第五話『不直視』
──
ふと男がそんな事を思ったのは食事の片づけを終えた後、湯浴みの為に外へ出て裏手の窯に火を入れた時だった。
この店を手掛けてくれた商人が遥か東方を旅した時、大層感銘を受けたという異国式の沸かし風呂。なかば無理やりに取り付けてくれたその設備の火を大きく、しかし木造の母屋に累を及ぼさない程度に調整するにはそれなりの時間と気配りを要する。『作業は単調ながら離れられない』という制約が余分な考えに気を回させたのか。あるいは庇から僅かにはみ出た背中に当たる、宵雨の冷たさを紛らわせたかったのか。それは男自身にも判別がつきかねるものだったが、その代わりとでも言うように奴隷の値付けに対する相場は厭というほど知っていた。
「あっつ!」
不意に窯の入り口で勢いよく火の粉が爆ぜて、男の襟元を目掛けて飛んだ。
燐光がちょうど喉元から左の脇腹へ袈裟懸けに走る古い傷跡の上に落ち、色の変わった皮膚を赤く上塗りする。傷跡はそこだけではなく、その濃淡を問わず服で覆い隠された体躯のあちこちに過去の証として残っていた。
久しく太平を謳歌していたこの国で、幼い頃に刻まれた数多の古傷が持つという意味。それは自ら語ることも知る者も少ない男の来歴を表していた。
……あいつは辣腕ながら、この上なく優秀な商人だ。
取れるところからは最大限の利益を叩き出す。恐らく客の出せる限界、と一般の商人が考える更に一歩先を踏み込んだ提示をするだろう。加えて今夜控えているのは、それなり大きな商談とも言っていた。
となればその売値が男の財布を軽く上回るのは想像に難くなかった。
──
窯の中では火種が少しずつその身を大きくしながら、しかしいまだ遠慮がちに揺らいでいる。それが自分の内心に思えて、思わず男はふいごから口を離して自虐じみた半笑いを鼻から漏らしていた。
放っておけばいい。どの道、俺にあの子の人生を変える
膝を曲げて炎を見つめ、男は何度も自分にそう言い聞かせる。その度に脳裏では食卓で見せた己の気まぐれと、それを受けた子供の光を失って久しい眼差しが蘇っていた。
ふいごに息を送っていくうちに、なんと残酷な事をしてしまったのだろうという呵責の念が膨らんでいく。
よかれた思った心だけが先走り、目を曇らせた末の愚行だったのか。
──でも、だけどよ。じゃあ何か?
隅っこを見ないふりしてひとりでフォーク握ってたら、もっとましな心地で風呂の支度が出来たのか?
馬鹿を言え。
次いで浮かんだその自問に答えを出すには、ふいごを置いた手が窯の戸を閉めるまでの数秒で充分だった。
そいつがどんな素性であろうと、腹を空かした奴を横目に自分だけ飯を食う料理人がどこにいる。
男は手袋を外し、煤の臭いが残る両手で勢いよく頬を叩いて立ち上がる。同時に窯の脇から伸びる管から立つ煙が、その勢いを増してきた。男は窯を離れ、再びその身を雨に濡らしながら母屋へと戻っていく。
歩き通して疲れているだろうが、子供はまだ意識を保っているだろうか。
いつか商人が置いていったまま忘れた物の中に、着替えに使える服があった筈だ。
客間の寝台を手入れする時間はなさそうだが、それなら少しの間だけ自分が我慢をすればいい話か。
巡らせる考えが気付かない内に歩調を落とさせ、その分男の身体を余計に冷やしていく。だがそんな事はお構いなしといった風に、前を向くその顔は窯の前に立っていた時とは別人のように凛としていた。
※ ※ ※
「いっきし!」
自室の扉を閉めて階段を降りたところで、それまで強い意志に突き動かされていた男の身体がようやく寒さを思い出していた。とはいえもう自らが浴びる分の湯は残っていない。となればそれ以外で暖を取る方法は──数秒の静止の後で思い立った男は厨房へと取って返し、戸棚の中から度の強い洋酒の瓶を手に取った。
「……しまった」
しかし持ち上げた際の軽さに嫌な予感を覚え、壁に添え付けられたランプの灯りに中身を透かして落胆の息を吐く。瓶の中身はそのほとんどを空虚で満たしており、僅かに残る琥珀の液体は本来の用途である香りづけに1、2度使えるかどうかといった量にまで減っていた。
ここの所の忙しさにかまけて、在庫の管理にまで気が回っていなかったか……心の中で昼間の自分へひとしきり叱責の声を投げた後、男は未練たらしく瓶の底を数度振ってから仕方なしに瓶を棚へと戻した。
厨房の火はとうに落としてしまっているので、代わりに湯を沸かして茶を煎じる事も出来ない。思案の果てに男は頭の中で幼少期に延々と歩かされた雪山を思い起こしつつ、あの頃と比べればとやせ我慢で身体の震えを抑え込みつつ厨房を後にした。
「寒っむ……」
売上も利益も悪くない。
だがやはり、誰かの行く末を変える桁には到底及ばない。
わかりきっていた事だ。だが、それでも。
男は自嘲にも聞こえる笑いを鼻から漏らして両腕を天井へ伸ばし、そのまま海老ぞりに椅子の背もたれへ持たれる。そうして逆さまになった景色の隅に、子供が外套代わりに纏っていたボロ布がくしゃりと丸められていた。
……俺も昔、あれと大差ないもん羽織って雪の中行軍してたっけ。
人生に無駄な経験なし、とはよく言ったものだ。
あの頃を思い出せばこんな寒さなど取るに足らないし、そこで『奴隷』の扱い方だってどんな立場よりも身近で目の当たりにしてきた。
だから「これ以上の施しは受けられない」と固辞する子供を風呂に入れる事も、着替えさせることも、そして自分の寝台へ寝かせてやる事も出来た。
従うと言質を取れた後も、子供の顔には戸惑いの色が浮かんでいた。しかしベッドでその眼を閉じるまで、命じられたこと自体を嫌悪する様子は見せなかった。
売られたばかりで置かれた立場や状況を理解してない内ならともかく、ある程度の自覚が芽生えた奴隷はそれがたとえ主人のものではなくとも、立場の異なる者が放つ強い命令には反射のような形で従ってしまう。それもまた男が経て来た、生きた学びのひとつだった。
今日の所は、ひとまずこれでいいだろう。
自らの言動に及第点をつけ、男は自らを労うために厨房へ取って返し、酒瓶を手に再び椅子へ腰かけて一息に煽る。
正しいかどうかではなく、俺がそうしたいから──ここにいる間だけでも、あの子をヒトとして扱う。男が下したその決断は半分、あるいはそれ以上に自分自身の為という側面が大きいものだった。
あの子供がここにいるのは後1日か、2日か。その間中碌なモノを食わせないまま、ただ薄暗い部屋の隅に転がせておく。それが他ならぬ自分が裁定した決め事であるという事実を頭に置いたまま普段と変わらない日々を送れるほど、男は自らを分別の良い方とは思ってはいなかった。
そして後悔や葛藤は、抱えた分だけ指先と舌先を鈍らせる。
それが絵画であれ音楽であれ──料理であれ、生み出すものに嘘は吐けないのが作り手という生き物なのだから。
「……だよな。旦那様」
僅かな酔いと疲れに回り始める視界の中、小さく小さく男は呟く。それは遠い昔、男を人間に戻してくれた恩人であり恩師が最初に授けてくれた教えだった。
たとえ幾多の国を跨ぐほどの大声だったとしても、今となっては絶対に本人の元へ届く事は無い言葉。応えたのは隅の方でぴしりと響いた、水を吸った木材の放つ家鳴りの音だけだった。
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