第四話『既定の交渉とその果て』
「……他に、充てはないんだな?」
雨脚と雨脚の間がはっきりとわかる程に引き延ばされた時間の果て、男の口から出たのはそんな言葉だった。
仔細を訊くなと言った商人の口ぶりと外を微かに動いた影のちらつきから、預け荷が面倒な何かであることは分かっている。そして長年の付き合いで気心の知れた間柄であるにも関わらずこんな予防線を張って掛かってきたということは、他の人間には扱いに悩んでいる事すら打ち明けられないのだろう。
男が商人へ向けたのはそこまで汲み取れてしまったが故の、確認の文句だった。普段から絶えず軽口と悪態を吐き合う
それもまた十二分に理解している男にとって、断るという選択肢は始めから無いも同然だった。
「本当?!助かるよ!」
……やっぱり早計だったか。
どこまでも軽薄さの拭いきれないその態度に、早速男の胸には後悔の念を過ぎり始めていた。
「いや、まだ引き受けるって……」
今更に過ぎる二の足を男が踏むが、その文句は再び温度を消し去った商人の表情を前に掻き消されてしまった。目の前の相手への認識を、旧知の友人から取引相手に改める──どころではない。その眼に宿る光は
「入りなさい」
首から上を窓の外へ向けて放たれた声色も同様に、風の無い砂丘のように感情の彩も声の起伏も切り落とされている。その落差を目の当たりにして、男の背筋に悪寒が走った。
心へ薄く塗り伸ばされていくかのような恐怖。久しく忘れていたその感覚に言葉を失っているうちに、ノブを握る『何か』の心情を表すようにゆっくりと、遠慮がちにドアが開いた。
──やっぱり、か。
開いたドアの向こうを見るなり、己の察しの良さを嘆い男が閉じた目で天井を仰ぐ。ややあって再び開かれた目には険が一杯に籠っており、それまで店を満たしていた弛緩した雰囲気から一転して空気が張り詰めていった。
「これが『荷物』ねぇ」
目線を天井から戻す途中で一瞥をくれて、男が吐き捨てるように呟く。
そこに立っていたのは、骨にようやく皮を張り付けたように痩せ細った子供だった。
商人の声を認めてドアに手を掛けるまで
纏っているそれが服と呼べるかも疑わしい出で立ちとは全く不釣り合いに、足元だけは真新しい靴が履かされている。しかしそれは商人の優しさの顕れなどでは決してなかった。裸足のまま外を歩けば足元に傷を負うし、そこから細菌が入れば歩けなくなることだってある。それを防ぐためだけの、いわば最低限の商品管理に過ぎない事も、男はまた見抜いていた。
「うん。宿には外に置いておくからって言ったんだけど、断られちゃってね」
「奴隷、か」
答える商人には一瞥もくれないまま──子供がドアから中に入り、おぼつかない足取りで明りも届かない隅に陣取る。それまでの僅かな間で、男は即座に子供の立場を見抜いていた。
「そ。わざわざ足代と宿代を出すのももったいないだろ?」
言外に『何の不思議が?』とでも問い返すように全く呵責も感じられない、淡々とした答えを返す商人。男はその声に込み上がる嫌悪と悪態を喉奥へ引っ込めるのに随分と心を砕く羽目になった。
その酷薄以外の何物でもない言動が、随分と相手の機嫌を損ねている。それくらいは当たり前に自覚しているのだろうが、それでも商人は軽い口調を微塵も変えずに続ける。
「加えて言えばもう1軒先に回るところがあってね。そこの方はこういうのに嫌悪を感じるタイプなんだ。連れ歩いている所を見られて無駄な不興を買いたくもない」
思わず足裏で一度床を強く叩き、男は勝手に歪む表情を無理やり元へと戻した。
奴は決してこちらを煽りたい訳ではない。そう心の中で繰り返し唱え、波立った心を落ち着けていく。
ひとたび仕入れたものとあれば、どこまでも『商品』として扱う。それは長く付き合う間で幾度か顔を覗かせた、彼を名商足らしめている性分のひとつに過ぎない。
第一、奴隷など今時別に珍しいものでもないだろう。
……ああ、そうさ。己を必死に納得させようとする苦心が顔にも出ていたのか、商人はいやいや、と言わんばかりに男の顔の前で手を横に振ってみせる。
「別にもてなしてくれって訳じゃないんだ。雨さえしのげれば外に出しておいても構わないからさ──」
そこで言葉を切って、じっと男を見つめる商人。出方を伺うように細める目線とは裏腹に、その心の中では既に返ってくる答えが分かりきっていた。だからこそ最後のひと押しに、敢えてもう一段の煽りを組み込んでいる。
「……店先で凍えられても迷惑だ。お前も価値が下がるのは本意じゃないんだろう」
そんな彼の腹積もりを
そんな自分への呆れを込めて溜息交じりに返した男を見て、言質を取れた商人がその顔に軽薄な笑みを張り付け直した。
「駆け引きにすらなってねぇ。商談上手ってか」
付け加えた皮肉で何も憚らずに恨みがましさを前面に出し、恨みがましい視線を投げつけてやる。そんな男に商人は腹の底から心外だと言わんばかりに、大仰に首を振ってみせた。
「君が冷酷な人間じゃないと信用しての事さ。それでも一応はお伺いを立てないと失礼だろ?」
「いいから飯食わねえならとっとと行けよ。俺だって腹減ってんだし風呂にも入りたい」
これ以上どんな皮肉を寄越したところで、こっちの神経が無駄にささくれ立つだけか。
「やや、言われなくとももう出て行くさ……それじゃ、頼んだよ」
その三白眼に込められた念から逃げるように傘を開きながらドアを開け、去り際に念押しだけをだけを残してさっさと宵闇へ溶けてしまった。
……さて、どうしたものかな。
厄介を払うようにしっかりと鍵を掛け直して、ひとり呟いてから男はすっかり静けさの戻った店の隅へと目を向ける。
そこには先ほどと一切姿勢を変えないまま、小さく震える肩を抱いた子供が汚れた布にくるまっていた。未だ床に滴を落とすほど濡れたせいで、その前髪はまるで簾のように額に張り付いている。
その間から覗く瞳はじっと男の首元あたりを見つめながら、誰に充てるわけでもなくとうに光の消え去って久しい乾きを訴えていた。
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