第九話『先行く者の助言・その4』

「どうしてだ、って顔ね……なら答えましょう。理由は簡単彼らのほぼ全員が、だからよ」

「そんな──」

「アンタは特別だったの。分かっている筈よ」


 抗弁を遮りもう何度目かになる嘆息を吐き出しながら、女は外へ目を向ける。

 店と街の中央を彩る噴水を隔てた向こうで、10人程度の男が1本の長い縄に繋がれていた。皆厨房の青年と同じ痩せた身体と浅黒い肌を持ち、一様に項を垂れつつ裸足のまま重い足取りを市場の方へと向けていく。長い事洗われておらず脂で束になり埃を纏った前髪の間からは虚ろな表情が覗いていた。それはさながらここまでの旅路で悲嘆も諦観もとうに越えてしまった、生ける骸の浮かべる顔だった。


「『奴隷』って身分から解放されるのは並大抵の事じゃないの。雇い主に大金を払って自分自身を買うか、誰かに身請けしてもらうしかない」


 そこで一度言葉を切った女は、窓から目を離した視線を斜めに下ろした。男と同じく自ら厨房を回す者として毎日の激務で荒れ放題の左手には、指輪のひとつも収まっていない。


「身請けされるだけじゃ身分は変わらない。その上で配偶者になるか、そうでなければ養子に取るか……その手続きだって決して低いハードルじゃないのよ」

「分かっているよ」

「いいえ、分かってない」


 苦し紛れに挟んだ口もぴしゃりと遮られ、ほぞを嚙む心地で男はこめかみに爪を立てた。

 すべて過去、自分の身に起きた事なのだから分かっていない筈がない。

 物心ついてすぐにとして買われ、いずれどこかの戦場に躯を晒す筈だった自分の運命は、奇跡的な嚙み合いによって変わった。その幸運と新たな主──ではなく、もうひとりの父親になってくれた商人の父親に対する感謝は1日たりとも忘れたことはない。

 同時にその事実の中には賭けや運といった、決して自らの力だけではどうにもならない要素が多分に含まれている──それを自覚しているからこそ、男はそれ以上の反論を浮かべらずに黙り込んでしまう。


「どちらにせよそれなりの身分を持っていることが前提で、もし養子にするなら既に家庭がなきゃ門前払い。配偶者にするとしても家族の他にもうひとり、充分に養えるだけの経済的な余裕がなければ審査は通らない……アンタ、要件のどれかひとつでも満たしてる?」


 ──なら話は変わるけど。

 己の薬指を見つめながら、女はそう付け足して話を締める。虚ろな平衡を描くその目には先程と同じく、明らかに侮りの色が浮かんでいた。しかし一方でその言は全く正しく、男が何も言い返せないこともまた事実だった。

 俺はまだ、あの人ほどの金も余裕も、立場も成し得ていない。

 そこに挟まれた沈黙は男の熟考、というよりは現実を呑み込むまでにかかった時間と言った方が差し支えない。

 その末に渋面を広げつつ重たく首を落とした男を前に、女は天井を仰ぎ込み上げそうになった涙を誤魔化していた。


「そうよね。だったらアンタも私も、こんな形で話なんかしてはいない」


 再び与えられた人生へ常に感謝し決して折れず、時に不相応であったり力の伴わない物事に対しても、ある種子供のように純粋な理想を振りかざして立ち向かう。

 そんな男の性分を一時期は誰よりも理解し、尊重し、そして懸想していた。

 そんな女は自分で作りだした空気に耐えかねたように、再び窓の外を見やる。


「……アンタには、あの子の定めを変える力はない。その上で人並みに扱うのは、単に幻を見せているだけ。掴めない希望の果てに叩き落される絶望現実は、どれほど心をえぐるでしょうね」

「あ──」

 

 改めて現実を叩きつけられた男の脳裏には、昨晩の食卓で子供が見せた表情の変化が生々しく蘇っていた。その反芻はんすうがもたらすのは、胃の奥から熱が失われていくような感覚。

 無神経な己がしてしまった事の残酷さに、男は今更ながらに顔を青ざめさせる。その無様さと痛々しさに首を振りつつ、女は最後の斧を振り下ろす。


「……あんたの考えも行動も、ひとつも間違っちゃいないよ。でも、間違ってない、ってだけ」


 理想は大事。

 遠くとも立ち向かう事も大事。

 けれど、足りなければどうしようもならないものも、あるじゃない。


 そこまでを口にしなかったのは、もう十二分に意気消沈している男への手心というだけではなかった。

 その言葉が指し示すものこそが、互いの過去に対する墓標でもある──少なくとも女は、終わってしまった関係と理由をそう位置づけていた。

 あなたが奴隷の出でなければ。

 あるいは父が身分の違いを気にしないひとならば。

 もしくは街が私を成功者の偶像として飾り立てなければ。

 そのどれかがひとつでも叶っていたならば今頃──私達は向かい合ってではなく、はずなのに。

 思い起こすたび鼻の奥に覚える疼痛と共に、乾いた音の無い叫びをあげて見せたところで、全てはもう遅きに失した過去の話に過ぎない。


「あの子、買い手はついてるの?」


 だからこれ以上この話を続けるのは、自らに新たな傷を彫り込むだけだ。

 離れたふたりの歯車が再び嚙み合って動き出すことは、もうないのだから。

 とうの昔に何度も見切り諦めをつけていた女は、隣へ置いておいたエプロンを手に取りつつ話の水を向け直す。

 

「……いまあいつが商談に向かっている。この街の人間かどうかは、知らない」

「ならアンタにできるのは、あの子がせめて買い手にわたることを祈ることだけ。それ以上を望むのは、やめておきなさい」

「あ、おい──」


 それまでの話しぶりからは考えられない程手早く話を纏めて席を立つ女に、男は思わず動揺をそのまま声に出してしまう。

 だがそんな引き留めにも一切足を止めることなく、女はテーブルの隅に置かれていた伝票を手に取って歩き出した。


「そろそろ夜の仕込み始めなきゃ間に合わないの。同業なら理解わかってくれると嬉しいわね。それじゃまた──いつかね」


 それだけを口早に言い残し、さっさとキッチンへと繋がるドアの向こうへと消えてしまった女。

 それと入れ替わるように、カウンターの奥からトイレに行っていたはずの子供が彼女の姉に背を押されて男の元へと歩み寄って来た。

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