないのであろう。
そんな図書室のさらに奥。自習室、と書かれた部屋を開ける。
……ふわり。
花のような香りがした気がした。
教室の半分程度の大きさ。
特別何かあるわけではなく、机といすが置かれただけの、そんな部屋。
そしてその場所には案の定というべきか、なんというか。
「お疲れ宮本さん。」
「……っ。お疲れ様です、先輩。」
やはり宮本千織が、そこにいた。
◆
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