第八話『先行く者の助言・その3』
「預かっているだけだからって……いいえ、預かっているだけだからこそ、扱いには気をつけた方が良いのよ」
「何が言いたい」
「線引きはしっかり保て、って話」
──伝わっていないわね。
男が返してきた声に女はそう断じて、溜息を交えながらキッチンへと横目をやる。落とされた浅鍋たちはとうに片付けられ、元通り吊棚に設えれたフックからへ提げられていた。それを認めた女の視線はふたたびテーブルを見下ろし、未だ片付けに来ない皿の数々を一瞥して肩をすくめた。
「どうせアンタの事だから下手に同情して、ここ以外でもまともな扱いしてたんでしょ?うちに奴隷を連れ立って来て、あまつさえ同じ食事与えるなんて前代未聞だもの」
言い終わるとともに椅子へ踏ん反り返るその姿勢で、女は己の店が誇る豪奢な内装を指し示す。その声には確かに、男に対する侮りや嘲りといった色が含まれていた。
「……それの何が悪い」
そこに
「それこそが残酷だ、って言っているのよ」
「じゃあ何か?カビたパンだけ食わせて倉庫に転がしときゃ良かったってのかよ」
──やっぱり通じない。通じていない。
それは半ば予想のついていた反応であり、男のそんな性格を何よりも尊く思っている。だがそれ故に女が再び、そして深く吐き出し溜息は呆れと苛立ちの色をより一層濃くしていた。
もはや言葉では足りない。見切りをつけた女は、さりげなく走らせる視線で周囲の様子を伺う。そうして机のふたりが黙り込むと、フロアは途端に静けさが支配していった。
どうやら姉が見送った乗客が最後だったようだ。確信を得た女は小さく顎を引いて頷き、テーブルの下でそっと踵を挙げた。
「うわっ!」
それから突如として響き渡った轟音に、男は驚きの声を上げる。
一拍を置いて男をちらりを伺った後、女はテーブルの下で上げた踵を思い切り強かに打ち下ろしていた。
いきなりの事で、男にはその意図も皆目見当がつかない。畢竟出来る事といえば、開いた目を白黒とさせながらテーブルの下を伺うしかできなかった。
すわ大きめの虫でも目の端に捉えたか。こいつは嫋やかな見た目に反してそう言う事を平気でする性格だし……。
しかしそんな場違いな推量が的を射ているわけもなく、何の変化も見られない床下から目線を戻し、混乱から抜け出せないままに呆然と女の顔へ目線を戻す。
「お前……」
そこで男はやっと気付いた。攻撃性をこれ以上ない程露わにした行為の直後だというのに女の目には全く、いかなるなんの感情も籠っていない事に。
更に言えば自分を見つめるその目に反して、明らかに意識の向いている方向が別であるという事も感じ取れた。それは男が元居た場所──相対する者への洞察が直接的に生死に関わるような所で、否応なく磨かれた感覚の賜物だった。
例えば幼い時分、屋敷で下された不機嫌な主人の命令。その言葉の裏に隠された真の望みを汲み取って動けるかどうか。
あるいはいくらか年を経て、剣戟響き合う平原で睨み合う相手の視線。獲物を構え気を吐きつつも、味方の工作が成る瞬間を待っているだけではないか。
そのいずれにもすんでの所で命からがら隠された正解を導き出せた。だからからこそ男は今日まで生き延び、穏やかな暮らしを手にできている。
しかし今この時に限ってはなまじ生命が懸かっていないからか、女がどこへ・どうして意識を割いているのかまでは読み取ることが出来ずにいた。そんな男が対応や言葉を探しあぐねているうちに、キッチンの奥から浅黒い肌を持つ瘦身の青年が駆け出してきた。
けっして肉付きの良いとは言えないその両手を前掛けの余りで拭きながら、何度も頭を下げつつ女の前で立ち止まる。
「……皿、いつまで下げないつもり?姉さんが最後のお客様を連れて行ったんだから、全員が食事を終えた事くらいわかるはずだけれど」
そちらに一瞥すらもくれないままに放たれた女の言葉に、男は思わず息を吞む。
それは長い付き合いの中で一度も聞いたことが無い程の、冷たく乾いた声のかたちをしていた。
「も、申し訳ございません!!」
途端にざあっと顔を青ざめさせ、浅黒い肌の青年は今までにも増した勢いで何度も頭を下げる。それが当然の反応であるかのように相変わらずそちらに身体を向けないまま、女は横目だけで泡の残る上腕を見据えて声を続ける。
「それと、前にも言ったよね。手洗いは完璧に、って」
──反省が足りなかったかしら。
一段と鋭さを増した言葉尻に、青年の小さな悲鳴が被さった。
穏やかな響きの裏にある別の顔と、その宣告を向けられることが何を意味するもの。男が洞察を働かせるまでもなく、成年の怯え切った顔と泳ぐ瞳が雄弁に物語っていた。
「……これが、正しい扱い方よ」
慌ただしい手付きで机上の皿を攫って、成年は逃げるようにキッチンへと引っこむ。その足音が聞こえなくなってからやっと、女は感情を取り戻した声を男へと向けた。
「情を入れるな、そう言いたいのか」
すなわちそれは、自分の行いが完全に過ちであるという指摘だった。男はすっかりものが無くなった机の上に肘を着き、掌の底に右頬を引っかけながら睨み上げる。
「それが彼らの為でもあるのよ」
「納得できねえな」
──でしょうね。
食い下がる男へ女が返したその言葉には、まるで無理なねだりに駄々をこねる幼子を嗜める母親のような呆れぶりが覗いていた。
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