第七話『先行く者の助言・その2』

「驚いた。てっきり子守りの仕事でも始めたのかと──」

「それ、さっきも聞いたよ」


 対面に座る女の声を遮ってから、男は自分の店の倍はあろうかという高さを誇る天井を見上げる。ついで聞こえよがしに深く吐き出したため息が、つい10分ほど前に飲み込んだバニラの芳香を鼻孔へと蘇らせる。

 正午を過ぎて降っては止んでを繰り返し始めた雨が、ふたりの座る席に接した大窓に不規則な模様を描き出していた。ふたりは4人掛けのテーブルに対角線を取る形で座り、窓辺に頭を付けた男とその隣には、未だに片付けの済んでいない空の皿が残っている。そして通路に長い脚を出す形で横座りの姿勢を取る女の隣の椅子には、雑に丸められたままのエプロンが鎮座していた。


「人生何度目かの二度見をしちゃったわよ。キッチンから」


 カップを置いて空いた手をひらひらと振りながら女はどこか軽薄に、それでいて品性までは損なわれていない笑いを浮かべる。


「別に、そんな面白いもんでもねえだろう」


 何かしら含みのあるそんな態度に辟易したのか、男は前を向き直した眉間に深い皺を寄せながら半眼を返す。どうにもその反応が意外だったようで、女はとんでもないと言った様相で首を振った。


「手も引かないまま仏頂面で前を歩く男にどうみても血縁に見えない風体と歳の、その上明らかに丈の合ってない服を着させられている子供よ?どこからどうみても理由有りにしか見えないでしょうが」


 女はどこか尤もらしく聞こえる声色と共に腕を組んで、知った風に唸って見せる。この街、ともすればこの国中を見渡しても、この店が面する大通りより多くの人々が行き交う道は無いと言っていい。そこには単なる数の多さだけでなく根付く場所や勤める先、果てはルーツとなる血の多様さすらも意味合いに含まれている。

 人いきれの坩堝るつぼといっていいそんな場所で、長きにわたって営みを続ける女の目を以て尚異質に映ったという説得力。反論を封じられた口元を隠すべく、男は飲み残しの珈琲コーヒーを傾けて横目を滑らせる。

 その先にはきちんと戻された空の椅子。話の俎上に上がった子供はというと、慣れない外食への緊張と甘味への驚きから、食べ終わるなり何度も頭を下げて手洗いへ向かっていた。


「あいつはな──」


 どうせ、次に訊ねられるのはお互いの関係性だろう。喉を湿らせながら先に一言を置きつつ、男は頭の中で続くであろうやり取りを思い浮かべていく。市場のやり取りのように『常連の子供を預かっている』という説明だけで納得はしてくれないだろう、と踏んでいた。あの店主とは違って、一時期はを知った気にすらなっていた仲だ。信用はしてくれるだろうが、それはそれとして気になるところを全て潰すくらいの勢いで事情を深堀りされるだろう。

 それをどうやって納得させるか、あるいはボロが出ない内にさっさと店を去るか──しかし男のそんな苦心は、結論から言えば杞憂に終わった。


「奴隷、でしょ?」


 女はふいに纏う温度と声色を一段下げる。その声にはそれまでの弛緩した空気を一気に締めるような、槍のひと突きにも似た鋭さが宿っていた。

 喉元にその穂先を突きつけられ、男の目が見開かれて顎が跳ね上がる。遠く厨房の奥で、浅鍋の山を床へ落としたような派手な音が鳴った。それに眉ひとつ動かすことなく表情を消した女は薄く瞼を下ろした横目をそちらに向け、それきり何事もなかったかのように声を続ける。


「すぐわかったわよ。痩せぎすの身体にサイズの合ってない服。その襟元から覗く大きな傷と……色の消えた目ね」


 男には反論のしようがなかった。

 見抜かれることなどないだろうと高を括っていたので、そんな意識すら頭に存在していなかったと言い換えても良い。自分なりに苦心しつつ、子供の身丈に見合った服を見繕ってやったつもりだったし、事実店主からは出で立ちについて何かを言われることもなかった。

 にもかかわらず一瞬の交錯だけであっさりと看破されたのは、単に彼女勘の良さだけが理由ではない。恐らく、同じ性別を持つもの特有の見極めが働いたのだろう──その結論に辿り着いた男の頭からはもはや、ここにあってまだ関係性を偽れるなどという甘い見通しはすっかりと消えていた。


「決定的だったのは、さっきここへ座る前にすれ違った時。ずっと俯きがちに歩いている割に近づく眼と気配には恐ろしく敏感で、何かがある前に目線が会うのを避けつつ頭を下げる。そうしないとひどい目に遭うってでしょうよ」


 全て正鵠を射ている洞察を披露する女と、対照的に何も返せる言葉を持たないまま黙り込んでしまう男。そんなふたりが座るテーブルの横を、女と瓜二つの風貌を持ちつつ幾分か堅い服装に身を包んだ女性が客を連れ立って通り過ぎた。すれ違いざま互いに会釈だけを残した双子の姉が、常連を見送るべく店の外へ出て行くまで……男が再び口を開くにはそれだけの間が必要だった。


「……軽蔑するか?」

「まさか」


 着いた両肘の先で組んだ指で顔の下半分を隠し、窓の外へ目線を残したまま痩せた声を漏らす。そんな男へ鼻先だけで笑いを返しつつ、女は即座に答えてみせた。


「どうせあの商人から一時的に押し付けられたんでしょ?労働力としてだったら男を買うだろうし、かといってのためにわざわざあんな小さい子を選ぶような性癖してないでしょ?そんな懐の余裕もないだろうし」


 肩をすくめる女の胸元が、その動きに一拍遅れてゆさりと揺れる。生来の冷え性でありまた調理につきものである火傷から身を守るため、人前では常に纏っている厚手の長袖。その下にあるからだの形と心地を、男はよく見知っていた。 


「一言多いんだよ」 


 思い出したとたんに宿る顔の熱を逃がすように、男は声を尖らせる。だがそこに一切の険は籠っておらず、隠した口元は緩んでいた。女も誤解なくそれを受け取り、柔らかに目を細める。

 それは一時の気まずさから疎遠になり、久しく忘れていたやりとりの調子のせいだったが──しかし互いにそれを懐かしみ、その先にまた育む様な時間が用意されたわけではなかった。


「でも……いいえ、だからこそ疑問が残るのよ。そんなアンタがどうしてこんな残酷な事をしているのか」

「残酷、だと?」


 全く予想だにしていなかった言葉が差し挟まれ、男は思わず鸚鵡おうむに返す。

 気付けばそれまで女の顔に広がっていた柔和さは消え、静かに男へ向ける相貌には何かを見定めようとする眼光の鋭さが覗いていた。

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